みんな君のためにここにある
元就の死後も、表向き隆景はその喪失感に打ちひしがれることもなく、立派にその務めを果たそうとしている。小早川家を、そして毛利家を束ね指揮を執り続けている。上月城の戦いを経て彼は木津川口に出陣、その後も慌ただしく毎日を過ごしているのだ。父親を失った悲しみを誰かに見せることはなかった。
元春から見てもその様子は意外だったようだ。彼からすれば優秀だが生意気な節のある弟がよくもまああそこまで成長したものだ、ということらしかったのだが。それと同時に、彼はある危惧を抱いているらしい。偉大な父親が亡くなったからといって、誰かがその代わりに、なんてことは上手くいかないものだ。それを恐らく、隆景は分かっていない。自分の手の内には到底収まりきらないほど大きな責任と期待を背負っている。それでも、こぼれ落ちそうなそれを必死に拾い上げ、己のうちに全てを掻き集めて、父親の代わりであろうとしている。別に、毛利家の人間は隆景に全てを背負わそうとは思っていないのだ。彼はあくまでも小早川家の当主である。新たに毛利家の当主の座を継いだ輝元も子供ではない。隆景は本当の意味で全てを背負っているわけではない。気楽に過ごせとはいかないが、肩の力を抜くということも必要だ。その辺りが、隆景からは抜け落ちてしまっているのだ。
その抜け落ちた部分を補えるのはお前しかいねえ。頼んだぜ、可愛い義妹よ。
乙女は、義兄からそう伝えられたのだった。確かに、近頃の隆景は忙しい、などという言葉では済まされないほど働いている。夫婦の時間もろくに取る事ができず、乙女が既にすやすやと寝息を立てている頃に隆景は帰ってきて、乙女が目を覚ましたときにはもう彼はいなくなっているという始末だ。
妻としてできることなど、たかが知れている。とはいえ何をすればよいのか、具体的な手段は思い浮かばなかった。仮に思いついたとしても、二人で過ごすことができる時間は著しく減っている。果たして実行できるかどうか。
それよりもだ。普段は何かをするどころか、何かをされ続けるような毎日だった。だから何も思いつかないといってしまうのは些か情に欠けてしまうかもしれないが、それほど愛されているのだという自負が乙女にはある。
自信過剰で感情の起伏が激しい彼だったが、妻である乙女には何だかんだで尽くしているのだ。乙女はそんな隆景に素直に礼を言って、彼の天邪鬼な一面から覗く優しさ、強さを褒めそやす。それは大袈裟に言っているのでも何でもなく、本心からのものだ。昔からずっと見続けている彼のことだから、中々素直になれずにいる姿も魅力のひとつだと乙女は思う。隆景は妻の言葉を聞いて、当然だと言わんばかりに喜ぶ。そしてまた、その姿を見た乙女も彼を見て喜ぶのだ。優れた頭脳を持つこの軍師も、褒められると子供のようにはしゃぐきらいがある。これこそが「人間」、これこそが「隆景という人」なのだと思うのだ。
だが、それこそが弱点なのだとも言える。褒められることは、人間にとって大きな喜びをもたらす。だが、褒められるということが目的になってはいけない。何か目的を果たした結果、褒められるという過程でないといけない。褒められるためなら、どんなに過酷なことでも、きっと何の文句も言わずたった一人で実行してしまうからだ。
今の隆景は、偉い。乙女はそれ以上の賞賛の言葉を知らない。けれども、偉いだとか、頑張ってるだとは、言ってはいけない気がした。いつものように彼を褒めるだけでは、いけない気がした。
いけない気がするとか、きっとこうしてしまうとか。仮定の話ばかりが先行してしまう。
結局、すぐに答えは出ない。侍女や、時折顔を合わす隆景の部下たちと話す機会はあれど、夫婦間の問題なのだから踏み込んだ相談はできない。乙女は悩み続けている。
「あら、隆景様。どうかしたのですか? こんなに早いうちから帰ってくるなんて」
珍しく、隆景が早くに帰ってきた。まともに顔を合わせ、声を聞き交わすのは久しぶりだった。
「たまには、君と過ごすことも必要だろう? そう思って、今日は早くに切り上げてきたのさ。最近はまともに話すことすらできていなかったのだから。君のことを放っておくわけにはいかないしね」
乙女の正面に彼は座った。隆景は、ろくに睡眠も取る事ができない毎日が続いている。それにも関わらず顔色は良好、口ぶりも普段と変わらず、疲れを隠しているようにも見えなかった。
「そうですね……隆景様の帰りを待とうと思っても、つい眠ってしまうのです。お恥ずかしい限りですね。隆景様は遅くまで働いているのに」
「いいんだ。君は君らしくいればそれでいい。私のことは私で何とかしているのだからね。なんて事はない。これも毛利の為と思えば、軽いものさ」
疲れを隠しているようには見えないと。すれ違った程度の人間ならばそう言うだろう。確かに乙女の目から見てもそう思ってしまう。だが乙女は、今の彼が明らかに無理をしているということを元春の言葉から知ってしまっている。そして妻という立場の、 乙女だからこそ分かることもある。視線の合わせ方が普段とは違う。隠し事をしているかのようだ。よく見ると、長い髪の毛の先は傷んでいる。普段は丹念に整えられているというのに。身の回りに気を遣う余裕がなくなってしまっているのだろう。
