この恋がきみを傷つけなかったときがあったなら
「……本当に良かったのか?」
「何が」
「その……俺と付き合っていることがだ」
「あなたにしては弱気ね」
「弱気にもなるだろう」
「なぜ?」
「前にも言ったが、俺はお前にとっては許されざる行いをした男だからだ」
「……ふうん」
官兵衛の言葉に対して、乙女は一見冷ややかともとれる声色で返した。彼女が声を掛けられるまで黙っている姿を見て、官兵衛は自分にも彼女の心情は見通せぬのだと心底落ち込んだ。
彼の印象に残っていた彼女といえば山崎で鬼のように叫び、力の限り槍を振るう姿で、こうやって面と向かって話をしたこともほとんど記憶になかった。
乙女は明智に仕える人間で、共に信長の陪臣でありながらもこれといった関わりがなかった。関わりがあるといえば、山崎で直接刃を交えた思い出くらいだ。それは思い出などという生易しいものでは済まされない。最後に官兵衛が見た乙女の光景は、最後の力を絞って肩口に矢を受けながらも敵の追尾を振り切っていったというものだった。それからの乙女は自害したのだと官兵衛は聞いていたが、遺体は見つからず本当のところは分からなかった。
それがどういう因果を辿ったのか、乙女も官兵衛もこの現代日本にあり、二人は恋仲にある。かつての同勢力として位置する人間、そして後には敵として対峙した姿しか知らなかった官兵衛は、彼女が何をするわけでもないまま傘を差して電車を待っているだとか、散歩されている犬を見かけて微笑ましく見守っているといった些細な行動に惹かれていった。前世が前世であるから受け入れてもらえないとしても悔いはないと官兵衛は思ったものだが、現実はそうならなかった。
乙女は官兵衛の告白をすんなり受け入れた。二人で現代人らしい、恋人という関係性を築き続けているものの、人の心、そこに隠された策略を見通すことに長けていたはずの官兵衛すらこれは許されることなのだろうかと疑念を抱き続けている。
乙女も、前世の記憶は持っているままなのだ。そうであるのに、彼女は官兵衛が山崎の地で戦ったことを口に出してもろくな言葉を返さなかった。「あなたの活躍は当時からよく聞いていた。有岡城で幽閉されていたことも。よく耐えたものだと思った」「……あれは、助けがあってこそだ。もし誰も来なければ、俺は……」 官兵衛は自分の話をしたいのではなく、彼女の話をしたかった。「難敵にも臆することのない知略。あの状況でも諦めぬ不屈の心。あなたが信頼されていたのも頷ける」乙女は、誰に信頼されていたかとわざわざ口には出さなかった。それは言わなくても分かるものだからなのか、彼女が秀吉という男を恨んでいるからなのか、官兵衛は分からなかった。
分からない事だらけなのだ。付き合うようになってから、いやそれ以前からも、現代を生きる女としての彼女のことはよく見知っている。だからこうした関係性を手に入れた。しかし、前世と地続きになった彼女という存在を考えると、必ずしも分かり合えているわけではない。むしろ、それとは程遠い。過去のしがらみがなければ、官兵衛は何も悩まずに済んだ。自らの慧眼が通じぬことに焦りを感じることもなかったはずだ。
「お前に告白を受け入れてもらったとき、俺はそこで初めて自分が傲岸であることを知った。俺は自分の選択が誤ったものではないと信じ続けていた。俺に出来ぬことなどないと思っていた。だがそれは違った。俺は自分の罪と向き合う必要があった」
「あなたは何の罪も背負っていないでしょう。正義の名のもとに謀反人を討とうとしただけ。それが乱世の倣い。そして、今は乱世なんかではないのだから、考えるだけ無駄なことでしょう」
「確かに、そうかもしれないが……」
「あなたは私があなたの恋人であるという事実を受け入れ、恋人として何ができるかを考えるべきではないの? あなたが私に受け入れることを願ったというのに、あなた自身が放棄するのは道理ではない」
