憂いを縁にさせたくはない
「此度のお前の働きは目を見張る」
「はい」
信玄に見つめられるだけで、乙女は戦場にも勝る高揚感を味わった。彼と話す時はいつもこうだ。口では何でもないように振舞っているが、心の臓は大きく音を立て口から飛び出しそうだと乙女は思った。
「褒美を取らせよう。お前は何を望む」
信玄の為に戦っているのだ。こうして目をかけてもらっているというだけでも嬉しいものだ……と言える段階に乙女はいなかった。既にそこを超越してしまっているのだ。それに、こうしたやり取りをするのは初めてではない。
周囲の将兵は向き合う二人を見て、また始まった、とひそひそ話し始めた。無謀なことだ。何度やっても意味がないというのに。全て乙女の耳に入っているが、そんなことを気にするようでは初めからこの勝負に挑んでなどいない。
乙女は大きく口を開いて、すぐ目の前にいる人間に発すとは思えないほどの声量で叫んだ。
「私を妻にしてください!!」
信玄は大声を浴びても、顔も体もぴくりとも動かなかった。仮面の奥に見える目玉をぎょろりとさせたまま、ただ乙女を見下しているだけだった。最早羞恥などどこにもなく、ただ欲をぶちまける乙女がそこにいる。そんな彼女に向けるにしては淡白な感情のみが信玄にはあるのだった。
「できぬ」
「どうしてですか!」
このやり取りも数度目である。乙女が戦う目的はこれだ。信玄に告白することのみにある。本気で彼の妻となることを望んでいる。自分から、陰で愛するだけでは足りないのだ。この無骨で理想など見ず、ただ現実だけを強く見据えて戦い続ける男に、何とかして愛されたいと強く願っているのだ。その為に傷だらけになって戦うなど正気の沙汰ではないと揶揄する人も多くいたが、それこそが生き甲斐であり、切っても切れぬ彼女の生き方そのものとなっているのだった。
「なぜ俺がお前を娶らねばならんのだ。そこに何か利点はあるか? それで俺は何を得る? お前が満足したとして、お前は俺の為に何ができるというのだ。何も出来まい。お前は武には優れているが、ただそれだけだ。こうしてこの場で恥ずかしげもなく己のくだらぬ欲望をさらけ出すなど、俺には到底理解できん」
低く地に響くような声。乙女を拒絶する言葉一つ一つでさえも彼女を歓喜に震わせるのだから、何を言われようがその想いを諦める理由にはならなかった。
信玄が乙女を妻に迎える利点など何もない。彼女は武田家臣の一人であるというだけで、今後信玄の糧になるような後ろ盾、権力などは何も存在しない。叶わぬ夢であるということを乙女も、今この二人のやり取りを見せつけられている将兵たちも分かっている。
「でも、きっと御館様のことを想う気持ちは誰にも負けません!」
「俺を想う気持ち? そのような感情など為政者にとっては無駄なだけだ。そう言った私情が国を傾け乱す」
「御館様が私に目もくれなくても、何も気にしません。ただお傍にいたいだけです!」
信玄は自分たちのやり取りを面白がって囃し立てようとする将兵を睨みつけた。瞬時に場が静まり返る。それでも乙女が怖気付くことはなかった。
「もうよい。……何を言ってもお前には無駄だな。此度は新しく刀でも与えよう。お前は俺の臣下であり、それ以上の存在ではない。ただ俺のために戦え。それ以上のものを望むことは許さんぞ。骨身に刻んでおけ」
「……御館様! ありがたき幸せに存じます! 賜った刀で敵を斬り、いつの日かまた想いの丈を伝えに参ります!」
乙女は満ち足りた様子で威勢よく返答した。心做しか、信玄に告白したときよりも声量は大きく激しさを増しているようだった。
「何度言ってもお前を娶るなど有り得ぬ。精々戦場で刀を振るえ」
「はい! 御館様の為なら地の果てまでも!」
信玄の為ならば、死の匂いが漂う穢れた戦場に飛び込むことも苦ではないのだ。
「……乙女殿の嫁ぎ先の件ですが」
信玄の臣下は重々しげに口を開いた。
「ああ、あれか」
「女性としての幸せを掴む方が幸せなのではないかと、お身内はお悩みのようでした。いい加減、そう勧めるべきなのでは」
信玄は書状から目を離さずにいる。そこには乙女が嫁ぐ先の家、夫となるかもしれぬ男について事細かに詳細が書かれている。信玄自身がわざわざ遣いに調べさせたものだった。頑なに乙女の告白を拒む信玄がなぜ彼女の婚姻にここまで入れ込むのか、臣下は分からなかった。乙女の告白を拒み続けているのと同様に、こうして信玄は乙女の縁談を全て潰しているのだった。
彼女の戦力を特別大切にしているとも言い難い。いくら武に優れた女人とはいえ、一人くらいいなくなった程度で弱くなってしまうような武田ではないのだ。功績を挙げ信玄から直々に刀を賜ること自体は納得できないこともないが、毎回のように彼女に望みの品を聞き、結局それを拒絶するという生産性のないやりとりをするのも普段の信玄の言動や思想からするとどこか道理に合わない気がするのだった。
「いや、その必要はあるまい」
信玄は書状をびりびりと豪快に音を立て破ききってしまった。臣下は驚いて主君の顔を見遣る。仮面の下では何を考えているのだろうか? さっぱり分からなかった。此度も縁談を彼女には言わず秘密裏に抹消してしまうのだろう。臣下はいい加減、乙女に真実を伝えるべきなのではないかと思った。
「しかし、乙女殿に真実を伝えることも重要なのではないでしょうか。いくらあの方とはいえ、痺れを切らすどころか御館様をお恨みになるかもしれません」
乙女が盲目なうちは良い。だがいつその感情が反転し牙を剥くか、分かったものではない。だが信玄はふっと鼻で笑って、こう言った。
「あやつがあれだけ必死になっている姿は俺にしか見せぬものだ。……それに、あの姿はどこぞの愚者に見せるものではあるまい」
「……は?」
臣下は、信玄の言った言葉の意味を理解することができなかった。この言葉のせいで、ますます彼の行動が読めないものとなってしまった。
「あやつを欲しいと思う男はごまんといる……この書状に書かれている、俺に適うことなどない者のようにな。だが俺は靡かぬ。あれは俺の特権だ。あやつが縋ることができるのは俺だけだ。その事実がここにあるということが、俺は愉しいのだ」
信玄は口を歪ませた。相変わらず、その瞳からはっきりとした表情は読めなかった。
「……それにしては、乙女殿には随分無理を強いられていらっしゃる」
「あやつは死なぬ。俺へのくだらぬ情を捨てきれぬ限りはな。死んでも付き纏うかもしれぬ。楽しみだ」
主君の本音を知らずに、傷だらけになり返り血を浴びて戦う乙女が哀れだと思った。
そんな臣下とは裏腹に、信玄はさも愉快そうに高笑いしている。それこそ、仮面がなくともその感情を察することができるまでに。
(20250917)