これの続き
私がお嫁にいったら、あなたはどうするつもりなの。呆れや諦念を含んだ乙女の言葉にも楽進は正直であり続けた。
自分が尽くすだけで、仮に何も与えられなくとも幸せなのだという考えは楽進にとってのみ都合のいいもので、乙女からすれば迷惑なものでしかない。
乙女が「かましてやった」つもりで将来のことを強制的に考えさせようとしたつもりだったのだが、結局のところ楽進の確固たる意思を見せつけられただけだった。一度は彼の告白を断ったわけであるし、嫁いでさえしまえば彼だって諦めがつくだろうと考えていたのだが随分と甘かった。
大体、告白したとてそう簡単に結ばれるような世の中ではないのだ。現に乙女は、心に決めたわけでもない男と結婚することを迫られている。断る理由はない。心に決めた他の男がいるということもなければ、このまま自分が戦場で立っていられるだけの度胸があるとも思えなかった。
一線を退く良い機会だと考えたのである。婚姻は滞りなく行われ、乙女は晴れてとある将の妻となった。
以前の問答は一旦置くとして。同僚として世話になった楽進にそのことを伝えないわけにはいかなかったから、仕事を引き継ぎ終わったことやこれからは戦地に足を踏み入れることもないこと、今までの礼を伝えた。
特に変わった様子もなく、楽進は同じように今までの感謝を述べ、これからの幸福を祈った。自分の気持ちに正直であり続けたいというくらいだったから、果たしてどんなことを言うものかと妙に乙女は緊張してしまったが、特段おかしな点はなく、その日を最後に彼とは会っていない。
諦めてくれたのだろうか。そんなことを考えながら過ごす新しい生活だったが、乙女にとっては不本意な形で楽進と再会することになる。
来客がある。侍女に呼び出され向かった先には楽進がいた。
「お久しぶりです、乙女殿。……僭越ながら、祝いの品を、と」
「……ありがとう。楽進殿……申し訳ないわ、あなたが直接届けてくれるなんて」
「いいえ。私が望んでやっていることですから。末永く使っていくことができるものを、と思って選び抜きました。あなたに喜んでいただくことを夢見て……ですが悩みに悩んでしまってせいで、遅くなってしまいました」
祝いの品は陶器の器だった。夫婦で使えるようにという計らいだろうか。二つ並んだ器は素朴な見た目であるが、実用性に長けていそうだった。
今更そんなものよこさなくていいのに。と言えるはずもなかった。楽進の表情は、何の裏もないと言いたげで、純粋に乙女を喜ばせたいという一心であるということが読み取れる。
「あなたの心遣い、嬉しいわ。大切にしましょう」
楽進は帰るまで笑顔を絶やさずにいた。自分と話すことがそんなに楽しいというのか。乙女はもう武人ではない。ましてや昔のように楽進と二人で飯を食べ酒を呑むことができるような関係性でもない。楽進だけが、それを表面上では分かっていながらも分からないふりをしているようだった。もしくは、本気でこれまでと同じ関係性が一直線に続いていると考えているのかもしれない。
邪推をしすぎているという可能性があると思いながらも、乙女はそうした予感を拭い去ることはできなかった。
それから暫くの間、乙女は夫と不自由のない暮らしをしていた。
戦場に立つという、いわば自身の根幹を作っていたものを奪われたという意識は一切なかった。むしろ、これまで経験したことのない物事を自分から率先して行うということが新たな楽しみとなった。
侍女に混じって、全く同じように炊事や掃除といった家事を行うことを初めは止められたこともあったが、戦場で負った大きな怪我に比べれば針仕事で指先から血を流すのは些細なことだった。
一つだけ懸念があるとすれば、楽進から貰った祝いの品だった。他人からの貰い物は必ず使わねばならない、などという義務はない。
家人の目に触れない所に置いておくこともできた。しかし、乙女は自分のものと夫のもの、それぞれを食事の度に使用した。彼女がそうしたいからというよりは、夫が使うことを勧めたのだった。
乙女の夫は、優しい男だった。かつて乙女に告白した楽進から貰ったものであるということを知りつつも、そこには何も触れなかった。
優しすぎるくらいだ、と乙女は思った。どうせなら、きっぱりと楽進のことを否定してくれれば良かった。中途半端に過去の禍根が残っている。これらが過去にあっただけの出来事であると割り切れるわけでもない。