乙女がこの会話において遥か優位に立っている。官兵衛は自らの自尊心が砕けることになろうとも、彼女の言葉を素直に胸に刻もうとしている。乙女の言っていることは正しい。それには違いない。付き合ってほしいなどと、前世では口が裂けても言えなかったようなことを恥も知らない顔をして言い放ち、受け入れて「いただいた」立場であるにも関わらずまだ彼女を疑うような真似をしている。乙女が、官兵衛に恋人なのだから何をできるかを考えることを強いる。……つまり、何をして自分を喜ばすことができるのかをくよくよ悩む前にさっさと考えろと言っている。反論の余地は何もない。
どうして素直に今の彼女を喜ばしく迎えることができないのだろうか。全て自分がそうありたいと願って、それが叶っただけのことなのだから、彼女の言う通り先のことを想えば良いだけのことなのだ。先のことを見通すことこそ、官兵衛の得意分野であるはずだ。それが軍師というもののはずだった。
「…………」
だというのに、官兵衛の頭には何も浮かんでこなかった。デートにだって何回も行ったことがある。乙女は楽しんでいた。官兵衛が今のように辛気臭いことを言わなければ、乙女だって年頃の女として生きることができている。それでも今の官兵衛は、彼女があの戦いをどう思っているのか、本当のところを知りたいがあまり、それ以外のことを思い描くことができなかった。それでも、面と向かって聞くこともできなかった。
乙女と共に勝竜寺城で戦っていた男、斎藤利三の最期を見届けたのもまた官兵衛だった。その事が胸に引っかかり続けている。武士としてこれ以上もないといえるほど立派な最期だった。 乙女が決死の覚悟で槍を振るったのは、彼の仇を取るためでもあったはずなのだ。それを思えば思うほど、官兵衛はさらに自分に言えることはないのだと萎縮した。
「教えてあげてもいいわ。私が何を思ってあなたと付き合っているのか」
乙女が椅子から立ち上がる。勢いよく立ち上がったせいで、未だほとんど口が付けられていない紅茶が大きく揺れた。
乙女を見上げる官兵衛は、彼女が何をするつもりなのか全く予測が付かなかった。つくづく、かつての頭脳が衰えてしまっているのではないかと感じさせられた。
つかつかと机を隔てたもう一方の椅子に近寄り、 乙女は官兵衛の胸ぐらを掴んだ。その衝撃、彼女の顔がずいと近づく様子に官兵衛は思わず目を閉じた。だが乙女が口付けを交わし、あまつさえ無理矢理舌をねじ込んできたことに再び胸を殴られたような激情を感じ、官兵衛は目を見開いた。頭が瞬時に沸騰し、熱に浮かされたようだった。
大いなる情愛を感じ全てを委ねようとしたとき、官兵衛はまたもや酷く仰天することとなった。乙女は舌を合わせるどころか、思い切り噛んできたのだ。官兵衛は予想だにしなかった攻撃に、くぐもった声を上げた。
「……っは、い、いきなり何を……」
乙女は散々官兵衛を弄んで、満足したのか唇を離すと同時に胸ぐらを掴むのも辞めた。官兵衛の口内には血の味が広がった。とんでもない行為をやってのけた乙女を見たまま、うるさく響く心臓の鼓動を鳴り止ませることなど不可能だった。
「私はあなたの事が好きだし、好きだからこういうこともできるけど。目の前で同志を殺されたことは何度生まれ変わっても忘れられない」
「……あ、ああ……」
「いつでもあなたを……痛みつけることができる。こんな感じにね。それは愛憎、どちらも併せ持っているから」
未だに痛む舌。だがあの時乙女が味わった痛みはこの比ではないのだ。官兵衛は生娘のように頬を紅潮させている。 唇や舌の温度を感じたことによるものだけではなかった。乙女の、生まれ変わっても忘れることのない怨念を垣間見えたことが何よりも嬉しかった。 これが当たり前なのだ。恨まれてしかるべきなのだ。彼女が何の考えもなく、過去のことを全て無きものだとしていたわけではないということが官兵衛を震わせた。乙女と同じく、官兵衛も大概どうかしていた。
「これで満足?」
舌を出して自身を見下ろす乙女に、官兵衛はただ首を振って肯定した。
「……それでこそ、 乙女だ。俺はお前が今もその気持ちを宿しているのだと、ただ知りたかっただけなのかもしれない」
「それでも、私のこと……これまで通り、好きだって言える?」
「勿論だ。むしろ、前にも増して燃えている」
「……じゃあ、今度は優しくしてあげる」
乙女は官兵衛の顎を掴んで、ゆっくりと上を向かせた後、再び口付けた。もう血の味はしなかった。
(20251009)