君なんか厄災に決まってる
「聞きましたよ、元信様」

「……何の話だ?」

大人しくあまり感情を顕にすることのない妻が珍しく笑っていた。元信はぶっきらぼうな態度を取りながらも、内心ではどこか浮つきながらその言葉の続きを待った。

「義元様へのお言葉のことですよ。首が落ちても義元様を守り抜くって、仰ったのでしょう」

「……今となれば、失言やもしれぬがな」

確かに、元信は義元に対してそう言った。弁慶が矢を受けながらも仁王立ちし主を守った逸話に自身を準えて、首が落ちても主の命を守ると豪語した。しかし、義元には首が落ちたらそれまでだと窘められてしまったのである。なんて事のない会話だ。

元信の忠義は類まれなものであるし、彼の武勇は今川にとってなくてはならないものだ。義元からすれば、元信はそう簡単に首を奪われるような男ではないし、そのようなことはあってはならない。とはいえ、傍から見れば元信の発言はお笑い草だと評されていてもおかしくはない。

きっと、妻もその話を聞いて笑いに来たのだろうと元信は思った。情けないと感じなくもない。だが笑われようが何だろうが、乙女が笑う姿を見て悪い気はしないから不思議だ。とはいえ、普段よりも気分が高揚しているように見える彼女の様子は、ただ元信のことを馬鹿にしているだけなのだとも言ってしまうことができるだろう。実際、元信もそう思われている気がして、笑う妻に反してその表情は硬かった。

「あら、どうしてです? とても素敵だなあと私は思ったのですよ」

「それは真か? ……てっきり、拙者の思慮の至らなさを笑いに参ったのかと」

「そんなことしませんよ。元信様は本当に良い方に仕えておられるのだと強く実感して、嬉しくなったのですよ。あなたのような優れた臣下に恵まれて、義元様もきっと幸せだわ」

けらけらと幼い子供のように笑う妻を見て、元信もつられて笑みを浮かべた。妻の晴れやかな笑顔を見て、気分を良くしない男などこの世にいないだろう。

乙女は、自分に見合わぬほど清い心を持った女性だと元信は思う。

「義元様には、首が落ちたら命はそれまで、何も守ることはできない……だから、その身を軽く扱うものではないと諭されてしまったが。そなたを守ることができるのならば、首だけとなっても構わぬ」

首だけでも、そなたに付け入るような男に噛み付く程度のことはできるだろう。

乙女はまたもや笑った。こんなに珍しいことはない。

「何よりも、生きることが大切ですよ。体がばらばらになったり、心を落としてしまった後のことを考えるのは、まだ先の話です。でも、元信様のその言葉を大事にいたしますね」







元信は酒を呑みながら、遠い昔のことを思い出していた。

まだ義元が健在だった頃だ。まだ今川は滅びてなどいなかった頃だ。まだ自分が武田に仕えることになろうとは思ってもいなかった頃だ。妻が病で亡くなるとは、考えてもいなかった頃の話だ。

妻は、よくやったと思う。首が落ちても義元のことは守れないだろうが、それでも乙女のことは守ってやろうと思っていた。だが先に逝ったのは彼女のほうだった。

分からないものだ。いや、分からない素振りを続けているまま、生きていただけかもしれない。元来彼女は、体が強いわけでもなかった。だから自らを内に閉じ込めていた。そうであるからこそ、彼女が感情を顕にする……それがどんなに些細な瞬間だったもしてもだ。元信はそれが好きだったのだ。

そして、武田もまた、今川と同じように滅びの時が近づいているのだろう。勝頼からの援軍は来ることもなく、この高天神城の兵糧は今このときをもって底を尽きた。

最後の晩餐だ。元信は諸将に酒を振る舞い、宴に興じた。これで全ては終わる。夜が明ければ、最後の抵抗として自分たちは敵軍に突撃する。討ち取ることができるだけの敵の首を奪う。それだけでいい。


酒に酔い、束の間の夢を見る者も現れてきた。目を伏せていた元信がふいに顔を上げると、そこにはここにいるはずもない女が立っていた。

死装束を身につけている女だった。なぜだか、顔はよく見えなかった。

直感で、目の前にいるこの奇妙な女は亡くなった妻だと元信は確信した。周囲を見渡すも、元信以外の人間は彼女に気づいていないようだ。ますます、彼はこの女は妻そのものなのだという思いを強めた。

「……迎えに来たか」

朝日が昇れば、元信は死を覚悟して敵に当たりにいく。いや、覚悟という言葉では生ぬるい。死に向かって馬を走らせるのだ。それは何の策もなく、愚かなことだと嘲笑われてしまうことだろう。だがそれでも、やらねばならぬことだ。武士である以上、逃げてはならぬことだ。義元がいた頃は、そして鞍替えをして信玄がいた頃も、やがて彼が亡くなり勝頼を主として今まで、この首は自分自身から切り離せぬものだった。だがもう、それは過去の話だ。首は落ちる。そして、兼ねてからの言葉通り、その首は妻の元に帰るのだ。魂がなくとも、その首だけは、思考は、妻を守るためにあるのだ。死してなお、とうの昔に死んだ妻を守ろうとその体はうごめくのだ。

「私のことを死神だと思っても、構いませんからね」

妻はそう言った。

元信は首を振った。この先に待ち受ける死は、神に命じられるものではない。自分が選んだものでしかない。

「私はきっと、元信様のことを死へと誘うためにここにいるのです。私は、心を落としてしまったから。あなたを守ることができなかったから」

「お主は何も気にするでない」

「……私のせいにして、構いませんからね」

女は消えた。妻は消えた。

乙女は、自分がいないことに耐えられなくなったのだ。彼女を守るといったはずの己が未だこの現世に留まっているという状況に痺れを切らしてしまったのだ。心を落として、自身を犠牲にして、死を司るふりをしてここにやってきたのだ。

元信は酒を煽った。彼女のせいでもない。己のせいでもない。ましてや、援軍をよこさなかった勝頼のせいでもない。

時代が変わるだけだ。


日が昇る。女を見たという声はついに聞こえなかったということに、元信は安堵した。彼女が自身のことを災いを呼ぶ者なのだと称していても、他人にそう称される言われはないと思っていたからだ。

「……死神が、拙者を攫うか」

あんなに優しい死神を元信は知らない。最期に相応しい舞台を用意してくれたのだから。そう思うことが、罪悪を抱く彼女へのせめてもの慰めなのかもしれなかった。

(20250902)
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