糸玉を差し出さずにいられなかった人のこと
これの世界線の張コウ(夢主は別人)

張コウ殿は変わった人だ。けれども優雅でその所作は指の先まで整っていて、一国の、それも武勇も智勇も兼ね揃えている優れた将軍だなんて言われても信じることができないくらいに美しい。文化面にも精通しているし、戦いなんてなくても彼ならば自由に生きることができるのだと思う。欠点なんて、全くもって見当たらない。彼の元で戦うことになるのだ、ということを伝えられたときは上手くやっていけるのだろうかと悩んだりもしたけど、そんなのは杞憂でしかなかった。

女の癖に戦場に出るなんて女を捨てている、だとかそんなのじゃいつまで経っても女としては見向きもされない、だとか馬鹿にしてくる人も多くいたけど張コウ殿はそんなこと一度も言わなかった。さらに彼の下で働く人達は誰であっても美が何たるかを追求できるのだということを(始めは戸惑ったのだろうけれども)知っているようだったから、彼のみならず私を揶揄してくるような人はいなかった。人の魅力はその外見だけで決まるものではない。美しさというものもそれと同じで、内面から滲み出るものでもあるのだということを他でもない張コウ殿自身が証明している。だからこそ戦場でも輝くことができるのだと思う。私もそんな彼に感化されていたのかもしれない。昔よりも、自分に自信が持てるようになった気がする。これからの毎日が楽しみだった。



「恋をすると人は美しくなると言います」

「な、なんですか突然」

ある日張コウ殿は私にそう言った。いきなりのことだから驚いたけど、張コウ殿の言うことは的を得ているのだ。美しいかどうかは定かではないけど、私は間違いなく恋をしている。本当ならば彼に向かって凄い、凄いと馬鹿みたいに褒めそやしたいくらいなのだが、そんな砕けた口調で話せるようなお人ではない。私はできるだけ平静を装って話すもどうしても上手くいかなくてしどろもどろに返事をする。

「あなたを見ていれば分かりますから」

そういう張コウ殿は悪戯をする子どものように笑みを浮かべたから、この人もこんな表情を見せてくれるんだと思った。新鮮な気分だった。

「……そうなんです。私、好きな人ができちゃいました」

張コウ殿の笑みが一層深まる。そうでしょうそうでしょう、と彼は一人で勝手に舞い上がった。比喩ではなくて本当に舞い始めるこの上官は、やっぱり凄い人だ。……所構わず踊り出す度胸を馬鹿にしているわけではなくて。好きな人のことを考えて有頂天になっている所を見られていたのかもしれないのに、この人が相手だと考えればなぜだか恥ずかしい気持ちには全くならないのだ。そういう凄さも、彼にはあるのだと思う。

「部下の将来を案じるのも仕事のうちですからね。何か自分の往く恋路に迷いが生じたのならば、力になりましょう。さあ、些細なことでもお話ください」

相談役としてこれ以上に頼もしい人がいるだろうか。いや、いない。

「私……どうしてもあの人のことが気になって仕方がないんです。ずっと悩んでいて……」

私は張コウ殿に早速相談することにした。張コウ殿は文句のひとつも言わずに聞いてくれる。男だらけのこの場で、まさか上官であるこの人が親身になってくれるなんて。自分から志願したわけではなかったけど、張コウ殿に巡り会えて良かったと思う。運命って不思議だ。何だか上手く行きそうで、私はより一層頑張ってみようかな、なんて思った。



「益々、あなたの美しさには磨きがかかってきたように感じます」

「……分かりますか。流石は張コウ殿です」

私は零れる笑みを隠しきれなくて、きっと変な顔をしている。張コウ殿はいつものように長い手足を羽ばたかせるようにして動かしながら、ええ、ええと何度も頷いて喜んでいる。

それもそのはず、張コウ殿の助言もあって私は想いを寄せていた人と結ばれたのだった。互いに武人、しかも配属先は異なるものだから二人きりで会う機会は意外とない。それでも、いやそれだからこそ私は彼のことを短い時間で深く知ろうと思ったものだし、気づけば好きになっていたのだ。貴重な時間を縫って逢瀬するのは、毎回どきどきするけど、刺激的で楽しい。

