落伍を夢見て
乙女が未来からやって来たのだと打ち明けても、朝倉義景という男はその柔和な笑顔を崩さずにただその言葉を受け入れるのみだった。

「どうしてそんなにお優しいのですか。どうして私のことを信じてくださるのですか」

乙女が朝倉義景という人間に対して抱いていたのは、所謂「無能」「暗愚」といった評価を受けるような男なのだ、というイメージだった。だって、そういう風に描かれている小説か何かを見たことがあるし、信長を追い詰めておきながらも最後には結局自分がやられてしまうという人生を送った人なのだから。だから、この世界で実際に出会った彼がそんな表象とはかけ離れたような男だと知って、随分と度肝を抜かれてしまった。

「……あなたが我が民、我が国の安寧を乱すような方だとは思えません。それに、困っている人を助けようと思うのは、当然のことでしょう。私は、この越前に住む民の平和を守りたいのです。あなたもその一員なのですから、何も気にすることはありません」

乙女は黙って頷いた。「良い子ですね」と言われて、思わず目を臥せる。優しい人だ。だが優しいだけではない、国主としての貫禄が確かにある。この簡潔なやり取りだけでそう思わせる力がある。現実は小説より奇なりとは、この事なのだと思った。何と返せばよいのか分からずにぼーっとしていると、顔を覗き込まれて見つめられる。目を細めて「照れずとも良いのですよ」と言う義景の声に、乙女はまたもや顔を合わさず目を逸らした。

「ああ、からかっているつもりはないのです。私があなたを見つけたとき、あなたは随分と疲弊して、何も話せずにいるようでしたから。あなたが色々な表情を見せてくれるようになったことが嬉しいのですよ」

「……そういうものですかね」

「そういうものです」

それにしたって、破格の待遇だと乙女は思ってならない。国を束ねる立場にある彼の言うことだから、一先ずは信じていくしか道はない。彼に拾われたことを幸運と思う他ないのだ。

「あなたは何も考えずとも良いのです。あなたのことは誰であっても傷つけることはできません。私が守っていくのですから」

出会って間もない自分に対して、どうしてそんなに熱くなれるのだろう。乙女は義景の言葉に頷くものの、納得することはできなかった。





乙女は住まいを保証されていることに加え、その他にも考えられないほど破格の待遇を受けている。義景は頻繁に彼女の元を訪れ、また彼に仕えている人間からは妙に恭しい態度を向けられる。まるで、高貴な身分の人間に対するような振る舞いを乙女は受けている。彼女が固辞しても城の人間は誰一人として堅い態度を崩そうとしない。

何だか、おかしい。

この城は、平和そのものだ。だが本当に、その一言で済ませてよいものなのだろうかと乙女は次第に考えるようになった。乙女がそう感じているのは、義景が部屋から出ることを快く思わないからだ。義景が暇さえあればやって来るものだから、不思議と寂しさは感じない。彼の命令を受けて様子を見に来る侍女たちも、主君と違わず心優しい人間ばかりだ。だが、乙女が城の中であっても自由に振る舞うことを決して許さなかった。

元からこの時代で育ったわけでもない。元の時代に戻らなければいけない気がする。いくらこの地が過ごしやすい環境だとしても。そう思っていても、義景が相手ではそのような事を口走る気にはなれなかった。手がかりを掴むことさえままならない。それには義景自身の言葉もある。

万一城から抜け出しでもすれば、いつどこに危険が潜んでいるか分かりません。城下も村々も、いつ賊の影が忍び寄るものか……戦う術のないあなたを無防備に連れ出すわけにはいきません。もしあなたに何かがあれば、私は悲しみの淵に落とされるでしょう。たとえ私が傍にいようとも、あなたを恐怖に陥らせる状況を作ってしまう可能性はないとは言えません。あなたは平和な世界だけで生きていてほしいのです。どうか、分かっていただけませんか。