「自分に正直であるだけ」だと語った楽進のことである。また何かと理由をつけた上で彼と会う未来がある気がした。
その予想は間違いではなく、程なくして再び楽進は乙女のために邸を訪れた。
「今度は、何を持ってきたの」
二度目の訪問だった。夫がいない隙に彼はやって来る。前回もそうだった。乙女は楽進のそういった部分もあまり好きではなかった。夫への罪悪感があったからだ。政略結婚とはいえ、共に過ごすうちに夫への情が芽生えてきた。尚更、楽進と二人でいることに抵抗があった。
「貰った果物のお裾分けです。皆で食べてください。乙女殿も慣れない日々の中で、疲れが溜まっているかもしれません。ですから、美味しいものを食べてほしい。そう思ったのです」
乙女の訝しむような視線が楽進に突き刺さる。それを分かっていない彼ではないだろうに、懸命に手土産を手渡す楽進の姿は健気だった。それを口実として二人きりで話したいのだろうか。乙女の予想とは裏腹に、楽進は手短に話し終えたあと去っていった。
「また、来ます。乙女殿のお顔が見られて、本当に良かったです。それでは」
お裾分けとは言っていたが。見るからに美味しそうなものばかりで、数も多い。もしかすると、これも陶器と同じく楽進が選んで買ったものなのかもしれない。
困った人だ。乙女が洩らすも、夫は笑うだけだった。自分もこの人のように心が大きければ、どんなに楽だっただろうかと思った。それだけに、さらに夫への愛情が深くなる。楽進からすれば皮肉なものだったが、彼自身がそれを知る術はないのだった。
そこからまた時が過ぎ、三度目の訪問。楽進は何も持っていなかった。「会いにきました」その一言だけを土産にしてきたのだった。
「私にわざわざ会いに来るのはあなたくらいだわ。仕事の引き継ぎで不備があるとかで連絡をよこしてくる人もいなくなったし」
「あなたに会いたいという気持ちは、消えることはありません」
「どうして」
「……大切な人、だからです。だから直接会いたいのです。どうしても」
「私、あなたのことは好きじゃないって言ったのに。それは今も変わっていないわ。……あなたも分かっているでしょう」
「分かっています」
「……私に何を求めているの」
「何も求めていません。あなたからは何もいりません。私はただ自分の気持ちを捨て去りたくないだけです」
「私が拒否しても、あなたは私を諦めきれない? ずっとこうやって会いに来るつもり?」
「……諦めたくありません。どうしても。あなたを傷つけたくない、そう思っているというのに……やはり今でも諦めが……つきません。どうしても。……あなたを想う気持ちは変わりませんから」
厄介だ。見返りは求めないという楽進が、どうすれば満足するのか、どうすれば諦めてくれるのか乙女は分からなかった。人妻に懸想するなど健全ではない。
この先ずっとこの行為が続くと思うとうんざりする。だが楽進のことを、強く否定して締め出すには至らなかった。馬鹿正直に打ち明ける純朴さ、好きだという思いを隠さずにいながらも決して強引な手段には及ばない理性が共存している。
何よりも。同僚として共に戦った日々や、日常を過ごした思い出が、乙女の邪魔をする。
友人としてならば、これ以上にないほど良い男だ。告白されたとき、将来を共にする未来を予測することができないほど近くにいた男だ。
互いに別の人間と結婚し、互いに祝いの品を送り合うような想像しかできないような男だ。
情がないから、彼の告白を断ったのではない。情があるからこそ、契りを交わすほどの愛を抱くことができなかった。愛を持ってしまったら、自分を保つことができなくなる。尽くしたがりのこの男の性質さえ既に熟知していたのだ。一緒になってしまえば、彼に絆されてしまう。それを知ってしまっているから、知ってしまったことが、箍となって心を閉ざす機能と化していたのだ。
それを楽進は分かっていない。楽進はきっと、自分は乙女に好かれていないとでも思っているに違いない。乙女は楽進が打ち明けたように自分もそうする義理があるのだと感じたが、できなかった。言ってしまえば、再び関係性に亀裂が生まれてしまうような気がした。せいぜい「次に来る時も、夫がいないときを見計らって来てください」とだけしか言うことはできなかった。
