旅ゆく人には餞別を
付近で大きな戦が起こったらしい。乙女は今や父の遺品となった金品や反物を譲る代わりに、近隣の村の住民から貰い受けた食べ物を抱えながらそのことを考えていた。雨の中重いものを抱えて歩くのは慣れている。しかし、一人である寂しさはどうにもならない。ここもじきに巻き込まれるかもしれない。時に武士は平気で民の住む村も焼く。しかし、父の遺品がまだ手の内にあるまでここを離れるわけにはいかなかった。まだここで生活を続ける余地がある。父が生きていたころならともかく、一人となった乙女が自衛の手段も持たずに世を渡り歩くほど、乱世に生きる人間は優しくなどない。

父の遺品を手放すのも辛かったが、それも生きるためだと割り切っている。乙女は早く戦が終わることだけを祈った。せめて民の命が失われることのないように。世話になっている人間の死をこれ以上見届けることがないように。乙女はこのあばら家に似つかぬ金銀財宝を見た。もし武士がここに攻めいればこれら全てを奪われるだろう。だがやはり、これらを抱えて逃げるほどの勇気もなかった。

雨が止む気配はなかった。乙女は眠りにつき、次の日目覚めたきっかけは雨の音がやけに耳に入ったからだった。その日の夜のことだ。乙女が住んでいる家は村の離れにある。普通ならば誰も寄り付かないところにある。金を出せばましな家に住むこともできたが、乙女の父は彼女の将来のことを考え金品をここには使わずに生活に使えと遺したのだった。雨の音はよく聞こえるし、雨漏りもする。そして、人が歩けば地面を踏む音が聞こえる。

乙女は身構えた。誰かが近くにいる。足音からすれば一人。その足音は不安定だ。両足の均衡を保つことができていないかのように。怪我をしているのか? 乙女は躊躇して、それでも興味津々だった。村を襲う敗残兵ではないようだ。戦いに必要だからと物資を根こそぎ奪うような武士でもない。乙女は家の外に出た。警戒心よりも好奇心が湧いた。それは受け継いだ商人の血かもしれなかった。

「……人が、いたか」

乙女の目の前にいたのは、体の至る所に傷を負う男だった。未だに傷が塞がらず血が流れ出ている箇所もあり、足は引き摺っているようで流した血と共に地面に残る足跡は不安定だった。しかし、それでも大切に抱えた三味線だけはどうしてか汚れひとつも見受けられなかった。

「随分と酷い怪我。雨も降っていますし、入ってください」

「見ず知らずの俺を匿おうとするか」

「あなたを見てしまったのだから、そうしないわけにはいきません」

「……ふ、この世の中には、俺が思う以上に甘い人間が多い」

本当はそんな軽口を叩く余裕もないはずだ。乙女もまた、男を招き入れることを許容するほど腑抜けた人間ではない。だが拒絶できなかった。この男はけだものではないと思った。一刻も早く傷口を清潔にして飯でも食わそうと思った。

「甘くなんてありませんよ、私は」

乙女は、家に入るなり安心したのか座り込んでしまった男の傷を消毒して布を巻いた。薬も布も、まだ物資には余裕がある。一人分の食事が二人分へと増えても、まだ慌てる時ではないはずだ。父がいた頃とそう変わらない生活をすればよいのだ。

「例えば俺が、お前を騙してそこにある金を奪おうとは思わなかったのか」

乙女はどうせ一人だからと、無頓着な金の置き方をしている。金以外の全てのものもそうだ。盗みに入られたところで抵抗できる力はないし、それならば金だけをさっさと差し出すほうが良いと思っていた。

「奪ったところで、あなたはこの雨の中どこにも行くあてはないのでしょう」

男は猜疑心を捨てられずにいるのだろう。

「お前を襲ったやもしれぬ。そして、その復讐を決断されるという余地も与えぬうちにお前を殺めることも有り得ただろう」

これもまた同じことだ。襲われ心的外傷を植え付けられても、さらに殺されたのだとしても、それも乙女は受け入れるつもりだった。人はいずれ死ぬのだ。

「あなたは見る限り、人を瞬時に殺すことができるような武器は持っていない。できることは首を絞めるか殴り殺すか。ですがそれ以前に、誰かに組み敷く程度の体力も残っていないでしょう」

