ばかみたいに愛してくれ
妹が城下に出かけたいとせがむので、それに応じて信行は護衛代わりに同行することにした。見知った城下とはいえ、昨日は平和だったから今日もそうだ、という確証はどこにもない。いつどこで、何が待っているか分からない。信行は気になったものが目に入る度に飛び出していくお市の背を追いかけたり手を繋いでその行動を制したりして、久々に訪れた街の空気を楽しんでいた。
「兄様、いいの? こんなに素敵な髪飾りを買ってくれるなんて」
「ああ。せっかく二人で出かけているのだ。何も買わないのは、来た甲斐に欠けるだろう?」
「まあ、そうかもしれないけれど。……兄様、そっちの髪飾りは? あ、もしかして……」
お市は兄を揶揄するかのような笑みを浮かべた。
「……少し、気が早いかもしれないが。しかし、お前に着いてこなければ買おうとすら思わなかっただろうな」
「きっと喜ぶと思うわ。私から見ても、とっても綺麗なものだと思うもの」
「そう思ってもらえると、よいのだが……」
「もう! そんなに悩まないで? 兄様は自信たっぷりでいればいいんだから。うじうじしてると嫌われちゃうよ?」
「そうだな。……お前の言う通りだ。自分をもっと、信じるべきかもしれないな」
信行が買ったものは、間もなく妻となる女性に贈られるものだった。名前だけしか知らない彼女。まだ顔を見たことも、声を聞いたこともない。妹のように、その好みを把握しているわけでもない。だが、信行は先走ってしまった。自分一人では、まだ正式に結ばれていないにも関わらずこんなことと悩んでいただろうが、お市の言葉は信行を落ち着かせた。
「兄様ならきっと大丈夫だよ。だって、私にもこんなに優しくしてくれるんだから。お嫁さんになる人には、もっと優しいんだろうなあ」
そんなやりとりを経て、それなりに散策し終えた帰り道。日が落ちる前に帰らなければ、きっも兄も心配する。信行はお市の手を握って歩いていた。
「す、すみません」
そんな折、信行の肩にある女性がぶつかってきた。女性は笠を深く被っており、その表情を窺い知ることはできない。やけに急いでいる様子だった。その勢いの強さから、女性はよろめく。
「大丈夫ですか。こちらこそ、周りが見えていませんでした。……申し訳ない限りです」
信行は俯く女性を純粋に心配して声を掛けた。……が、顔を上げた彼女を初めて見据えて、思わず息を呑んだ。
「いいえ……急いでいたの私が悪いのです」
赤い髪が笠の下から覗く。初めて明かされた彼女の顔を見て、信行は何も発することができなくなりそうになった。胸が高鳴るのを感じた。まるで、炎に焼かれたかのような衝撃が走った。……許嫁がいるにも関わらずだ。とんだ愚行、これではいけないと思いながらも信行は声を掛けてしまった。
「あの、もし良ければですが……なぜそんなにお忙しく……? 私にできることならば、ぜひ協力させていただきたい」
お市はいつの間にか信行の手を離していた。肘で信行の脇腹を小突く。彼女なりに彼の軽率な行動を咎めたつもりだったが、信行はびくともしない。この女性にぶつかられても動じることがなかったように。
「……私、秘密裏にお屋敷から抜け出してきたのです。でも、少し迷ってしまって……早く帰らないと、何を言われてしまうか……」
「屋敷、ですか。私ならば案内できるかもしれません。失礼ですが、あなたの名を伺いたい」
屋敷という言葉が発せられたのを聞いて、彼女はそれなりの地位にある人なのだと信行は認識した。この辺りの地理は当然詳しい。武人でもなんでもない女性だろうが、その名を聞けば誰それに縁がある人なのだと分かるかもしれない。無事に送り届けることができる可能性は多少はあるだろう。お市は小さく「いいの?」と不服そうに呟いているが、信行は無視を決め込んだ。
「……乙女と申します」
「ああ、乙女殿……和田殿のご息女ですね? 私が案内しますので、着いてきてください」
「はい。……その通りです。私から御無礼な真似をしたにも関わらず、そこまでしていただけるなんて」
