その手が冷たくありますように
「そなたの面倒を見るのは殿が命じたゆえ。それがしの意思ではない。思い違いはされぬよう……」

乙女が光秀に連れられ利三と初めて会話を交わして間もない頃、利三から突きつけられた言葉がこれだった。光秀が言うには。信用していいし些細なことでも頼っていいと言っていた男だったから、乙女は拍子抜けして何も言えずにいた。何ともまあ、失礼な男である。乙女とて、傍に置いてもらえるのならば光秀のほうが良かった。行く宛もなく、後ろ盾もない彼女を初めに保護し誰にも手出しをさせないように命じたのは光秀だった。乙女と同じく身寄りがない女の世話をしているとかなんとかで、回り回った結果利三に託すしかなくなってしまったのだった。乙女が知らないその女は忍術の心得があるらしく、そうやって戦うこともできない彼女は劣等感を抱いた。その上で、利三のこの言葉である。耐えるしかないとはいっても、傷つかないといえば嘘になる。

「私だって、別に利三さんに面倒見てもらおうなんて思ってませんよ。居候なわけですから、家事でも何でもやりますし」

そう乙女が言っても、利三は「せいぜい殿の顔に泥を塗らぬように過ごされよ」と呟くのみだった。全くいけ好かない男である。光秀が最も信頼していると言っても過言では無いようだし、忠臣だと世間に謳われるような人は案外こんなものなのかもしれないと乙女は思った。主を守るために他のものを寄せ付けないような態度を取っているだけだと思えば分かりやすい男だと思えた。好悪は別として、だ。





それから乙女は、自分でも腹立たしいが認めざるを得ない、そんな感情に振り回されるようになった。男女の友情は成立しないなどという言説がある。乙女と利三の間には友情すら存在しない。友情がやがて恋情へと変化する余地もない。だが乙女は、あることをきっかけに利三から目が離せなくなった。

どうでもよいとあしらわれるようなことだ。たまたま光秀と利三が話しているのを遠目で見ていた日にそれは起こった。主従、それも互いに敬愛している人間同士のことだからたわいもないことなのだろう。だが乙女は、利三が笑っているのをそこで初めて見た。なんて事ない行為だ。乙女だって、どれだけ利三に冷たくあしらわれようが笑う時は笑う。だが利三のそれは、この日見たような薄い微笑みであっても。何か見てはいけないものを見てしまったかのように乙女は感じてしまったのだった。

いても立ってもいられなくなって、二人きりの部屋の中で乙女は口を開いた。

「私、好きな人ができました」

「好きな人? いきなり何を言うかと思えば……大体そなたは一人でここを出たこともないというのに、それで好意を抱けるような人を見つけられるとも思えぬ。一時の気の迷いだろう」

利三は辛辣であった。ここまで来ると、本当に自分は嫌われているだけなのかもしれない。そんな思いが乙女の脳裏をよぎったが、ここで背を向けるのは女として、いや人間として恥だと思った。戦場で背を向けて逃げるのが恥だと言われるのと全く同じだ。

「違いますよ。その人は初めてあったときから私にはずっと冷たいけど、本当に信頼している人の前では柔らかい表情を見せています。私は一生、そんな顔を見ることはできないだろうけど」

「……それは真に、一生、か?」

「え……いや、一生っていうのは言い過ぎかもしれないですけど。光秀さんからも聞いていますよね? 私っていつここから出て行っちゃってもおかしくないんですよ。本来ならここにいるはずもないのが私ですから」

「これまでのそなたなら、確かにそうであったのかもしれぬ。殿の言うことに従うならば、そなたは『戻り方』が分かり次第戻るのだろう。あるべき世に」

「そりゃそうですよ。……と言いたいところですが、好きな人返答次第では、揺らいじゃうかも」

利三さんって、察しがいいのか悪いのかどっちなんだろうか。乙女は悪いに賭けていたが、どうやら違ったかもしれない。利三がいつもの眉間に皺を寄せた仏頂面で近づいてきて、何となく乙女は後ずさりした。それも、壁に背をつけるまで。

「利三さん。私の好きな人、知りたいですか?」

余裕ぶってはいるが、いくらこのような態度が当たり前だと思っている男であってもここまでの至近距離で迫られると流石に怯む。乙女は利三を見上げてはいるが、それなりに身の危険を感じた。利三は相変わらず険しい顔をしているのだ。殴られてもおかしくないほどの距離感。そして圧。乙女が一目見ることを望んでいる笑顔とは程遠い男の顔が間近にある。

「言わずともよい。そなたが誰を想っているのかは分かっている」

「さっきはどうでもいいような態度でいたのに。どうして」

「気が変わった」

「……なんですか、それ」

顔は怖いのに、なんで急に、今になってそんなに優しい声で話してくるのだろう。乙女はこんなことになるなら初めからさっさと利三に好きだと言っておけば良かったと思った。生殺しにされるのは耐えられない。

「そなたの目の前にいる、この男の笑顔を見たいとはな」

「……だって、私には向けてくれなかったから。見てみたいのは当たり前です。冷たくされても、本当はそんな人じゃないんだろうなって思っちゃうと……好きになっちゃって」

乙女はそっぽを向いて目を逸らした。利三がこんな回りくどい言い方をするとは思わなかったし、自分が正直に全部を言ってしまうとも思わなかったから、ちゃんと顔を見ることができなくなってしまったのだ。

「これほどまでに、嫌われてもよいと思えるほどそなたには強く当たっていたというのに、通用しなかったとは……それがし自身も情を持たぬよう、務めていたというのに……まだまだ未熟よな」

あ、笑った。そう思って乙女は急いで逸らした目を利三に向けるも、既に笑顔は消え去っていた。利三は乙女から遠ざかって、未だ呆然としている彼女を置いて早々に部屋を出ていこうと歩いていく。せっかく告白したというのに、まともな返事すらしてくれないなんて。

「……そんな意地悪なところも含めて、好きですよ。利三さん」

今までわざと冷たくされていたということも、なんだか怒る気にはなれなかった。利三は壁際から動けないでいる乙女を振り返ることもせず、「それがしにそう言った以上、そなたを帰すことはできまいな」 と言った。

どうやらこれは、肯定だと受け取ってもいいのだろうか。

乙女は数秒その言葉を噛み締めた後、利三を追いかけようと部屋を出たがその姿はもうそこになかった。代わりに正面からやって来たのは光秀で、こんなことを乙女に言ったのだった、

「利三の顔が見たこともないほど赤くなっていたのだが……熱でも出ているのだろうか? 俺が話しかけても『何でもありませぬ』としか言わなかったのだが……」

「まあ、恋の病ってやつかもしれませんよ。熱くらい出てもおかしくありませんって」

喜びを隠せず舞い上がっている乙女とは対照的に、光秀は腑に落ちないといった表情をしているのだった。

(20250915)
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