乙女のこの言葉は全てだった。考えうることのできる危険性を全て織り込み済みでこの男を受け入れているのだ。

「それに。きっとあなたは戦いで敗北を喫している。早く元の場所に戻りたいはず」

逃げてきたからこんな辺鄙なところにやってきたのだろう。見るからに男の衣服は上質なもので足軽などとは程遠い。それほどの男なのだから、自らの首が狙われることを恐れるはずだ。だから人の少ない地を探していたのだろう。乙女は男の正体には微塵も興味がなかったが、只者ではないという気配だけは強く感じ取っていた。

「……随分と鋭いな。もしくは俺のことを知っているのか。往来を歩く、陰謀などとは程遠く見える巫女であってもその内情は諜報活動を主としているという。お前がそうでないという確証もない。俺がただの村人ではないとお前に思わせるように」

喋るのもやっとのはずなのに、男はよく喋っている。静かな声だった。その中に激情を秘めているように感じられる。そんな声をしている。時折吐く息は苦しげだったが、自らが何者であるかを決して見失うことはない。それを物語っているように男の声は放たれている。

「私は別にそんなのじゃありません。あなたこそよく、素直にここに座り込んでいるというものですよ。昨日会った人は言っていました。落ち武者の首をお上に渡せば恩賞にあやかれると」

寝具を引っ張り出して男に寝るように指図した。怪我人は眠っていればいいのだ。寝転がる男はその姿勢を取るだけでも難儀しているようだった。至る所が傷んでいるのだろう。

戦いが起こっているということばかりを考えていたが、ふとそう言われたことを乙女は思い出した。ここで男を殺せば食うに困らぬ生活が待っているのかもしれない。今の男はひとたび眠れば刺し殺すなど容易だ。一人で食っている以上包丁は身近にある。それでも乙女はその包丁を人には向けることはない。乙女は昨日貰った野菜を切っていた。

「だがお前は、俺を決して殺さないだろう。お前は随分と人が好い」

鋭いのはこの男も同じなのだ。乙女は男には目もくれずに言った。

「これ以上目の前で死人を見たくないだけですよ」

男はふっと笑って、そこからは乙女を警戒するような言動を取ることはなかった。次に乙女が振り返ったとき、男は静かに寝息を立てていた。それは戦を乗り越えた人間とは思えぬほど穏やかだった。それも偏見かもしれない。全ての人間は穏やかに眠りにつき夢を見るのだ。




一週間ほどの日が経って、男の容態は初めの頃よりはましになってきたらしい。まだ座り続けるのもやっとだったが、思いのほか男はよく喋った。静かではあるが無口ではなかった。

「美味い」

「本当ですか?」

「……嘘を言って何になる」

「私はあなたと同じくらい疑い深いですよ」

「俺と同じか。面白い」

乙女は男の言動を話半分にしか聞いていない。彼は自らのことについては何も語らなかったが、もしかすると語る意味もないほどに、つまりは名を聞いただけで誰もが驚くほどの身分にある人間なのではないかと勘繰るようになった。そうであればこの村の外れにあるあばら家で追っ手をやり過ごすという行為にも納得がいくし、彼が大切にしている三味線も大層値の張るものにしか見えなかった。

そうであれは当然、舌が肥えていると思っていたものを。乙女は自分で作った飯を口に運んだ。別に、そこまで美味いものではない。もっと美味いものはこの世に数多くある。

「心外ですよ」

「何がだ。不満などあるまい?」

「あなたと同じにされることが。……不満ですよ。釣り合わなさすぎる」

奇妙な同居生活を送っているだけ。乙女と男を繋いでいるのはその細い糸だけだ。男は数秒乙女を見つめ、そしてそこら中に広がっている彼女の私物を見渡した。

「同じであることの何が悪い? お前も俺と同じだ。見れば分かる」

「本当に分かりますか」

男は乙女のことをなぜだか信頼しきっているとでもいうのか。当初のように乙女を疑うこともせず、彼女の私物の隣に三味線を置いている。まるで彼女の商売道具かのようだ。

「お前はそれなりに名を知られている商人のはずだ。こんな所で貧しい生活を送ることもないだろう、本来ならば」

乙女が男の身分をある程度推測できても確信には至ることもないように。男もまた乙女が本来どのような生き方をしてきた人間だったのかをある程度察している。流石だ。そう乙女は思うしかない。乙女が商人として父親と生きてきたのは確かだった。同じだというのは、男の元々の身分と本来乙女が辿っていた生き方を重ね合わせているのだろう。