「気にしないでください。私が好きでしているだけなのですから」
ただでさえ彼女の容姿、また一瞬だけ見えた奥ゆかしい声と表情に信行は惹かれている。それはいけないことだ。誠実という概念の正反対の位置に存在することだ。だが、その名前を聞いた瞬間、信行のこの感情は真摯なものとなった。
彼女は、紛れもなく自分の許嫁なのだ。このくらい、当然のことだろう。
「……兄様、もしかして」
「そのもしかして、のようだな」
お市は乙女には聞こえないような声量で、「こんなことってあるんだ」と呟いた。正しくその通りである。偶然出会った見知らぬ女性に射抜かれ、ましてやその女性が近いうちに妻となる人だなど、天文学的な確率に違いない。
「乙女殿は、なぜおひとりでここに?」
「……一人でここを歩いてみたかったのです。ずっと、行動を制限されていたから……」
乙女があまりにも、見ている方が心苦しく感じる様子で話したため、信行はそれ以上追求するのを辞めた。自分が夫となれば、彼女に不自由な思いはさせないだろう。なぜそんな束縛を受けているのか。聞いてしまいたくなったが、それにはまだ早い。慌てる必要はない。何も。
「兄様、どうして名乗らなかったの? 髪飾りも、渡してしまえば良かったのに」
「……名乗ってしまうことで、彼女にいらぬ気を遣わせてしまうと思ったのだ。嫁ぐにも、私が想像できぬほど大きな不安が伴うはずだ。ただでさえ、きっと彼女は今日のように惑いの感情を沢山抱えているのだ。私が余計な負担を強いる資格はないだろう?」
「……兄様がいいなら、良いんだけどね。でも、今日兄様が買った髪飾りは、とっても似合いそうだと思うわ。あの素敵な赤い髪に、ぴったりだもの。今日は被り物をしていたけれど、あんなに綺麗な髪、私初めて見たわ」
「そうだな……婚儀を終えた暁には、ちゃんと渡してみるさ。市も、ありがとう。私に着いてきてくれて」
「ううん、当然だよ。でも、良かった。兄様が他の女性に目移りすることにならなくて」
「全くだ。……こんな偶然も、あるものなのだな」
乙女は信行の顔を見ようと笠を少しだけ上げた。その拍子に、信行の目は瞬時に吸い込まれたのだ。だが彼女はその身を送り届けようとする信行に敬意を示したものの、あれ以上その顔を見せることはなかった。あの暗く燃える篝火のような深い赤髪を、彼女は意図して隠しているように見えた。彼女は屋敷の者に隠れて外出したのだから顔を隠すのは当然だとも言えるだろうが、信行はそれだけが彼女の行動の真意とは思えなかった。
本当に隠したいのは、お忍びで屋敷を飛び出したことではなく。その特徴的な髪なのではないかと信行は勘ぐってしまった。わざわざそれを妹に言うこともなかったが、それもあって髪飾りを渡すことはできなかったのだ。
それでも、祝言を挙げ二人きりになれたならば渡したいと思った。身につけることを強いるつもりはない。ただ、信行はあの炎の暖かさをもっと知りたいと思っただけだ。
祝言の席で、乙女は信行のことを初めて見知った。誰もが二人はここで初めて出会ったのだと信じてやまない。だが本当は違う。乙女はあの時の彼が信行だと分かって何か言いたげに唇を動かしたが、宴の騒がしい雰囲気にかき消され誰にも聞こえることはなかった。信行はそれを見届けてなお、やはりそこでは彼女に自分があの時の男だと言うこともなかった。けれども、二人の間では城下の出来事は周知である。そして、お市も。互いに、互いのことをほんの少しだけ知っている。だがここでは、そんなことなどなかったとするほうが都合がよいのだ。信行も乙女も、察しがよかった。お市はまるで初めて顔を合わせたかのように振る舞う二人を見て困惑していたが、信行に「黙っていてくれ」との意思を示すように人差し指を唇に当てる仕草を見せつけられたため、何も言わなかった。
その後の話である。
「……信行様。あのときの殿方だったのですね」
宴の余韻は残りつつも、二人きりで過ごす初めての夜は互いの心音が聞こえそうなほどの静寂に包まれていた。何から話せばよいのか、信行は迷ってしまっていた。だがその口火を切ったのは乙女だった。