お洒落に疎い私のことを見繕ってくれるのも、私一人で準備するときに備えて出かける時も恥ずかしくないように手取り足取り身だしなみの指導をしてくれたのも張コウ殿だ。武人だからこんなこと気にしてられない、なんてことはありはしなかった。それに気づけたのは張コウ殿が居たからだ。上官として、だけじゃ言葉が足りないくらいに感謝しっぱなしだった。

「張コウ殿のおかげです。今まで自分が誰かを本気で好きになるなんて思わなかった……けど、こんなにも楽しいものなんですね」

「私も、あなたが幸せそうに笑っている顔を見るのはとても嬉しいものです。何せ大切な部下、それも今まさに蝶となって飛び立とうとしている姿をこの目で見ることができるのは大変喜ばしいことですから。自分のことのように心が沸き立ちます」

蝶となって飛び立つ。それって私が結婚することまで視野に入れているのかな。分からないけど、そうなったら張コウ殿には簡単に会えなくなりそうだ。やっぱり結婚したら武人ではいられないのかな。それは寂しいけれど、張コウ殿ならそれも祝福してくれるのだろう。まだそんな話は出ていないけれど。張コウ殿はいつだって先を見通している。でもなんで、私のことをこんなに気遣ってくれるのだろう。直属の部下、という立ち位置ならば確かに私一人だけど、彼に関わる女性は私だけということでもないだろうに。











「張コウ殿」

「……今は、無理をして何かを話そう、と思うものでもありませんよ」

「……はい」

やっぱり、張コウ殿は優しいし、いつだって部下の一人に過ぎない私のことを慮ってくれる。

私の恋人は、機密事項が書かれた書簡を持ち出して他国に降ったらしい。密約を交わしていたのだとか。それだけならいざ知らず、ただの恋人である私も彼と一緒に降るつもりなのだ、などという虚言を彼自身が撒いて姿を消したから、私は本当に酷い目に遭ってしまった。

結局それを救ってくださったのは張コウ殿だ。恋人は何を思ってあんなことをしたのかすら、私は知ることはなかった。あんなに好きだと思っていたのに。私の彼への想い、そして彼が私に抱いていた感情なんてものは、所詮この程度だったのだ。

「恋は人を美しくするのだと私は言いました。それは、間違っているとは思いません。事実、あなたは美しい。初めてあなたと会った時とは比べ物にならないくらいに。私はずっと見てきましたから、そこには寸分違わず間違いなどありません」

張コウ殿は変わらず私の傍にいる。もしかすると、あの恋人よりも私と彼は長い時を共にしているのかもしれない。私を庇って無実を訴えたことすら、この人は何も見返りを求めることはなかった。あの恋人だったら同じ状況に陥ったとして、何を言うのだろう。……考えても意味がないことを考えてしまう。考えないといけないことは、これからのことなのに。

「恋は、美しくなるための手段である、と言い換えることができるでしょう。恋が手段であるとすれば、愛はひとつの目的、ひとつの到達点です。けれども、愛は必ずしも美しいものである、とは限らないのですよ。……あなたが思っている以上に、それはずっと醜いものです」

私は俯かせていた顔を上げる。いつものように優しい口調。私を諭すかのように……でも、何でいきなりそんなことを言うんだろう。私と恋人との間に築かれていた愛を否定するような言葉。でも不思議と怒りや悲しみは湧いてこなかった。なぜなのだろう。それは張コウ殿の表情を見ればすぐに答えが見つかった。……いや、表情を見るまでもなく、導き出されていたのかもしれない。

