手遅れのまま氷りついた初恋は
姉川で乙女は織田に屈した。信長は残虐な人間だ。盟約を破り朝倉を攻め、そして朝倉に与することを決めた浅井もろとも滅ぼそうとしている。為す術はなかった。殺されるか、降伏するかの二択しかない。そして乙女は後者を選び、織田に降った。浅井を裏切ったことが幸をなし、かつての味方は総崩れとなった。
戦の前、長政と二人で交わした会話を乙女は思い出していた。あの戦いまでは、敬愛する主君だったというのに。
「……織田信長と、本当に手を取り合える未来が来ると思いますか」
乙女は主君の優しすぎる一面を危惧していた。いくら義理の兄とはいえ今は敵でしかない。信長は金ヶ崎の復讐にやって来る。待っているのは平和とは程遠い未来だ。
そう思っているのは乙女だけではない。だというのに、長政は真剣な顔をしている彼女を笑い飛ばした。
「来るに決まっているさ。義兄上もきっと、分かってくださる時が来る。この乱世に必要なのは絆と優しさだと」
「その義兄上と戦うのは初めてではないのですよ。金ヶ崎で決着を付けられなかった時から我らの運命はねじ曲がってしまったのです。朝倉に肩入れする大きな理由もなかったというのに。初めから信長に味方していれば、或いは……そう言った未来もあったかもしれませんけれど」
「だがそれがしは、朝倉への義を捨てる訳にはいかないのだ。その義を果たしてこそ、義兄上と共に歩むことができる。戦のない平和な世を」
おめでたい人だ。長政は心の底から、信長と和解できる未来があると信じている。だが、この乱世の中でこのようなまでに純朴で、子供のように無茶をすることも辞さない、そんな長政だからこそ、主君として奉じる意味があった。加えて。
叶わぬ願いだからこそ、夢を見る。そして、悲しむのは自分だけで十分だと思う。お市の心を酷く傷つけるようなことを平気でするこの男のことを、どうにかして思い知らせてやりたいとさえ思う。
こんなことを考えるのは異常だ。だがそうさせたのは長政なのだ。乙女はやりきれない怒りを抱えたまま長政の元から去った。これが最後の会話だった。
「お前さんは、何で長政のことを裏切ったんじゃ? 命欲しさに逃げ出すような人間にも見えん。ま、お前さんのおかげで軍を簡単に進めることができた、というのは感謝せにゃいかん。けど純粋に気になるんじゃ。お前さんの動機を、な」
裏切り者に対する風当たりは厳しい。だが秀吉は乙女にも分け隔てなく接していた。行動理念が分かりやすい男だ。……長政と違って。乙女も秀吉が相手ならば、と理由を話すことにした。浅井が織田と共闘していた時から顔を見知っていた男だから、随分と話しやすい。それにわざわざ理由を隠す利点も特にないし、秀吉が変に乙女の言葉を誇張して言いふらすような男にも見えなかったから、その点に関してわざわざ思い悩むこともなかった。
「私……長政様に思い知らせてやりたいのです。あなたの選択が、お市様を、皆を苦しめてしまったということを。浅井が織田と協力し合うことだってできたはずなのに、自らそれを手放した長政様は馬鹿だ」
主を罵る罪悪感はある。だが本音でもある。お市の代わりになれたら良かったとどれ程感じたことか。だがそれは本当にお市のことを慮って言っているわけでもない。自分の欲を満たしたいが為のものだ。
乙女の言葉を聞いて、秀吉は威勢のいい笑い声を上げた。長政と同じく快活ではあるが、それでも全然違うものだと乙女は思った。長政の声を聞きたくなった。ただ秀吉は良い人かもしれないと思ったし、織田軍にもこのように柔軟で人を惹きつける魅力を持つ人がいると知れたのは僥倖だ。
「わしもな、お市様のことを思うと胸が痛むんさ。わしと結ばれていればこのようなことには………と思うくらいにな」
「奇遇ですね。私もお市様が浅井に嫁ぐことなく、ずっと織田にいれば……と思ったこと、何度もありますよ」
「つまり、わしらは同じ志を持つ、ということじゃな?……と言いたいところだが、な。お前さんが長政に抱いとるのはそれだけじゃあない。……どうじゃ? 当たりか?」
そして、良い人という言葉では計り知れない凄みがある。その笑みの下では常に打算がある。……この男は出世するだろう。乙女は彼と同じように人好きのする笑顔を精一杯秀吉に見せつけた。
「言うだけ無駄ですけど。長政様と結ばれたのがお市様じゃなくて、私だったら良かったのに……と、ずうっと思っているのですよ」
そう言った途端、秀吉は再び屈託のない笑みを湛えた。食えない男だった。
「なんじゃ、やっぱり同じなんか! ますますお前さんを気に入った! 戦場で轡を並べるのも楽しみってもんじゃ!」
