伸びやかな君を信じている
謙信に呼び出された時点で、乙女は不吉な何かが起こるような気がした。清く正しく、卑怯な手段を忌み嫌うこの男に不吉だなどと思うのは乙女くらいしかいない。だが彼女が謙信に感じるその心象からか、こうした予感を拭うことはできないのだった。
「よく来たな、乙女」
「……何の御用ですか」
乙女は愛想良く接するすることが苦手だった。上杉の家風に気圧されているからでもある。だが謙信は気分を害した様子もなかった。こんなことで彼女に苦言を呈する彼ではない。
上杉は弱き者を見逃さぬ。その言葉通り、謙信は身寄りのない乙女を引き取り何不自由のない生活を与えている。乙女にとって最大の恩人がこの男だった。
しかし、この世にあるには彼の持つその心は些か綺麗にすぎるのだ。乙女が謙信を苦手とする一因がそれだ。戦場に出れば人を殺し、勝利を敵の首とともに掲げ、それを善であるとする。乱世にあれば当たり前だ。戦から帰ってきた謙信は乙女を思ってなのか真っ先に彼女の元に顔を見せたこともあった。だが返り血もろくに落とさずに来たものだから、乙女は恐怖で動けなくなってしまった。白い鎧も外套も真っ赤に染まったままで、これが本当に義を示そうと意気込む男の姿なのかと思ったのだった。
悪気なく行っている謙信のその行為が、乙女には度し難かった。正しきことを成しているつもりである。彼の行いは乙女を案じる兄としての自負がある上のことでもある。そして本当に心の底から理想を追い求めているような人なのだということは、乙女も分かっている。しかし受け入れ難いものでもあるのだ。人と人は、どれだけ近くにいて寄り添うことができる距離にいたとしても、分かり合えないことだってある。それを理解していない、無垢な子供のような一面がある人だ。乙女は今までの年月の中で、達観して物事を考えるようになった。謙信が目指す義の為に戦をする中で、同じように信念を抱えて戦っているような人間に両親が殺されたからかもしれない。戦場に出れば皆獣なのだ。ともかく、末席とはいえこの上杉という武家に連なるということが、乙女には辛かった。
「単刀直入に言おう」
「はい」
「お前を、妻として迎えたい!」
その言葉には、嫌悪感よりも先に。乙女の脳裏には疑問符が渦巻いた。
「……なぜ、私などを」
謙信の元で、どこに行こうが恥ずかしくもない程度に教養を得た。いずれ誰かの女となる為の能力を磨いた。だが自分のような女など、この男には釣り合わない。乙女は謙信、いや彼の家臣とも見合わないような家に生まれた女だった。ただでさえ、謙信に拾われた娘なのだと皆は彼女のことを必要以上に崇め敬意を示す。それが乙女にとっては酷く苦痛を感じることだった。早く、誰でもよいから嫁いでいきたいと常々思っていた。謙信は父親ではない。乙女にとって父親はとうに殺された実の親ひとりだけであるし、何よりも謙信は父親らしいことは何一つしていない。ひとりの男だ。ひとりの男だから、そう望むことも許されるのだ。乙女にとってこの上杉の呪縛に囚われることは、はっきりと嫌なことなのだ、といえる。
「至極簡単なことだ。そなたはこの上杉にとって欠かせぬ存在。……違うな。私はそなたを失いたくはない。その命だけではなく。命があろうとも、健全なる精神、清き心が欠ければそれはそなた自身を失うことと同義だ。私の元でならば、そんな真似はさせぬと誓おう!」
「……」
「そなたが望まない限り、子はいらぬ。私個人の諍いにも巻き込まぬ。ただそなたには、平穏を慈しんでいてほしいのだ」
謙信の声は、いつ聞いても良く通る。この何もかもに自信を持っていると誰もが感じる声を聞けば、何を言っても、それが本当に正しいものかすら判断する余裕もなくこの人が正しいのだと思ってしまう。そんな力がこの声に宿っている。そんなところも、乙女にとってはより一層不気味なものとなって襲ってくるのだ。
「……私は……」
すぐに答えを出せずにいる乙女を責めることなど、謙信はしない。それは彼の主義に反するからだ。
「すぐに答えを出せずともよい。私はいつまでも待ち続けよう」