「ああ……名乗らなかったことは……謝ります。ああいう場なものだから、あなたに砕けた口調で、それもまるで別人のように、何もないように話して……」
「そんな、謝らないでください。先程のように、あなた本来の言葉を聞かせてください。……あなたにも事情がおありでしょうから」
乙女の優しさと思慮深さに信行は救われた気がした。
乙女は終始、恥ずかしげに、或いは物憂げな表情をしている。嫁ぐことに不満があるのではないか。信行はそう勘ぐってしまったが、二人きりになったことで見えた彼女の顔は、そんなものとは無縁であるように見えた。彼女の持つ本来の姿が、信行という鏡に映し出されたように。
「……では、お言葉に甘えるとしよう。大した事情ではないんだ。ただ、これをあなたに渡したくて……でも、名乗ったところでこれを付けろだなんてあの場では到底言えなかった。だからこうなってしまった」
信行は、あの時まだ見ぬ乙女に贈るつもりで買った髪飾りをおずおずと差し出した。
似合うはずだと、思う。信行は自信なさげに乙女がその髪飾りを手に取る様子を眺めていた。
「私、髪飾りなんて付けるの初めてです。……嬉しい、信行様」
「……初めて?」
嬉しい、と言う言葉が発せられたことに、ひとまず安心した。乙女の赤い髪に、白い花を模した髪飾りはきっと似合うはずなのだ。選択肢は様々だったが、それを選んだことは大正解だった。じっとそれを見る乙女の瞳が潤んでいるように見える。
「はい。……信行様だから、言えることを言いますね」
「私で良いのならば、何でも」
「……生家で、この髪色は……人によっては、不気味に思う人もいました。私は正真正銘、母上と父上の子だと言われて育ってきましたが……異国の血を引いている、不貞の子だと謂れのないことを嘯かれることは珍しくありませんでした。それもあって、不用意に外に出ることは許されなかったのです」
「……そんなことが 」
信行が考えていたことは、奇しくもそのまま当たっていた。乙女が笠を深く被っているのは、単純に面が割れるのを恐れていたというわけではない。その髪色が知れ渡ることを恐れていたのだと。
「でも、ここの人達は私の髪を見てひそひそと陰口を叩くことも、直接酷いことを言うような人もいない。……この髪飾りを付けて城を歩くことも、きっと大丈夫。怖がる必要なんてないのね。全部、信行様のおかげです」
「あなたのことを悪く言おうものならば、私が問いただししかるべき処置を取ろう。誰にも、あなたを謗らせることはしない」
そう言っておきながら、信行は自らの考えを恥じた。心のどこかで思っていたことがある。着飾った姿を他者に見せることは彼女本人が許せなかったとしても、自分だけには髪飾りを付けた姿を見せてほしい。そう、浅ましくも思っていた。それではいけないのだ。乙女は妻である。他の誰よりも、彼女のことを知る権利がある。独り占めにだって、しようと思えばできる。けれども彼女はきっと、本当は頭の先から爪先まで、好きな格好をして好きなように歩きたいはずなのだ。夫として、今まで禁じられていたそれを阻害することはできない。ただ彼女を忍び寄る魔の手から守ることが信行の役目となるのだ。織田の人間は、信行の目から見ても彼女を害するとは思えなかった。だがそれは今日という日だからかもしれない。まだ分からない先の未来に向けて、信行は視野をもっと広くする必要があると思った。
「似合い、ますか」
「勿論だ」
信行が思っていた通り、乙女の髪に白い髪飾りは良く似合っていた。
「良かった。この髪にずっと劣等感を抱いていたのですが……あなたのおかげで、人目を気にせずいられそう。嫁ぐにあたって、この髪が自分の子供に遺伝したら……なんて考えてもいたのですが。そんな心配は無用ですね」
「ああ。……私たちの子なのだから、どちらに似ても可愛いに決まっている」
そこまで言って、信行はふいに赤面した。あまりにも、それを言うには気が早すぎる。
二人が夫婦となって、初めての夜だった。
(20250909)