そこまで言われては、乙女の立つ瀬はない。ただ、穏やかながらも捲し立てるようにして話す珍しい姿を見せた義景にささやかな恐怖を感じた。

義景のことは好きだ。だがそれは恩人であるからそう思っているだけのことなのだ。だが義景のほうは、単なる客人として饗すということ以上の感情を抱いているのかもしれない。そう気づいたのは、食事を運んできた女中が洩らした言葉がきっかけだった。

「最近の義景様は、あなたと出会ったことで生き生きとしていらっしゃいます」

「……以前は違ったのですか?」

「はい。……奥方様やご子息様を立て続けに亡くし、それでもその悲しみに耐え、民のために尽くしておられたのです。そこにやって来たのがあなたでした」

それだけならばまだ理解できた。

朝倉義景が、息子を亡くして失意に陥り政務を疎かにしたということ。そういった史実上の知識は、漠然とした状態だったが乙女の中にあった。自分が知っている朝倉義景像とかけ離れているのがあの男であるし、実際のところこの世界と現世に伝わっているこの世界で起きたと言われている出来事のうち、どちらが、何が正しいのかは分からない。

だが次に女が言った言葉を聞いて、乙女は事の重大さを思い知った。

「あなたは、どことなく奥方様に似ています。顔立ちが似ているというよりは、纏った空気が似ているというか……うまく言い表せませんが、まるで生まれ変わった奥方様が義景様に会いに来たかのよう。あなたが来てくださって本当によかった」

「……」

「既に家中では、あなたを義景様の妻として据えるべきだという声も上がっております。きっと、義景様は前向きに考えていらっしゃるはずですよ。本当に、うれしく思います」

涙ぐむ女を前にして、乙女は持った箸を落としそうになった。義景が自分に情を抱いている理由がやっと分かった。頑なにこの部屋から自分を出そうとしないのはなぜかを思い知った。

平和な世界だけで生きていてほしいというのは、きっと彼の本心なのだろう。もう二度と愛する女を失いたくないと思うのは、至極当然のことだ。彼の今まで見てきた振る舞いにある種の違和感を持っていたが、やっと確信に至る。今の自分は紛れもなく、寵愛を受けているのだ。妻として存在する女に向けるものと同じように。手を出されていない、ただその一点を除いて、だ。そして、その妻という称号は、現実のものとなってしまうのだろう。

「……乙女様? どうかしましたか?」

「い、いいえ……」

自分は、史実における朝倉義景の……そう、最後の妻になろうとしているのではないか。寵愛を受けるが、義景は妻を愛すがゆえにさらに政務を顧みなくなり、次第に家中の評価を落とす。朝倉は浅井と共に織田と戦うが最終的に迎える末路は悲惨なものだ。義景の死が確実となれば、その妻であった人間も容赦なく殺される。

ここにいては、元の時代に戻る方法を探ることができないどころか、有力な手がかりを得ることもできずに死にゆくだけではないのだろうか? 乙女は戦慄した。食事はうまく喉を通らなかったが、無理やり飲み込んだ。義景に会うのが初めて恐いと思った。

食事を下げに来た別の侍女にも、 乙女は顔色が悪いことを心配された。何でもないのだと言ったものの、その内心は穏やかでなかった。





「具合が悪いのではないかと、あなたを心配する声を聞きました。あなたに無理をさせるわけにはいきません。体調が優れないのならば、医者を呼びましょう」

「……そういうわけでは、ないのですが」

どっちが言ったのか分からないが、本当に余計なことをする。乙女は義景に対して、精一杯取り繕って無理に笑みを浮かべた。

「何か至らぬ点があったのならば、私が何とかします。あなたには健やかに生きていてほしいのです。私はあなたに光明を見たのですから」

「……光明?」

「ええ。……民の安寧を守ると言いながら己の妻子には何もできなかった。ですが、だからこそ私はあなたの存在に救われたのです。今度こそ私は、失うわけにはいかない」

侍女の言っていたことは、やはり間違いでも何でもないのだろうと乙女は思う。

乙女の気分を害したのはこれから彼が辿る末路とそれに伴う自身の最期を想像してしまったからだ。どうせ知ってしまったことだから、と乙女は侍女から聞いたことを義景に直接尋ねることにした。

