練習の時はさよならも云えた
「まさか、お主が義娘となるとはのう」

家臣の一人として話していたつもりの乙女は、豪快に笑う道三の言葉を聞いて一気に目の前にいる主君と義理の親子となってしまったのだという現実に引き戻された気がした。

「私も、こんなことになるなんて思いもよりませんでしたよ」

「せがれの相手を務められるのはお主ぐらいよ。全く、お似合いだのう。お主らが轡を列べる姿は映える」

主君と世間話など恐れ多いものだ。乙女は苦笑いした。道三が自身と義龍の結婚を素直に祝福したということも、未だに信じられないのだ。道三の考えを代弁するとして、だ。義龍の婚儀さえも「使える駒」の一つとして利用するはずであると。そう考えているだろうと思っていたのに、それにしては上手く事が進みすぎている。乙女が義龍と結ばれたからといって、斎藤家の、美濃の情勢は何も変わらない。

「……まあ、散々行き遅れるだのなんだのと言われていましたから。義龍様がいてよかったですよ」

義龍は主君の息子であり明らかに目上の人間だが、幼馴染のように育ってきた。結婚してからというものの、二人でいるときは絶対に敬語を使うなとどやされるため乙女はそれに従っている。紛れもなく夫婦ではあるが、同時に昔からの戦友であるという意識は消えない。それと同じで、道三が義理の父親に当たるということも上手く受け入れることができない。義龍から言わせれば、乙女がそんな事で悩んでいるのは馬鹿らしいの一言に尽きるのだが。

「それでだ。お主は斎藤の人間であって斎藤の人間ではない。分かるな?」

「と、言いますと」

「義龍とわしには見ての通り確執がある。彼奴も強情なものよな。……お主はわしではなく、義龍に従うのだ。それが彼奴の妻というもの」

義龍は家中においても敵を作りやすい。自分が上手くいかない現実を周りのせいだとして、すぐに怒り荒れる姿を嫌う者は多い。当然のことだ。乙女も同じく、男勝りな性格と女にしては並外れた体躯と武力から、妬みの感情を持たれることが多い。乙女は義龍が何か問題を起こしたときには解決のため積極的に動くが、それは彼に命じられたから行うものではなく、自分の考えに基づいて行っているだけだ。

現時点ではあまり、義龍の命令に従うという行動を取ることはない。戦いにおいても、道三の指揮の下で戦うことが殆どだった。それに関してもまた義龍は機嫌を損ね「乙女は俺の嫁だ、親父に指図を受けるいわれはねえぞ」と不機嫌に当たり散らしていたことは乙女の記憶に新しい。理がないこともない。義龍はそれなりに乙女を傷つけないようにはしている。それを嬉しく感じるのは否定できないが、彼の考えが根本的に間違っていることもまた、乙女は度々あると考えている。斎藤家の将来を思えば道三に従うのが懸命ではないかと、妻の身でも感じてしまうのだ。

「……でも、私の主君は道三様ですよ」

道三は不敵な笑みを崩さない。乙女は、彼のこの表情の意味を良く知っている。大抵は悪巧みをしているのだ。蝮がなにか、乙女にとって良くないことを考えている。

「どちらかを選ぶ必要があるとすればだ。お主は義龍を選べ。あの大馬鹿者の妻になるとはそういうことだ」

「どんな状況ですか、それ。義龍……いえ、義龍様の手綱は私がしっかり握っていますから」

「はは、呼び捨てることくらいどうということはない。お主の言葉は心強い。だがのう、世の中にはどうにでもならぬことがいくらでもある。考えておくに越したことはあるまいよ」

「……もし義龍が反旗を翻したとしても、皆道三様についてしまいますよ。私もそうしてしまうと思いますし」

無意識下だったが、乙女は義龍のことを呼び捨てていた。道三の言葉を受けてということもあったが、彼女は今、自分が感じている以上に心を乱されていた。

「せがれはどうしようもない男だが、なればこそよ。お主くらいは味方をしてやれ」

「確かに、いつも私を庇ってくれる……といっても大体暴力でやり返しているだけですが。義龍くらいですよ。私を悪く言った人を殴ってしまうなんて……」

「不器用だが、らしい解決方法よな。上手いやり方があると言えば反発してくる様子が目に浮かぶ」

「……その借りを返すという意味では、彼の味方をするのは……嫌ではありません。彼と真っ当に向き合えるのは私くらいですし」

「そうだ。それでよい。お主とて、義龍がわしの後を継ぐことを期待しておるのだろう? やはりお主はわしではなく義龍のことを見ておればいい」

そうは言っても、人望や才能の面でいうとやっぱり道三様のほうが優れているのに。乙女はそんなことを思いながらも、どこかで義龍が国を統べることを期待している。臣下と折が合わなくとも、民には何も悪いことはしないはずだ。そういう男なのだ。何事もなければ彼が美濃を受け継ぐはずだ。そう、何もなければ。だが何かが起こってしまう気もする。そして、道三はそれすらも見越している気がする。