「……私がそうすることができたのは、父がいたからですよ。父が病気になるまでの話です」

乙女は父親と共に各地を渡り歩いていた。商いをし定住地を定めぬ生活で、時には客と揉めることも往来で暴れた男が人を殺める光景も見てきた。歳の割には経験を積んだつもりだった。しかし、父が病に冒されたことで全ては一変した。ここにある私物は元から自らの財産だとしてきたものも勿論あるが、大半は商売道具もとい、客に売り捌くためのものだ。

人が死ぬのは当たり前だ。事実、母は乙女を産んで間もなく死んだ。しかし、父の死を見てから乙女は人の死を極端に恐れるようになった。男は乙女の身の上を聞いていた。男は人を殺しているのだろう。それは乙女にも読み取れた。死を語ることができるほど乙女は生きていない。視野を広くはできない。いつだって自分のことだけで精一杯なのだ。多くの人の命を抱え、ぼろぼろになっても生を諦めることは許されないなんて、そんな生き方ではない。乙女が送ってきた人生は。

「お前が俺を助けたこと……腑に落ちるな」

死人を見たくないだけだ。そう言った乙女のことを、男はよく覚えているようだった。過去の発言と、今乙女が言った僅かな言葉を繋ぎ合わせて、男はその心象を悟ったらしかった。

「死者に縛られているだけかもしれません。私は。この家だって、不便でしかない。金の工面はできないことはなかったのに、私はまだここから離れられないでいる。父のことが忘れられないから」

早く食べないと冷めてしまう。しかし乙女は上手く箸を動かすことができなかった。この生き方を選んだのは自分だ。だがどこかで抜け出したいとも思う。自分で行動しなければ、待っているのは破滅だけだ。決断しろと。その言葉がどこからか降ってくるのを待っているだけなのだ。

「お前は生者として責任を果たしている。だが、まだ不足している部分がある」

「……何ですか、それは」

「お前は、本当は自らがここに留まる器ではないと分かっているはずだ。お前は自らを低く見積もりすぎている。足りないのは意思だけだ。強烈な意思さえあればお前は駆けることができる。そして、お前がそう動くことが死者への弔いとなる」

心の中をそのまま見透かされているようだ。乙女は父のことをずっと見てきた。商才は受け継いでいるはずだ。父の看病に付きっきりとなってからは自分達が生きることに必死で、何もできなかった。だが算術は得意だという自負もある。何に値打ちがあるのか、金の動きをよく読むこともできる。それをしないのはそれらの機会を失ったからだ。乙女は男の言葉に、音に、頭を殴られたような衝撃を感じた。そして、この男の言うことが全て本当のことだとしたら。全ての言葉はこの男が自身に感じていることをそのまま映し出しているのかもしれないと思った。そこまで含めて、「同じ」だと評したのかと。

「……あなたも、同じなのですか」

何よりも先に、そう乙女は言っていた。男の表情が変わることはない。瞳が揺らぐこともない。強い意志がそのまま現れているように。

「まだ……そうと決まっているわけではない。だが限りなく近い。お前に父親の想いを継ごうという意志が既に宿っているように。俺は友の志を背負っている。まだ友の灯火は……消えていないはずだ」

それきり、この話は仕舞いとなった。男は自分のことについて必要以上のことを話さない。話したくないのならば別に乙女は構わなかった。ただここに男が来た当初ならば恐らく言わなかったであろうことを知れた。思いのほか信頼されているのかもしれなかった。互いの名前すら知らぬ状況が続く。だがかえってそれは居心地のよいものだった。乙女も、一人で居た時よりは穏やかに過ごすことができているという自覚があった。男がここを出ていく時、いよいよ身の振り方を考えなければならないと乙女は思った。






乙女は、男の弾く三味線の音で目を覚ました。

「……寝過ごした」

「気にするな。俺が目を覚ますのが早かっただけだ」

ここのところ、男の体調はすこぶる良いようだった。数日前、彼は乙女の父が持っていた刀を手に取っていた。乙女が「大したものじゃない」と言ったものの、男は少し借り受けるといってそのまま家を出ていったということがあった。家を出る直前、乙女は自分が思っている以上に気遣わしげな表情をしていたらしい。

