永久など無くてよかったさ
だから、言いたくなかったんだ。乙女は立ち去ろうとする自身の足にまとわりつく男、義昭を見下ろしている。おまけに涙なんか流しちゃって。振りほどこうとしたが、思いのほか力だけは強かった。自分が女性という存在であることが憎らしく感じる。こんな人間にすら敵わないなんて。

将軍様と呼ぶには情けない姿だ。彼が将軍としてかつぎ上げられた理由も、彼が戦うことを極端に嫌っていることも知っている。戦は野蛮なものであるのだと身を染みて実感させられるような境遇の中に彼はいる。だがそんな彼であっても、戦わねばならない時がやって来る。彼は今の地位を失くし、それでもまだ乱世というものは終わることを知らず深まってゆくのだ。

乙女はその時が来るまでに、ここから逃げようとしていた。

「元の世界に帰る方法が分かりました。今までお世話になりました」

世話になったのは本当だったが、乙女の言葉には感情が篭っていなかった。

だがそう告げた乙女の言葉を聞いて数秒静止した義昭は、次の瞬間には涙を浮かべていた。面倒だから、もうこのまま戻ってしまおうと乙女が立ち上がった途端、このザマだった。

「わ、私を置いていこうというのか……?」

「……そうですよ。だって、私はここにいるべきじゃありませんし」

乙女の言葉を、義昭は「この場は自分の身の丈にそぐわないから去ろうとしている」と解釈したらしい。乙女の足を掴む力を強め、義昭は叫んだ。

「た、確かにそなたにとっては、窮屈な所やも知れぬが……! だが私が良いと言っているのだ! お前が望むならば、全てその通りに……私ならばできる……! そなたの願いは全て聞く、だからお願いだ……!」

乙女はこの暮らしに飽きたわけでも、自分のような身分の人間が肩身を狭くしていることに悩んでいるわけでも、これ以上彼に何かを乞うているわけでもない。ただ自分の命が惜しいだけなのだ。

元の世界に帰れるといったとは、そう言えば義昭とて手出しができないだろうと思っただけのことだ。本当のところは、乙女が戻る方法は見つかっていなかった。嘘を吐いてまで義昭の元から離れようと考えるまで、昨今の義昭を取り巻く状況は望ましくないものになっている。

身一つで何ができるか分かったものではないが、少なくともここにいるよりは生き延びる手立てがあるはずだと乙女は考えていた。ただださえここにいては情報収集に差し支える。暇さえあれば義昭が相手をしろと言うからだ。義昭が将軍ではなく、そこら辺にいる民の一人であればこれでも良かった。

自分の知らないことを自覚し、知るという行為に恥じらいを見せない義昭に未来の話をするのは悪い気はしなかったし、乙女の目から見てもその時の彼は将軍などというその身に見合わぬ重荷を下ろすことができたいたように見えた。

だが彼といても安寧は掴めない。これは必要なことなのだ。嘘を吐いてでも、離れるべきなのだ。罪悪感は既に消した。拾ってもらった恩返しもろくに出来てなどいないが、もうそう言ったことを考える段階はとうに過ぎてしまった。

だから、義昭のこの言葉を聞いても乙女の心は揺れ動かなかった。

「……そのお言葉、昔だったら魅力的だったかもしれません。でも、もう無理ですよ。……諦めてください。義昭様」

義昭は未だ涙目のまま、乙女を見ている。だが彼女の態度が変わらぬことを悟ったのか、足を掴む力を緩めた。

「……本当の本当に、帰ってしまうのか……?」

「ええ。義昭様だって、将軍じゃなかった時のほうが、穏やかに過ごせていたでしょう? 私もそれと同じですよ」

義昭にとってこれは相当な一撃だったらしい。何も言い返せせぬまま、彼は跪いたまま乙女が部屋を出ていくのを見つめた。彼が跪くのは乙女の前ぐらいなものだった。




行く宛はないが、荷物を最低限まとめてから早く出ていこう。誰にも見つからないうちに。そういった乙女の打算は早くも崩れることになる。

「……元の世界に戻る算段が付いたのは真か」

許可も取らずにずけずけと部屋に入ってきたのは三淵だった。義昭が彼に頼み込んだものなら、三淵は些細なことでも全力を尽くす。乙女は三淵が義昭に忠誠を誓っている理由も詳しくは知らない。だがこの男以上に、主命であれば何をするにも抵抗など感じぬ者は見たことがなかった。彼に見つかった時点で詰みだ。そもそも初めから義昭にバラしたのが間違いだったのだ。