「道三様のお言葉ならば、従いますよ。私は道三様の臣下である以前に義龍の妻であると。心に刻みましょう」

「……ゆめ、忘れるでないぞ」







乙女は義父の恐ろしさを知った。

義龍は実父を討つべく動き出したのだ。道三はどこまで分かっていたのだろうか? 乙女は義龍の妻という身にも関わらず全てを最悪の方向に進めてしまったことを気に病んだ。この横暴を止めることだってできたはずだ。

だが道三の言葉に逆らうことはできなかった。同時に道三の味方に付くこともできなかった。義龍は当然、妻である乙女には自分に付くことを強いた。一種の脅迫のような言い草だった。だが乙女は脅されたからといって彼に従う有象無象と同じではなく、自らの意思で彼についた。道三の言葉、約束があったからだ。自分くらいしか、本当の意味で義龍の味方にはなれないのだ。彼のことを一番知っているのは自分なのだ。誰にも愛されてなどいないという劣等感が義龍にはある。それを埋めることができるのもまた自分しかいない。乙女は二人の男の狭間に立ち、そして心の中で道三に謝り続けた。今から主君であり、義父となった男を殺しにゆく。そして、義龍がこの国を手に入れる。それを見届ける。

「おい乙女!? 今更怖気付いてなんかいねえよな? お前は俺に従えばいい。……他の奴らとは違って、お前は俺のことをちゃあんと分かってんだよなあ?」

「当たり前でしょう。この国を受け継ぐのは義龍しかいない。信長なんて奴に渡せるはずもない。道三様も馬鹿なものね」

乙女は、どんな言葉を発せれば義龍が喜ぶのかを知っている。主君に対して馬鹿などと暴言を吐くことになるとは思いもよらぬ事態だ。だがそれとは別に、彼が統べる国を見たいというのもまた事実。それを実現するには道三を、そして兵を率いてやってくるであろう信長を倒すしか道はない。

義龍は、かつての道三を思わせるような豪快な笑い声を上げた。性格も体躯も似ていないが、ふとした所でこの男は殺すほどまで嫌った父親に似ているのだった。

「……そうだよなあ? 俺の国だ、ここは……思い知らせてやるぜ。信長が援護するまでに親父を殺す。俺に従わない奴もまた殺すと脅せ。いいな、乙女!」

「当然。さっきもそうしたところ。私に逆らえる人すら全然いないんだから、義龍に歯向かうなんて考えもしないんじゃない」

義龍になんて従えるはずがない、と喚く兵士がいた。道三様に刃を向けるなんて、と思い悩む将がいた。乙女は得物の先を兵士や将に躊躇いもなく向けて、義龍に従うか今此処で死ぬかを選べと言った。それを言ってしまうことは良心に悖るなど、今の彼女には考える暇もなかった。悩む暇があるのならば、一秒でも早く道三の味方をする人間を葬りたいと思った。その先にしか義龍の栄達は見えないのだから。それは悪女への階段を登ったかのようだった。こんな残酷なこともできてしまうなんて。乙女は自分のことながら驚いてしまった。だが乙女を悪へと突き進めたのもまた道三自身なのだ。何があっても義龍に付くと決めたのは彼との会話があったからこそだ。そう彼女は自分に言い聞かせた。内に大きな矛盾を抱えながらも、乙女は義龍の為に武器を振るい、多くの血を流すのだ。

「上等だ。さあ、行くぜ乙女。俺様を認めなかったこと、あの世で後悔させてやる」

「……義龍」

こんなことをしている場合ではないとは思いながらも、乙女は義龍の袖を引っ張った。

「あ? やっぱり俺に従えないなんて文句垂れるんじゃねえだろうな?」

「そんなワケないでしょ。そうじゃなくて。私は本気で義龍の作る国が見たいんだから。他の奴らは知らないけれど、私は本気。絶対勝ちましょう?」

「当たり前だ。俺様が正しいに決まってんだよ。負けるなんて有り得ねえな。だがよお、その一言は確かにぐっと来た。お前の為にも見せてやるぜ。たまには女房孝行も必要だろ?」

「今から八虐を犯すようなあなたにそんなことを言われるなんてね」

「お前もだろ、それは」

「まあね。いい加減行きましょう。義龍が号令すれば皆嫌でも付いてくるでしょう。駄目なら脅しつけちゃえば」

義龍はまた、大きな笑い声を上げた。乙女の言葉が余程嬉しかったのかもしれない。忠実な彼女は大きな戦力となりうるのだ。

息子と義娘に刃を向けられる気持ちなど、一生分からないだろう。道三は何を思っているのだろうか。別れの言葉は言わない。言わないうちに、その息の根を止めるまでだ。あなたの言葉通りに従っただけなのだから、私は何も悪くはないのだ!乙女は悪人の仮面を被った。血を浴びるのは素面の己ではない。そう思えば何も怖くなどなかった。幼馴染であり主君の息子加えて戦友、そして愛する夫である義龍が美濃を治めるのが待ち遠しかった。この仮面の下は義龍にも決して見せることはないだろう。共に悪人として生き続けるのだから。

(20250912)
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