そんなことをするくらいならば、さっさと女を見繕って結婚すればよいのだ。乙女は部屋を出るまで、自分が何を話したのかをあまり覚えていなかった。この場をやり過ごすことに精一杯だった。
いつまでも待つという言葉自体は間違いではなかったが。乙女はうんざりしていた。何かと理由をつけて謙信は乙女を呼び出し、その都度一番はじめと全く同じ熱量で彼女に告白するのだった。
返事を無理にせずともよいと謙信は言ったものの、こんな力攻めで来るとは思わなかった。乙女はいい加減、謙信から、そしてこの上杉から逃れたいと強く感じた。
「……このような分際で仰ることではありまさんが」
「何でもよい。言ってみるがいい」
「……私には、お慕いしている殿方がいるのです」
声の大きい謙信に何と言われるのかを考えると、乙女は萎縮して蚊の鳴くような声で発するしかできなかった。
謙信は僅かに驚いたようだったが、それはあくまでも顔に出しただけであった。乙女の言葉を糾弾するでもなく、顔を顰めることもなく、彼にしては考えられないほどの小さな声でただ「そうか」とだけ言った。
だが、どうやら怒っているわけではなさそうだ。乙女はほんの少しだけ、胸を撫で下ろした。
「その相手を聞いてもよいだろうか」
謙信という乙女では遥かに適わぬ男の求婚を拒絶し、あまつさえ好いた男がいるという。そんな告白を受けても謙信はやはり、乙女を責めることも必要以上に問いただすこともしない。
「その……城下で店を営んでいる方の、ご子息なのですが」
意を決して乙女は話した。果たしてお慕いするという言葉が適切なものであるのかどうか、乙女は自分では判別できなかった。武士を相手に商売することもあったが、民を相手にすることが多いその男といれば、この鎖から解放される気がしたのだ。それだけの話だ。本当に嫁ぐ理由にはならない。謙信と結ばれる方がこれから先のことを考えれば不自由なく暮らせるのかもしれないし、商人の家からすれば乙女のような女はいらないかもしれない。全ては乙女の主観でしかなかった。だが謙信はそんな彼女の話を、それこそ大切ない戦の前に行われる軍議中かのように真剣な顔をして聞いていた。
「そなたが後悔しないと言うのならば、私はそれを支えよう」
普段、耳を劈くほどの大声を多様する男にしては、随分としおらしかった。だが同時に、本気で乙女のことを、彼女の幸せを考えているようにも見えた。後悔しないというのならば。これは脅しでもなんでもなく、彼女のことを本当に気にかけているからこそ出る言葉なのだ。そうでなければ今まで大切に扱ってきたこの女を、見ず知らずの人間の元に送り出すことを是としないだろう。
「はい。申し訳ありません。謙信様……」
「なぜ謝る? そなたの気持ちが聞けた。それで十分だ。そなたの清き心があれば、私がいなくとも立派に生きてゆけるだろう」
かくして、乙女は商人の家に嫁ぐこととなった。
人生とは分からぬものだ。乙女は何事もなくその男と結ばれ、平穏な暮らしをしている。幼い頃見た戦火の影も、人の血に濡れる武士の姿を見ることもない。上杉の家と関わることもなくなった。だが謙信がいなければ、この全てが実現するなどありえなかった。
「息災にしているか、乙女」
「お久しぶりでございます。謙信様」
乙女は、産まれたばかりの子を抱えていた。対して謙信が妻を娶ったという話は、少なくとも乙女は聞いたことがなかった。夫や、夫と親交の深い仲間たちの情報網からも、そのようなことは分かりえなかった。やはり昔から変わらずに独りであることを貫いているのだろう。
「以前よりも、晴れやかな顔をしているな」
「そうでしょうか」
「そなたは正道を歩んでいる。私もまた同じだ」
そういう謙信もまた晴れやかな表情を浮かべている。あれだけ固執していた乙女への未練が残っているようには一見すると感じえない。
「謙信様のおかげです。全てのことがうまく運んだのは」
「そなたがそう感じるのならば、私も冥利につきるというものだ」
本当にそうだろうか。乙女は城にいた頃と変わらない目で謙信を見ることしかできなかった。
(20250919)