それでも、あのように薄情だと思われたとしても、最後に別れを言いたくなったのはまだ情が残っていたからだ。消したはずの罪悪感が微かに残っていたことに、乙女は自分でも驚いた。

「あ、あ……そうです、だから義昭様に報告をと思いまして」

「ならぬな」

「……あなたならそう言うと思ってましたけど」

三淵は先程乙女が義昭に対して向けていたものと同じような目付きをしている。何を言っても彼の意見が変わることはないだろう。

「本当に戻る方法が見つかった……身共には信じ難い」

「理由を聞かせてもらっても?」

乙女はあくまでもシラを切るつもりでいる。隙を見せるなど、この男の前ではできるはずもない。

「お主の言葉はかねがね上様から拝聴している。そのように私物を整理する必要もありはしないのではないか? この世のあらゆるものはそなたの言う未来では必要のないものばかりだと。今のお主が持ち出そうとしているものは、この世の生活に必要なものばかりではないか」

義昭が三淵を異様に信頼している理由。その片鱗が見えた気がした。そして同時に、やはり義昭は危険な人間だとも乙女は思う。何を言うにも情報を横流しされているなんて。三淵の言うことは正論だ。彼からすれば、この生活を捨てようとする乙女の行為は非合理的で無駄なものでしかない。

「三淵様には敵いませんねえ。そうですよ、元の世界に戻る方法なんて何にも分かってません」

「嘘を言ってまで上様から離れようとは……」

「だって、信長さんが来たら私死んじゃいます。死にたくなーい」

開き直って、乙女はおどけてみせた。義昭はこの京をやがて追放される。それだけならまだ許せたとして、三淵たちと一緒に死ぬことだけはごめんだ。乙女の真意までは、三淵が読み取ることなど不可能だ。いくら未来にはこんな便利なものがあるとかなんとか言っている乙女でも、あなたは死にますよ、なんて言えるはずもない。

三淵は大きく、わざとらしい溜息を吐いた。義昭の前では絶対にしないような仕草だった。

「癪だが、身共とてお主を死なせるわけにはいかぬと存じている」

「嘘だあ。三淵さん……いえ、三淵様は私のことなんか何とも思ってないでしょ」

「その通り。お主を守るとは金輪際思わぬ。だがお主とて分かるだろう。上様の悲しみが」

「分かりますけど、私がいなくてもなんとかなりますって」

「ならぬ。上様はお主といることを望んでいる」

三淵の顔が険しくなる。彼は乙女が何と願ったとしても、それを聞き入れることは一切ない。乙女を手放したくないのは乙女への情ではなく義昭を慈しんでいることによるものだ。そうすることで、三淵は己の存在意義を保とうとしている。三淵も義昭も、自分のことしか考えない阿呆だ。乙女はここにはこんな身勝手な人間しかいないのかと悲しくなった。元の世界に帰るために手伝ってくれと打ち明けてもろくに相手をされなかった日のことを思い出した。ずっとこうなのだ。やはり、逃れられる方法はないのかもしれない。

