遠退く背中はうつくしかった
どこだろう、ここは。
乙女が見渡す限り、そこには彼岸花が咲き乱れていた。今まで何をしていたのかもよく覚えていない。遠くに人がいるのが見える。それはどんどん大きくなって、そこでやっとその人はこちらに近づいてきているのだと乙女は分かった。
その人が持っているのは花の冠だった。
「豊久」
駆けてきたその人を見て、乙女は名を呼んだ。手に握られているのは白詰草の冠。白い花は赤い彼岸花の中でよく目立っている。豊久がこんな器用なものを編めるなんて。乙女は名を呼んだきりで、怪訝な顔をしている。
「これ、お前にやる!」
花冠が乙女の頭に乗せられた。こうして豊久のことを見るのはいつぶりだろうか。最後に見たのは彼が戦のため旅立つ直前だった。戦いは終わったのだろうか。いくつも聞きたいことが乙女にはある。長い間会っていなかった気がする。なんだか、彼が戦に行くことがこれまでで一番辛かった気がする。けれども久しぶりに会えて嬉しかったとか、寂しかったとかは思わなかった。乙女は頭上に被さった冠を撫でた。豊久に投げかけようと考えていた言葉が全てその瞬間消えてしまった。難儀なものだった。
「豊久が作ったの?」
豊久は乙女の記憶にあった彼の姿よりも元気そうに見えた。無邪気で、何度戦を潜り抜けてもまだ子供っぽさを捨てきれない一面がある。昔からずっとそうだ。今の豊久を見て感じた元気というものは、そういった性格のことだけではなくて。ぱっと見た姿がそうであったのだ。違うなにかがある。いつもと変わらないはずなのになぜ。
乙女はじっと豊久の爪先から頭の先までを眺めた。腕も足も、至る所に戦傷が絶えなかった。だが今の彼は産まれたての赤子のように、その肌は何ものにも傷つけられていなかった。ああ、そういうことかと思った。治ってよかった、なんて。その痛みすら初めから知らないような、知ることもないような甘い毎日を送っている乙女は、ふとそう思ってしまった。
その彼の傷はとうの昔に既に塞がっている。今は跡が残っているだけだった。豊久はかつてこう言ったことがある。何気ないことだった。
「痛くないから、触ってもいいぞ! この傷は俺の誇りだ。そして……俺の弱さでもある。いつまでも忘れずにいるための傷だ!」
その傷は、一体どこにいったというのだろう。豊久は真面目な人だ。傷がなくなってもそのとき味わった弱さと誇りをずっと覚えているのだろう。そんな取り留めのないことが思い浮かんだり、消えたりする。ここにいるということを乙女がはっきりと自覚してから、ずっとそれの繰り返しだ。けれども、そんなこと聞かなくても別にいいじゃないかと思ってしまうのは、豊久が話す言葉一つ一つに思考を遮られてしまうからだ。彼の言葉のほうがずっと重要なことだった。
「俺が作った! お前に似合うと思ったから」
「……本当に? 豊久、こういう細かいことは苦手だと思ってたけど」
「俺が作ったのは、嘘じゃないぞ! 作り方自体は、たまたま近くにいた人に教わったし、初めの部分はやってもらったけど」
「ありがとう。私のために作ってくれて」
風が吹いて、彼岸花が揺れる。二人の髪も揺れた。乙女の髪から冠が落ちる。
「わっ!危ない!」
冠が地面に落ちる直前、豊久は身を乗り出して滑り込み、すんでのところで冠を掴んだ。乙女はなぜだか足がすくんで、落ちた冠を拾おうとすることができなかった。
豊久が再び乙女に捧げようとした冠は、彼が勢いよく掴んだことで花は少し散り、始めと比較すると不格好な見た目になってしまった。
「……せっかく作ったのに。これじゃ台無しだ」
「台無しじゃないよ。豊久が作ってくれたものってだけで私、嬉しいから」
豊久の表情がぱっと明るくなった。再び冠が乙女の頭に乗せられる。
「お前はやっぱり、いつ見てもかわいい! お前がここにいてよかった!」
乙女は指先で冠に触れた。これに触れることはできるのに。こんなに毎日を当たり前に過ごしてきて、その肌に触れることだって厭わなかったはずの豊久には、触れられないのだ。
「……向こうには、もっと沢山の人がいるんだ。お前にも会わせてみたい。一緒に行こう!」
豊久が乙女の手首を掴む。何も言わず、その足を踏み出そうとしない乙女を見て、彼は何かを悟ったらしかった。
「……豊久、私」
「分かってる。……お前は、本当はまだ来なくていいんだ」
「……」
「そんな顔、しなくてもいい! いつかまた、俺が迎えにいく。ここだったら、ずっと俺はお前のことを守れる。けれど、今のお前はまだ、俺の力なんて必要ないほど、強いんだ。……なんでそんなこと、忘れてたんだろう」
手首から豊久の掌が離れた。
「ごめんね」
「ううん。また今度、俺はここまで迎えに来るからな!」
豊久はずっと向こう、地平線の果てまで歩いていく。この彼岸花はどこまで咲いているのだろうか。白詰草はどこで見つけたのだろうか。
それを知るのは、何時になるというのか。だが確実に訪れることとなる。
次に瞬きしたら。自分の体は熱に浮かされ、最早腕を、指一本動かすこともままならなくなっているはずだ。それが本当の在り方だった。けれど、豊久は生きろといっているのだろう。乙女は目を閉じて、白詰草の花冠を優しく掴んで胸に抱えた。初めて目を開けるのが怖いと思った。それまでは目を閉じるのが怖いと思っていたのに。そんな日だった。
(20250920)