秀吉は乙女の肩を叩いて、どこかに行ってしまった。秀吉はお市のことを好いていて、(とは言ってもこの男は見境のない女好きであるので、乙女としては半分冗談、本気のものだとも思っていない) 乙女は長政とどうにかなることを望んでいる。後ろ盾にはなり得ないが、織田軍内における居場所は確保できた気がした。
後に秀吉が乙女に接触したのは常と同じように女を口説くためだったと本人から聞いた。それでも結局口説かったのはなぜかと尋ねたところ。「お前さんの長政への気持ちが尋常じゃあなさすぎる。あれを口説けと? 無理も休み休みいえってもんじゃ!」と彼は臆することもなく言った。面白くはあったので、乙女は秀吉に酒を奢った。
織田の攻め手は止むことがなかった。長政が、自分でなければ守ることはできぬと言った朝倉義景は自害し、朝倉は滅んだ。長政は守るべき義を失った。そして、長政は決戦を前にしてお市を織田へと戻した。長政は貫くべき愛の寄る辺も捨て去った。
小谷は既に幾重にも包囲されている。長政はそれでも戦おうとしていた。
「長政を説得できるのはお前さんしかおらん。どうか、引き受けてもらえんか」
「……そう言ってますけど。私を使者に推薦したのは秀吉殿でしょう」
「お前さんには、お見通しっちゅうもんか。酷なことでもあるが、長政に直接会うことはお前さんにとっての救いにもなる……わしは、そう思う」
「礼は言っておきますよ、秀吉殿」
こうして乙女は、長政への降伏を促すための使者となった。秀吉の差し金なのは初めから分かっている。信長を納得させることができるのも彼の手腕があってのことだろう。どうせ長政は己の内に眠る、既に表からは消え去ってしまった義と愛に殉じるつもりなのだ。ずっと長政のことを見てきたから彼が何と言うか、予測することは容易だった。
「長政様。お久しぶりでございます」
「……よく来たな、乙女。そなたに渡したいものがあるのだ」
「私が何をしに来たのか、分からないはずありませんよね。それなのに……」
「いいんだ。これはそなたに渡さなければ意味がないもの。丁度いい、ただそれだけのことだ」
最後に会った頃と、長政は何も変わっていなかった。心の底から信長のことを信じ続けているかのように。
「これを、そなたに」
「……これは?」
「感状だ。これまでの働きを記したのだ」
「私、こんなのいりませんって」
「分かっている。これはそれがしのわがままだということも。だがそなたの功績は無視できるものではない」
「私、あなたを裏切ったのに」
感状は、武士が再登用される際に重要視されるものだ。だが乙女にはもう必要がないものだ。これまで、乙女は長政以外に仕えるなど有り得ないことだかこれをと固辞してきた。それを気に病んでいたのだろうか。
それにしたって、今更こんな紙切れは何の効力も持たないのだ。それを分かっていて長政は乙女に渡そうとしている。どこまでも真っ直ぐで、お人好しだ。裏切り者の功をも忘れることができない人なのだ。
「だが、そなたの気持ちは十分分かっているつもりだ」
こんなときまで、その優しい言葉を使わないで。乙女は差し出された感状を破きたくなって、結局そこには至らずに渋々懐にしまった。嫌いになれたら楽だった。だがそれにはどうやってもたどり着けない。
「私の気持ち……いえ、私が言いたいことを分かっていても、織田には降らないのでしょう」
長政は頷いた。絶望を知らぬ瞳をしている。
説得は無理だ。乙女は精々「ご武運を」ということしかできなかった。
「……最後に。もう一つ、渡すものがある」
「何ですか」
「以前、市はそれがしのためにお守りを作ってくれた。その礼として、それがしも見よう見まねで作ったものだ。……どうか、市に渡してほしい」
長政の作ったお守りは、拙いものだった。だがそこには見た目だけでは伝わらない、彼の市を想う気持ちが込められている。
「……承りましたよ」
「感謝する。戦いが終われば、またそなたと笑える日も来るだろう」
最後まで、強いひとだった。
乙女は感状と共に、お守りも懐にしまい込んだ。お市に渡そうとは思わなかった。最低なことをしているのは分かっている。だがどうしても、長政の温もりが籠るこれを手放したくなかった。自分に向けられるものでなかったとしてもだ。お市が羨ましかった。最期くらいは、独り占めしたかった。
乙女は主君とは異なり、ついにその愛を捨てることができなかった。
「どうじゃった……と聞くも野暮っちゅうもんか」
秀吉も、初めから結末は見えているはずだ。乙女は首を振った。それだけで伝わったようだった。
「秀吉殿」
「なんじゃ、乙女」
「片思いって、辛いものですね」
(20250927)