それからまた季節は巡った。乙女の夫は長い遠征で遠い地に行ったきりで、時々書簡が送られてくるのみだった。
夫のことは、愛している。書簡には必ず返事をしたし、互いを案じ続けていた。
だがある時、彼の筆跡が記された書簡は途絶えた。代わりに届いたのは、夫の訃報だった。
政略結婚という出会いだったが、夫と過ごした日々は楽しいものだった。乙女を含む家中は悲しみにくれた。
そんな中で、楽進はまた乙女の元に現れた。
夫の死からある程度の期間を経た頃だった。
彼もその訃報のことを知っていたらしい。かける言葉が見当たらないと前置きしつつも悔やみの言葉を投げかける楽進の姿はやはり純真で、この期に及んで乙女を掠めとるような真似はするはずもなかった。
それにどこかで安堵してしまったのだろう。乙女は初めて楽進を部屋に招いた。今までは敷地内に招き入れても、客間に招き入れても、自室にまで足を踏み入れることを許可することはなかった。
乙女は語った。喪った寂しさを埋めるように。
「楽進殿、私は、思っていたよりもあの人のことを愛していたみたい。子はいなくとも、あの人は許してくれた。私が自由に振る舞うことを、肯定してくれた」
「乙女殿……」
「私、妻としてもっとできることがあったはずなのに。何もできなかったわ。これからどうすれば良いのかも分からないまま、毎日を過ごしてしまっているの。時間の流れが遅く感じる。孤独でいることがこんなに辛いって、知らなかった。私、どうすればいいの。教えて、楽進殿」
楽進に、夫のことを話すことは今まで控えていた。酷なことに違いないからだ。だがどうしても歯止めが効かなかった。乙女は次第に泣き崩れていったが、それでも話すことを止めなかった。楽進は乙女の体を支えてまで話を聞き続ける。今までは楽進が一方的に話題を持ちかける、つまり“尽くす” ことで成り立っていた。その立場が逆転することはあり得なかった。これまで均衡を保っていた関係性が変化する。
「……私は、ずっとあなたからは何もいらないと信じていました。それでも……そうしてあなたから求められたならば、私は……自分にも、あなたにも、嘘をつきたくありません」
「楽進殿……」
「あなたが……今でも大切な人を愛おしく思う気持ちは、良く分かっています。その上で、私はあなたを支えたいのです。もっと傍で、いつでも駆け寄ることができるように。あなたの求めに応じることができるように。あなたに焦がれている。その気持ちは昔からずっと、今でも変わりません」
二回目の、楽進からの告白だった。
これまでの乙女であれば、夫への想いを理由にして何がなんでも受け入れずにいただろう。
楽進の言葉に揺らぐ自分がいるということに、乙女は葛藤した。
楽進がいれば、孤独は和らぐかもしれない。だがそれは、夫を裏切ることとなる。
「でも、私、あの人のことを忘れられない、あの人を無下にするようなことなんて、できないわ。あなたがいれば、今よりずっと心強いってことくらい分かってる。けど、私にあなたを受け入れる資格なんて……」
「それでも構いません。あなたが望まないことは、それが何であってもしたくありません。あなたが望んでいることだけをすると誓います、から」
「……あなたも武人だから。私、もう同じことを味わいたくない、苦しみたくない」
子どものように泣き続ける乙女をあやすようにして楽進は背中を撫でる。
楽進も武人だ。乙女がまだ楽進と同じように戦場に立っていた頃も、多くの人が死ぬ所を見てきた。だがここまで取り乱すことはなかった。愛は人を狂わせる。楽進が乙女の傍にいるということもまた、乙女を傷つけることに繋がるかもしれない。
「私はあなたの為に生きていきます。何があっても。……信じてください」
信じてください、なんて都合がいいだけの言葉。その都合がいいだけの言葉であっても、楽進が発した言葉だと思うと信じてみる価値はある。今まで楽進が言い放った言葉に、嘘は一切なかった。乙女が目を擦りながら頷く。楽進の想いが成就した瞬間だった。
それから二人が共に暮らしてからも、楽進は一切嘘をつかず、交わした約束も違えなかった。乙女が前夫との間に子を成さなかったのと同様二人の間にも子はいなかったが、孤児を引き取って自分たちの本当の子として愛していたのだという。
(20250512)