「張コウ殿」

彼の名を呼び、その目を見つめる。同じように見つめ返してくれるその目は私を見ていないような気がした。初めて見る彼の表情。何と言えばいいんだろうか、これは。

私の向こう側に、私でない誰かを見ている気がする。張コウ殿の先の言葉は、本当に私一人に向けられているものなのだろうか。

「私は、愛の不完全さを知っているのです。いや、知っているはずだったのです。それなのに同じ過ちを……私を恨みますか、乙女」

私の名を呼んでいる。彼はいつだって私を……けれどもどこかがおかしい。私は何と言えばいいのだろう。

「張コウ殿、いきなりどうしたのですか……あなたを恨むだなんて、そんなこと、あるわけ」

「いいのです、あなたに恨まれたのだとしても、私は……」

「何を、仰っているのですか。悪いのはあなたではありません。あなたが私を救ってくださったというのに」

恨むだなんてそんなこと、するはずがない。張コウ殿は私のために懸命に動いてくれた。そんな彼を煩わせた私のほうが謝らないといけないのに。張コウ殿はまだ言い足りないことがあるのか私を見つめながらもより苦しげに顔を歪める。以前もこんな表情をすることがあるんだ、と思ったことがあったけれど、今回のこの揺れ動く心情をそのまま体現したかのようなそれはそんなのとは比にならないくらいに私の胸をぎゅっと締め付けるのだ。叫び出したくなるほど痛かった。戦場で怪我をしたときのような痛さとは違う。この痛みは薬なんかでは治らないんだろう。張コウ殿もこの痛みを感じているのかな。

「乙女……」

再び私の名を呼ぶ声がして、そこから張コウ殿は何も言わないまま顔を伏せた。私もこれ以上何と言えばいいのか分からない。沈黙が重くのしかかる。

「……私は、どうかしていますね。辛い思いをしたあなたに対して一方的に思いの丈をぶつけてしまうなど……」

「張コウ殿。……いいんです、私のことなんて、」

張コウ殿はやっと顔を上げてそんなことを言うものだから、私はなんだか自分のことよりも彼のことを案じてしまう。取り乱すことなんてなかった彼の珍しい姿。でも完璧だと思っていた人の完璧なんかじゃない姿というものを見て、安心してしまった自分もどこかにいるのだ。

欠点なんてない、と思っていた張コウ殿。でも私と同じなんだきっと。だからこそこうやって私と同じように悩んで、ときには人を傷つけてしまうかもしれないことを言ってしまって……でも、生きているって、こういうことなのかもしれない。

「あなたを見ると、思い出してしまうのです」

やっと、目が合った気がする。現実として確かに存在する二つの目だけではなくて、心の中に存在する目が。

「……私には、結ばれることのなかった恋人がいました。あなたには、あの娘の面影が見えるのです。ああ、私は謝らなければいけません。あなたは、あなたでしかないはずなのに」

彼が何を言おうとしているのか。今まで、どうして私のために尽くしてくれていたのか。この言葉だけで、全てが分かった。きっと、私がこの言葉から読み取ったことは、間違っていないはずだ。

彼は未だにかつての恋人を愛しているのだ。だからこそ私には幸せになってほしいと思っているのだ。私が幸せになれば、彼の残された、表には出てくることのない秘められた未練は昇華されるのかもしれない。そうであるから躍起になって私のことを常に考えてくれていたのだ。

でも、彼自身の幸せって何なのだろう。愛だって、美しいものであるはずなのに。醜いものであるなんて、私は信じたくはない。例え張コウ殿が何と言おうとも。だって、愛は私が思っているよりもずっと美しくないものだなんて、そんなの悲しいに決まっている。

「私は十分、幸せですよ。全て張コウ殿のおかげです。……張コウ殿はちゃんと、私を見つめてくれていましたよ」

なんて月並みな言葉だろう。私は学もないし、気の利いた言葉なんてものは全て張コウ殿に教わったのだ。でも張コウ殿は何かを感じたようだった。美しい、という言葉ひとつにも様々な意味合いを持たせ、見つけることができる人だから、そう考えることができたのだろう。

「……やはり、あなたは美しい。……あなたのまま……」

私だけじゃない。あなただって、やっぱり美しいんだ。

張コウ殿となら、本当の愛を見つけられるんじゃないか。そんな予感さえもしてくる。愛って別に、恋を媒介する必要なんてありはしないはずなんだ。張コウ殿なら、本当は分かっていたはずなんだ。きっと見えなくなっているだけなんだ。

「あなたが私にしてくださったこと全ては、結果がどうであれ愛に違いないはずなのですよ」

私がこの人に何かを享受するかのように話すなんて。暫く前だったら思いもよらぬことだ。でも張コウ殿は目から鱗が落ちたみたいにきょとんとして、それからやっぱり今までに見たことがないような優しい微笑みを浮かべた。彼の優しい姿は何度も何度も見てきたけれど、格別に美しいと思った。やっぱり月並みな言葉しか浮かばなかったけれど。

(20241011)
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