そして、隆景が天邪鬼……もとい、忙しいときや困難が目前にあればあるほど、虚勢を張ることで、自己暗示をかけることで自らを守ろうとしているということも。ずっと、一緒に過ごしてきたのだ。その程度は分かってしまっている。
思えば、彼が自身の前で弱音を吐くことなどあっただろうか? 乙女の記憶の中に、そんな彼の姿はない。
弱い部分をさらけ出すことは、別にいけないことではないというのに。
「そうは言っても、毎日お忙しいのでしょう。……ねえ隆景様? 私の前くらい、ですよ? 無理して強く、何でもない風に振る舞う……なんてこと、しなくてもいいと思いますよ」
「……急に何を言い出すんだ。私は、別に無理など何もしていない。やるべきことは、私の手でやらなければいけない。ただ、それだけで……」
隆景の言葉尻が悪くなっていく。普段弱音を吐かない隆景に対して、諭すような物言いを 乙女はしてこなかった。 乙女は隆景に様々なものを与えられてきたが、何かを与えることはほとんどなかった。そんな彼女が隆景に、己の在り方を提示する。隆景にも、何か思うところがあったのかもしれない。
「それが、無理をしているというものですよ。私なんかでは理解できないくらい、隆景様は重荷を背負っていらっしゃいます。それは、皆が期待をしていたから。でも、私の前ではそれを下ろして欲しいのです」
「……それでも私は、たとえ君の前であっても弱さを晒すなんて、この生き方を捨てるなんて、」
「捨てろと言っているわけではありませんよ。ずっと重いものを背負っているのは大変でしょう? あなたはこの小早川家に来てからずっと、周囲の期待に答えようとしてきた。私はずっと見ているのですから、知っています」
乙女は、隆景が働きものでなかったとしても、与えられた仕事を満足にこなせなかったとしても、彼のことを肯定するつもりだ。
「私は何もあなたに与えることはできないけど、それはあなたに期待していないわけではなくて。何もせずとも、あなたがここに帰ってくるだけで良いのですよ」
「……仮に私が、家のことをほっぽり出すような、どうしようもない愚図だったとしてもだ。君ならそう言ってくれる、私のことを責めず、ただ私の傍にいるだろうと、どこかで思ってしまう。……けれど、」
「けれど?」
「でも、そんなの……ずるいじゃないか。私は毛利からこの小早川家に来て、君がいるのが当たり前で……君は、私のことをよく知らないうちから私と結ばれることを決められていて、それだけでもう十分なのに……その上、私の弱さを受け入れてくれるなんて、そんなの……ずるすぎる。私が何をしても、君には敵わないよ」
「……もう、隆景様ったら」
乙女はそれだけを言って、目の前にいる隆景を抱き寄せた。隆景はその勢いに呻き声を上げる。 乙女は思い切り、隆景の背中を抱きしめた。
何年も一緒にいるのに、今更弱さだなんだとか、どうだっていいじゃないか。
「… 乙女」
「ずるくても何でも構いませんよ。隆景様が安らげるのならば。私はあなたのことが好きだし、あなたも私のことが好きだってことをちゃんと分かっています」
「……私は……」
「無理を続けて隆景様が倒れてしまったら、それこそあなたのことをずるい、と思ってしまいます。ですから、ね」
隆景は何も言わなかったが、 抵抗することもなく乙女の肩口に顔をうずめている。
乙女も、隆景のことを頑張っていると褒めるとか、慰めるとか、感嘆するとか、彼の周囲にいる人間さえも簡単に言えてしまうようなことは言わなかった。ただ抱きしめて、隆景のことを少しでも安寧へと導きたかった。
やがて、隆景は 乙女と同じようにして背中に手をゆるゆると回した。同時に、鼻を啜るような音が聞こえる。相変わらず、彼は何も語らない。それも、 乙女からすれば想定内だ。小さく息を吐いたり吸ったりして、隆景は 乙女の肩を濡らした。ずっと彼が抱え込んでいたものが、段々と昇華されていくようだと 乙女は思った。
日が落ちて、星々が夜空に輝いている。落ち着きを取り戻した隆景は早くに帰ってきた本当の理由を 乙女に告げた。
「……その、変な噂……かどうかも分からないけど、こんな話を聞いた。私が君に、愛しているだとか……陳腐な言葉だけれど……時間がなくて、そんな言葉を言わなくなってしまったから君が怒っているって。馬鹿馬鹿しい話だと思ったけれど、本当だったら、と思ってしまう私もいたんだ。だから、私の気持ちは変わらず君にあるってことを言おうと思って……」
「そんなことが……? 怒ってなんかはいませんけど、確かに私、最近隆景様と会えなくて寂しい、と言った覚えはあります。惚気話だ、なんて言われたこともありましたから、それが変な方向に広まってしまったのかもしれませんね」
「当たらずとも遠からず、か……私のいない所で、君はそんな話を……」
「だって、隆景様がいないと寂しいのは本当ですもの。妻として、あなたのことを毎日考えているのですから。お顔が見れるだけでも、私とっても嬉しいわ」
「うう……そ、そうだ。私も君のことは、好きだ……今日、久しぶりに君の顔を見たけど、やっぱり、その……綺麗だ、し……こんなこと……わ、分かりきっているだろう!? 私が君のことを、どうしようもなく好いているって……」
「はい、知っていますよ。隆景様は私のことが好きで好きで毎日がどうにかなってしまいそうだってことくらい」
「……やっぱり、君には敵わないな」
隆景は、少し腫れた目を細めて静かに笑った。
(20250904)