燃えたのは涙じゃなかったか
城の周りには織田信長が率いる大軍がいる。既に城下では兵がひしめき合って血みどろの戦いとなっていた。

よくもまあ、諦めずに戦っているものだ。乙女は未だに戦意を保ちながらも傷を負って苦しんでいる兵士を見て、自らの服を苦無で切り裂いてこれで止血しろと差し出した。兵士は乙女の裂いた服の下、露出した腕を見てまるで異形の怪物を見るかのような視線を向ける。乙女は何だ、まだそんなことを考える程度の余裕があったのか、と手を差し伸べた兵士を冷ややかな目付きで見た。

多少の切り傷ぐらいで死にそうな顔をするんじゃないよ。こっちはあんたよりも酷い有様だっての。

乙女の腕は酷い火傷跡で覆われている。腕だけではなく、体の至る所に広がるそれは、精神にも深く傷を残し続けている。

これでは上階に迫ってくるのも時間の問題だな。乙女は敵と味方の間を器用にすり抜け、主君に戦況を伝えるために天守へと向かった。



「……我らの勝ち目は」

足音一つ聞こえない天守で、三淵は乙女の気配を察してか声を発した。彼は振り返ることもせず、ただ薙刀を手にして立っている。

「皆もう降伏しました。この城を守るのは私たちだけですよ、藤英さま」

「やはり、覆りはせぬか」

「残念ながら。じきにここも穢されますよ、きっと。私たちがこうなのですから、上様のところも同じようなものでしょう」

「……無情なものだ」

全ては三淵が招いたことだ。信長包囲網の糸を引いているのは義昭……と表向きはなっているが、その策を講じたのは彼の力によるものである。彼が雑賀衆と手を組むことを選び、そして結果的にひとつの凶弾が帰蝶の命を奪った。これはもはや天下を新たにする為の戦いとはいえない。信長による、妻の仇を討つための戦だ。

因果は巡る。とはいえ、だ。

醜いなあ。戦いは全部。乙女は静かに三淵の元に向かって歩いた。足音を出さずに歩くのはもう慣れた。小さい頃からそうするように矯正されたからだ。それでも近寄る彼女の姿を察することができるのは、三淵と……先の将軍、足利義輝だけだった。

「お主は、これからどうするつもりなのだ」

三淵が何も言わなくても、乙女は彼がこれからどんな未来を辿るのかを容易に想像できる。勝ち目がないのならば降伏する他ない。だがそれだけでは信長の怒りは収まらない。

誰かが責任を取る必要がある。三淵は全てを背負う決意を固めている。

「藤英さまは、どうしてほしいのですか? だって私、命じられなければ何もできませんよ」

「身共に着いてくる必要はない。あ奴らが求めているのは一連の首謀者の首のみゆえ」

「……意地が悪いですね。あなたが思うよりもずっと、私はあなたがいないと何もできないのに。私を放って行ってしまうなんて」

「知っている。我らがお主をそう育ててしまった。……今更詫びの言葉もない。だがこうでもせねば上様は守れぬ。それに、お主の命もだ」

「酷いなあ、藤英さまは。私はもう既に一回死んだようなものなのに。あなたの手で、二度も生かされるなんて」

乙女は振り返ってくれない三淵の後ろに立って話していたが、彼の顔を見たくなってついにその正面に躍り出た。

三淵は、やっとここで乙女の顔を、そしてぼろぼろに崩れた装束を目に入れた。彼女の火傷跡を見ても、眉一つ動かすことはない。

「……お主の魂は、いまだここにあろう。まだ死すべきときでもない」

「そう思いたいのは山々ですけど。でも、忘れられないのですよ。義輝さまのことが。藤英さまだって魂の半分はあそこに置いてきたんじゃないですか? もう半分は上様に捧げたとしても」

「忘れられるはずもない。お主を救った日のこともな」

乙女は義輝に忠誠を誓った忍びだった。身寄りのない彼女に生きる術が与えられたのは、今は亡き彼のおかげだった。

乙女は義輝が襲撃を受けたあの日、三好方が放った火計に巻き込まれ大火傷を負った。恩のある義輝を救うことはできず、生きる意味を失くした乙女を救出したのが三淵だった。それから彼の命じるままに働いている。

「本当の私は、あの日に死んでいます。三淵さまのことは大好きだけれど、この火傷跡が戻らないように、私の魂は帰ってこないのですよ。三淵さまが上手く操ってくれないと、この体は空っぽのまま」

「……乙女。身共を許せ。身共の代わりに上様のことを……いや、それを言う資格はない、か……好きなように、生きればよい。お主ならば戦乱のない地で穏やかに暮らすこともできよう」

義輝が父だとすれば、三淵は兄のような存在だ。彼に従い京を離れ、越前、尾張と広い地を渡り歩いた。そうして今、舞い戻ったはずの京で、この長かった旅は最悪の形で終わりを迎えようとしている。

三淵は乙女に生きていてほしいと願っているのだろうが、乙女は最早恩人を二度も亡くした上でのうのうと生き永らえるなど考えられなかった。義昭に尽くしたい気持ちもないわけではないが、その気持ちは三淵があってこそのものだ。義昭のために武士でもなんでもない自分ができることがあるとも、今更光が当たる世界に戻って血を浴びない生活に戻れるとも思えなかった。

「……お主と過ごした日々は楽しかった。身共は思えば、あの方の幻影をお主に見ていたのかもしれぬ。もっとお主自身のことを見ていれば、違った未来が待っていたのかもしれぬ」

「藤英さま……」

「身共は降伏する。そして、上様の助命を嘆願いたす。この首と引き換えに」

どんな境遇にあっても誇り高く、弱音を吐き出すこともなかった三淵の本音を垣間見ることができた。いよいよ、終わりが差し迫っているのだろう。

話は平行線のまま、きっと結論を出すことができない。乙女が共に殉じたいと思っても、三淵は乙女に生きてほしいと願い続けるのみなのだ。

「私も、少しは頑張ってみます。色々と」

「……うむ」

いつも気難しい顔をしている三淵が、少しだけ口角を上げて微笑んだ。

本当のことを言ってるわけじゃないって、藤英さまなら気づいているはずなのに。

これが最後に見る彼の笑顔になるのだと思うと、乙女の胸が締め付けられた。火傷よりもずっと痛い。生かされるのは二度目だったが、心が死んでいくのもこれで二度目だと思った。





三淵達が守っていた二条御所、そして義昭が籠城していた槇島城は陥落した。かねてからの言葉通り、三淵が腹を切ることを条件に義昭の命は保証された。

しかし、三淵が切腹した折にある事件が起きた。彼の介錯を務めた織田方の将が何者かによって惨殺されたのだという。

その犯人として彼の死後明智光秀の元に身を寄せるある女の名前が浮上したが、光秀は強く否定した。光秀はかつて三淵と誼があったことから犯人を庇っているのではないかと疑う声もあったが、確証はなく次第にその話は立ち消えとなった。

やがて、その女も光秀の元から消えた。京を追放された義昭に付き従う人間の中に、よく似た容姿の女がいると囁かれた。光秀は「友人との約束を守っただけだ」としか言わなかった。

(20250828)
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