「……今はあなたがいるからとりあえず諦めますけど。もし私が勝手に出ていこうとしたら、どうします?」

「見つけ出して、足枷でも付けてやろう。身共は上様とお主を繋ぎ止めるためならば容赦はせぬ」

「怖いですねえ。……やっぱり無理かあ」

「大体、その身ひとつで何もできまい。その体を大事にしたいのならば、身共の言葉に従うのが懸命だろう。ここにいるのがお主の享受できる最大限の幸福ではないのか」

「……あなたのことはともかく、義昭様のことは嫌いじゃないんですけどね。やっぱり、私血を見たくないので。そういう世界には生きていないんですよ、私」

義昭に話をせがまれるのは、自分が何か偉大な存在になったかのようで気分が良かった。義昭は弟のようだったし、乙女もこの世で味わうことができる数少ない娯楽が彼との会話だったと思っている。

平和に暮らしたいだけだ。それができる未来は来ないと知っているから、義昭を突き放そうとしているだけなのだ。

三淵は相変わらず乙女を見下して突っ立っているだけだったが、何を思ったのか急に跪いてみせた。この、義昭以外には自尊心の塊のような誇り高き男が。すぐに人を下郎呼ばわりするような男が、義昭以外に屈するなんて。それもふざけた態度を向けるような己に。乙女は狼狽えた。

「え」

「身共がこの身を捧げるのは足利将軍家のみと誓っている。そこは変わらぬが……お主もその一員のようなものだ。この先我らが窮地に立とうが、上様と、そしてお主だけは身共の命を持ってお救いすることを誓う」

実際、そうなってしまうんだろうなあ。乙女は頭を下げている三淵を見て、暫く動くことができなかった。彼は死ぬ。これは確実なことだ。それは義昭がため。決して、自分のような存在の為ではない。そう思っていたのに。

いいのだろうか。急な三淵の変容に、乙女は迷いが生じた。彼を信じて、その先は。

義昭のことを思い返す。本当に自分は必要とされているのだ。きっと。一番の目的は、この先どれだけこの世に未練が残ったとしても、元の世界に帰ること。その次の目的は、この乱世を生き抜くこと。二番目の目的を達するための擁護を三淵は自ら申し出ている。

これは、一番の目的ではないのだ。元の世界に帰れる方法が本当に分かったのならば、その時は何が何でも帰らせてもらう。それまでの辛抱ならば我慢してもいい。義昭の涙と、あの三淵がここまでやるという誠意に免じて、だ。

「……そこまで言うのならば、本当に守ってくださいよ。顔、上げてください」

三淵はやっと顔を上げた。変わらずの仏頂面だったが、何だか彼が頭を下げる姿を見るよりはこの偉そうな面を見る方がずっといいと乙女は思った。

「身共に二言はない」

「どうせあなたの目を掻い潜っても捕まっちゃう気がするし、いいですよ。『元の世界に帰る』のは取りやめです」

「……感謝する」

三淵が素直に意を示すなんて槍が、いや彼に即するならば薙刀が降りそうだと乙女は笑った。





「帰らぬというのは、真実か……?」

義昭の元にやって来た乙女に、彼は恐る恐る尋ねた。きっと、三淵から聞いたのだろう。あれだけ冷たくされた後なのだ、彼がこんな態度を取ってしまうのも無理はない。乙女は、やっぱりあのように突き放すのは良くなかったかと頭をかいた。

「……やっぱり、義昭様には私がいないとなあって」

「乙女……!」

乙女は大したことは特に言っていないつもりだった。しかし、義昭の目には昨日目にした時と同じように涙が浮かんでいる。餓鬼のようだ、と乙女は将軍に向ける言葉とは程遠い感想を抱いた。

「そなたがいない生活など最早考えられぬのだ、そなたは私の一部同然なのだから……」

昨日以上に泣きじゃくる義昭を見る。思っているよりも依存されているようだ。

元の世界に帰る方法が本当に見つかるまで彼と共に生きようなんて、思ってもみなかったことを実現しようとしている。

「やっぱり私も甘いなあ、なんて」

情けなくも見える義昭の姿を見ていると、なぜだか乗り越えられるような気がするのだから不思議だ。どうせなら義昭と、ついでに三淵も一緒に未来に連れていくことができればよいのにと考えながら、乙女は義昭の頬の涙を拭うべく指を伸ばした。

(20251014)
mainへ
topへ