私を愛してつらくはないか
厳島の戦いは壮絶なものだった。乙女は夫である隆景とともに豪雨の中を進軍し奇襲を行った。陶軍は散り散りになり、彼らが船を奪い合い溺死する光景をも見ることとなった。聞くところによると、敵は退却のために火を放ち、隆景の兄元春は厳島神社への延焼を危惧して消火に勤しんだという。

戦いというものはいつも残酷だ。尊い命は数え切れないほど失われる。戦後の処理に追われながら、乙女はかつて味方や敵として生きていた、もう動くことのない無数の体を見ている。

元就の命で島でその命を落とした人間を残らず向こう岸へと運んでいる乙女は、同じ作業を進めている隆景に向かって呟いた。

「……こんなことを言うべきではないと、分かっているのですが」

「はい。なんでしょう」

隆景は平然としている。人の死にはもう慣れてしまっている。それが当たり前のことであるし、彼がいることによって乙女の正気は保たれているのだと言っていい。

「やっぱり、怖いと思ってしまいます」

「怖い?……あなたに無理を強いるのはよくありません。対岸の将にも伝えて、あなたを先に送りましょうか」

隆景は穏やかで、少なくとも乙女は彼の怒った姿を見たことがない。その知で小早川家を統一し、その過程で二人は結ばれた。以来側室も娶らずに彼は乙女ただ一人を妻としている。

妻を案じるのは当たり前のことだと彼は言う。それは、間違っていない。けれども、少し彼の言うことは的外れだと乙女は思った。それは自身の言葉が足りないことが原因でしかないので、わざわざそこを指摘するまでもない。ただ彼はどんな状況でも思慮深く、先のことを考えながらも今と向き合うことを忘れないでいるだけだ。

「いえ……そうではありません。私は近しい人間の死というものも、それなりに経験したつもりです。皆必死に戦っている。それを否定するつもりもない。でも、もし自分の子が、ですよ。戦場で死んでしまうとなれば、耐えられる気がしないのです」

雨は血を洗い流す。とはいえ、この地にこびり付いてしまった血は簡単には消えなかった。血が染み込んだ土は全て削ぎ、境内に付いた血も全て清めた。全ての行為を通して、乙女は死を最も身近に感じた。

乙女はまだ子を宿してなどいない。それでも、仮定の未来を考える程度に、生と死について考えざるを得ない状況に感じ入っている。自らもこの戦いで武器を振るい、この世に生まれ落ちた命を刈り取り、夫の助けとなったにも関わらずだ。自らのことを棚に上げて、まだ訪れてすらいないその時について乙女は思いを巡らせている。その末路のうち最も最悪であるものを想像してしまったのだった。

死と向き合いたくないのならば、大人しく屋敷で役目を果たせば済むだけの話だ。そう思っていても、隆景ならば自分の考えを甘えだと一蹴しないという微かな自信が乙女にはある。

「あなたがそう思うのは当然のことです。怖いと思うのも、無理はありません。それは失ってはいけない大切な感情ですよ。人間が抱く、ごく当たり前のものですから。あなたの立場なら尚更」

「戦いの結果、このようなことを考えるのは傲慢ではないのでしょうか。私は勇気がないのかもしれない」

隆景の言葉は真っ当なものだ。それでもまだ、乙女は上手く納得できなかった。皆、死を恐れる気持ちを抱きつつも戦っているというのに。子を産むことができるという性質を持ち合わせているからといって、これは看過できるものなのだろうかと。

「あなたのような人がここにいるからこそ、私のような軍師は犠牲を最小限に抑えるような策
を編み出さなければいけないと強く感じるのです。戦いなど、人死にが少なくて悪い……なんてことは決してないのですから」

隆景は、手に付いた泥や砂を落とそうと払ったが、まだ雨で湿っていたために上手く落とすことができなかった。

乙女も同じようにしたが、やはり汚れは落ちないままだった。









「……眠れないのですか」

乙女が寝付けずに寝返りを繰り返していたある日、隆景は口を開いた。ここのところ、乙女はあまり眠ることができていなかった。隆景もそれは察していたはずだ。乙女はバツが悪く、隆景から顔を背け背中を向けている。

「不安で眠れないのです」

「私にも話せないようなことですか」

「……いいえ。かつての厳島で。いずれ産まれる子が戦地で死ぬことを想像して怖くなったと私が言ったことを……覚えていますか」

「はい。はっきりと覚えています」

隆景が怒った姿を、乙女は厳島でのやり取りを経て月日が過ぎた今になってもなお、未だに見たことがなかった。同時に、必要以上に落ち込むことも、悲しむことも。今も至って穏やかで、自身の睡眠を妨げられていることを気にもしていない。ただ隣で眠れずにいる妻、今は目さえ合わさないようなこの女の親身になろうとしているだけだ。

「言霊の力が恐ろしく感じるのです。私があの時あのようなことを言ったから……私は子を成すことができないのだと。隆景様……私にだけ、構う必要はないのですよ」

明日が来なければよいと思う。それは、乙女が妻の役目を果たすことができていないと悔やんでいることによるものだ。あの時、死を恐れる発言をした自身に、子を孕む資格などないのだと乙女は日に日に思うようになった。生死は紙一重だ。常に両隣にある。戦で失わずとも、子を幼いまま病で失うことなどありふれている。それに向き合わずにいるから、生の予感すら訪れずにいる。

辛い思いをするだけでなく、謗られるのもまた乙女だけの話ではないのだ。隆景が側室を娶ることを勧められているという噂は、乙女も聞いていた。余計に不安が募っている。

「私は、あなたのもう一つの発言も覚えていますよ」

「もう一つ……?」

「私には勇気がない。あなたはそう仰いました。それは、私もですよ」

「……隆景様も?」

「私にも勇気など、全くありませんよ。勇気がないから、あなた以外の妻の存在など考えられないのです。誰に何を言われようとも。あなた以外に向ける言葉を、これだけ本を読んでいても私は思い浮かべることすらできないのですから」

「隆景様……」

「あなたの不安を全て取り除くことができるか……それは、まだ答えを見つけるには至りません。ですが、私があなたの言葉を、あなた自身を好いているということ。それは子がいるかいないか……そんな些細なことで変わってしまうものでは、決してないのですよ」

隆景は未だ背を向ける乙女のことを抱き寄せることもなく、目を合わせない彼女の背中に向かってそう囁いた。無理にその視線を合わせようと強いることのない隆景に乙女は安堵した。

そして隆景が、ずっと前のあのやり取りを胸に留めているという事実も、また乙女を落ち着かせた。ここのところ抱えていた悩み全ては消えない。結局は乙女が解決しなければならないことで、隆景はそれの道筋を示しただけに過ぎないのだ。

「今夜は、昨日より眠ることができるかもしれません。……随分と単純ですね、私」

「単純であることは悪いことではありません。人の思想というものは、中々変えられるものではないのですから。……人の意見を素直に受け入れるということは、とても難しいことです。私の言葉があなたに良い影響を与えることができたのならば、それほど喜ばしいことはありませんよ」

乙女は目を閉じる。

「私はあなたの戦友である以前に、たった一人の夫なのですから」

隆景の言葉を反芻して、自分もたった一人の妻として生きようと乙女は思った。隆景の大気に勇気づけられつつ、微睡んだ。

(20251005)
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