「俺がこれを盗んでいくと疑うか」

男は揶揄うような声色で言った。

「そんなこと思いませんよ。ただあなたは一人で出歩けるような人じゃないでしょう」

あれほど大切にしている三味線を置いているのだから、そのようなことはしないと見ただけで分かる。

「案ずるな。そのような分かりやすい失態を犯すほど、俺は馬鹿ではない」

そのようなやり取りをした後、男は出ていった。そして、日が落ちた後に何食わぬ顔で戻ってくる。それが数回あった。刀は本当に護身の為に持っているだけなのだろう。男が何をしているのか、乙女は相変わらず探ろうとはしなかった。だが自由に動き回ることができるほど回復しているのだから、男がここを去るのは時間の問題だと思った。

それを経ての、この日だった。

「明日、俺はここを立とう」

男は三味線を抱えたままそう言った。

「……そうですか」

乙女は朝餉の支度をしている。手を止めるのともなかった。近いうちにそうなるだろうという予想はしていたから、さしたる驚きもない。

「だがそれはお前も同じだ」

「……え?」

乙女はやっと手を止めた。

「信の置ける部下と連絡が付いた。俺は友の為に生きなければならない。だがそれを成すためには、国許へ帰らねばならん」

「私も同じって、一体」

「お前を連れていく。俺の国へ。……俺は長宗我部元親。海も人も、お前を歓迎するだろう」

四国の大名が、こんな所で戦など。乙女はその名を聞いて、一度止めた手を再び動かすことを辞めた。名は知っている。各地を渡り歩けば自ずと情報は手に入るからだ。自分を連れていく? あの島に? 乙女は数多くの問いを投げかけたくなった。黙ってここを出ていくことも、名乗らずにいることも可能だったろうに。

「なぜ今更、名を名乗った上にそのようなことを? 再起のためなら、金を奪って黙って行けばよかったのに」

「お前のことを知るまでは、名乗ることなどできなかったからだ。俺は例え友であっても騙すことを厭わない。それがこの世の理だからだ。全てを疑わねば生きていくことはできまい。だがお前には名乗る以上のものがある。そして、お前は俺の元でこそ、その魂を震わすことができる」

「私はただ死人を見たくなかっただけ。そこは変わりませんよ」

「お前は俺の友……明智光秀と同じだ。甘く優しく、情を捨てることができない。光秀やお前のような人間こそ、この乱世に必要だ。だからそのお前の手を引くべきだと俺は感じている」

「……明智光秀? あなたと彼は一体誰と戦っていたのです」

村人に話を聞く機会はあるとはいえ、乙女はかつてのように情報を収集することができなくなっていた。全てが信じられないようなことばかりだ。だが男もとい、元親の言うことが嘘とは思えなかった。

「羽柴秀吉だ。光秀は己の意思に従い信長を討った。そして秀吉は光秀を討ち、主の敵討ちをした……そういう筋書きになっているはずだ。だが光秀の首は見つかっていない。奴はどこかで生きている。俺は光秀の助けにならねばならない」

「……そういうことだったのね」

確かに同じだ。乙女がどんなに苦しい毎日であっても今を生きているのは父親の残した意志がため、元親が決死の思いで生き回復したのは友がためなのだ。

「部下を待たせてある。長い旅になるが、俺はお前を離したくないと……そう思わされている。だがそれよりも大切なのは、何よりもお前の意志だ」

どうせならば。こんな所で金もなくなり野垂れ死ぬより、賭けに乗って大きな夢を追いかけたい。それこそが父の生き方だった。

「上等ですよ。私はこんな所で終わるような人間じゃないので」

元親は、乙女と己の生き様が似ていること、そして乙女と光秀の気質が似ているのだと言った。二人が何を思って戦いに挑んだのかも乙女は知らない。父親のようにその才を活かして成り上がることができるのかも、そもそも本当に商いに向いている能力が備わっているのかも、死を極端に恐れるこの気持ちをなくすことができるのかも、何も分からない。だが元親に着いていけば確実に答えが出るように思った。元親はここで初めて乙女の名を尋ねた。名を素直に明かすと、元親はただ頷いて三味線を再び奏でるのだった。

(20250922)
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