「……その、聞いてしまったのですが。私を妻にすることを勧められていると。本当、なのですか。それが信じられなくて……恐れ多くもあるし、私のような人間を、と……それで、考え込んでしまって」

半分は嘘だ。義景と自分が将来、安寧とほぼ遠い状況の中で死に追いやられることに怯えているのだ、などと乙女は言えるはずもない。

「ああ、あなたの耳にも届いていたのですね。……勿論、無理強いはできません。あなたが幸せであることが何よりも大切なのですから。妻にするというのは、その方が都合が良いと思われるというだけです。あなたに近づく不届き者がいないとも限りませんから」

妻になろうがこのままだろうが、義景の庇護の下では彼以外の誰ともろくな交流は見込めないだろう。その程度のことは分かっているだろうに。誰がこの城の中で、義景の寵愛を受ける自分をわざわざ奪おうとするものか。乙女は、これでは結局自身が想像出来うる最悪の未来から脱することはできないのだろうと思った。

「ですが、もしあなたが私を受け入れてくださるなら……それほど喜ばしいことはありません。私はもう過ちを犯したくありませんから……」

「……それって、私と亡くなった奥様が似ているから、ですか? そんな話も、聞いてしまいました」

「そうですね。……それもあるかもしれません。私はあなたを通して罪滅ぼしをしようとしているのかもしれない」

義景が見ているのは、きっと自分ではない。自分を通して、死んだ妻子を見ているだけなのだ。乙女のことを一番に考える人間はここにはいない。分かっているのだ。ここに、乙女の望み……元の時代に帰ることを手助けする人間はいない。

「……今は、何も決断できません。義景様のお考えは、理解できるのですが」

「分かっています。私も、すぐにどうこうするつもりはありませんよ」

「……」

「安心してください。私はあなたを脅かすような人をあなたに近づけたくないだけです。あなたの幸せを願っているがために」

この人、私が元の時代に帰りたいなんて言ったら一体どうなってしまうのだろう。

乙女は全てを知っていてもなお、その時まで何も言い出せない自分の姿を想像した。義景だけではなく、彼に仕える人間皆に囲われているのだ。帰りたいと、城から出たいと言えばどのような目に遭うか分からない。

「私、幸せになれますか。幸せは続くのですか。これから先も。私が老いて死ぬまでの間、ずっと」

「勿論です。私を信じてください。何人たりとも、この国に、そしてあなたに手出しはさせません」

この言葉を信じることができるのならば、どれだけ楽か。彼はまだ金ヶ崎で織田軍を追い詰めながらも肝心の信長を取り逃すことになろうとも、姉川で大敗を喫することも知らない。

私だけが知っているのだ。

「……義景様が私のことを本当の意味で慈しみ、思いやってくださるのならば、信じましょう」

「それで信じてくださるのならば安いものです。私はあなたをここに連れてきた頃からずっと、あなたに惹き付けられてならないのですよ」

本当に信じてほしいと言うのならば、こんな束縛なんてしなくてもその人を大切にすることができるはずなのだ。喪った妻子を見ているから、そこに心を惹き付けられているから、今を失うことを極端に恐れてしまっているのだ。

今はまだ、彼のことを信ずるには足らない。

一刻も早く、彼に悟られぬうちに元の世界に帰る手立てを探さねばならないと思った。

ここにいる私をただ見ているだけならば、そこで初めて、あなたを信じることができるかもしれないというのに。共に死ぬのも悪くないと、思える日が来るかもしれないのに。

乙女は、全てを心の中に留めた。

(20250830)
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