神さまにも頼めないようなとき
※地の文は便宜上信玄表記ですが、個人的な趣味などの理由により会話文では「晴信」表記です。

暗い部屋に独り、乙女は懐から短刀を取り出した。鞘から放たれ顕となった刀身は何時も変わりなく輝いている。

それは乙女が信玄に嫁ぐ前、自害に用いようとした刀だった。乙女の父は信玄によって弑された。騙し討ちに近しいものだった。涙を流す侍女の前で、首を突き刺して果てるつもりだったのだ。だがそれは許されなかった。すぐに乙女のいた場所には武田の兵が入り、彼女は為す術もなく信玄の元に連れられた。仇である憎き男の側室として生かされるために。

死ぬことができればどれだけ楽だろうかと思う。自分が殺した男の娘を妾にするなどどうかしていると乙女は思っているし、事実信玄の周囲の人間も生かさずに殺しておけばよいとまで進言したという。それならばそれで良かったのだ。乙女はこの家中に居場所はない。あるのは信玄からの歪んだ欲のみであった。正室から妬まれているという真偽の分からない話も聞き及んでいる乙女にとって、頼ることができるのは殺しても殺し足りない男だけだった。

仇を討つまでは死ねないと思っていた乙女だったが、そう簡単に決断ができるような状態ではなくなってしまった。一度刀の刀身を首筋に触れる寸前の所まで近づける。指先は震えない。恐れは一切ない。だが乙女らその刃をゆっくりと遠ざけた。刀を鞘に戻して、元の位置にしまう。

足音が聞こえる。乙女は居住まいを正す。障子の向こうには大きな影が映った。彼女の元にわざわざ足を運ぶ男など、もうこの世には一人しか存在しない。皮肉なことだった。

「……このような夜更けに、何を企んでいる」

「何も企んでなどおりません」

「まあよい。お前のその体では何を考えようと無駄なことだ」

無造作に障子を開け放ち、座り込んでいる乙女のすぐ側まで歩み寄った。目を合わせようとしない乙女を見下し、その体を凝視する。

乙女の腹は膨らんでいる。そこには子が宿っているのだ。信玄は口の端を吊り上げた。

「俺を殺すのは諦めたか? 諏訪刑部大輔の娘よ」

挑発的な信玄の言葉にも乙女は動じなかった。父親の名を持ち出されて、激昂しないほど乙女は己の運命を受け入れてはいない。怒りが脈打ち、波のように揺れているのを乙女は感じている。

だが、この男を殺すのは天地が揺らいでもなお不可能なのだということもまた承知していた。

「諦めてなど。晴信様を終わらせることができるのは私だけ」

乙女は胸に手を当てた。そこにはあの短刀がある。

「だが、斬り掛かることには抵抗があると見える。お前であってもその腹の子は愛おしいようだ」

「……斬り殺すことができていれば、わたくしは子を宿すには至っていなかった。子に罪はなく、罪を抱えるべきは晴信様ただひとり。子を犠牲にして得られるものなど何もない」

「ふ……よく分かっているではないか。お前を殺して得られるものなど何もない。お前はみすみすと自害させておくには勿体なき美貌を持っている」

「よく言う。わたくしを救ったのは善行のおつもりですか」

「その通り。俺は罪を犯してなどおらぬ。罰を受けるなどという謂れもないわ」

下衆め。乙女は短刀を触っている。

信玄は未だ誰もいない障子の向こう側を見ている乙女の眼前に大きな掌をかざした。そこには一文字に傷跡が残っている。

「だが、他ならぬお前に付けられたこの傷は愛おしい」

乙女が武田へ連れてこられた当初のことだった。怒りのまま動く人間、そして勇敢な人間ほど御しやすいことを信玄はよく知っている。

「よくも父を殺したものだ、武田晴信!」

諌めようとする兵を制し、信玄は乙女の咆哮を聞いていた。そうして、叫びながら連れられる乙女を品定めするような目で見ている。

「……俺が憎いか、娘」

「当然」

誰もいないその場で、乙女は隠し持っていた短刀を抜いた。武家の娘として備えるべき武は学んでいるつもりだ。一閃、どこでも良いから一太刀浴びせたい。

乙女がそう思って全力で振るった刃を、信玄は左手で躊躇なく掴み取った。刃が手の内に突き刺さり、ざっくりと裂けた皮膚からとめどなく血が溢れ出る。それに驚いたのは乙女だった。瞬き一つせずに刃を離さずにいる信玄を見て、乙女は恐れをなした。柄を離してしまったのだった。

「騙し討ちならば俺の方が上手だ……怨みだけでは俺を討てぬ、乙女よ」

信玄は刃を手放した。刀身に付いた血が辺りに飛び散り、乙女の服の裾を汚した。未だに信玄の掌から血が流れ続けている。仮面の奥の瞳は何の熱も籠っていない。

化け物だ、と乙女は怖じた。この化け物の妾となって生涯を過ごすのだ。人ならざる男の血を吸った短刀が酷く汚らわしいものに乙女は思えた。

それを経ての今だ。

命を絶つのは容易だが、もうあの刀で自死することはできまい。乙女は信玄の傷跡だけを見ている。どうせならば、この男の心臓から溢れる血を刀に吸わせてやりたいものだ。だが、そのような事ができる体では既にない。腹の子のことは守ってやりたいのだった。仇の血を継いでいようと、その命を捨てることは思いもよらない。

それに、子を守らねばならない理由は女としての本能という浅いものだけではない。乙女には確固とした意思がある。それは子に継がねばならぬものなのだ。

「毎夜、この傷跡を俺は見る。俺を憎むお前は美しい。この世に俺を憎みその刃を向ける女はお前しかおらぬ。俺を怨みながらも殊勝に服従する女もお前しかいまい。健気なことよ、愚かなことよ。さぞ屈辱だろう。だが俺はその姿を眺めるのが何よりも好ましい」

「……」

「お前が何度その刃を俺に向けようと、俺は捻り潰す。お前の意思ごとだ。……そうして従順になるお前を早く見たいものだ」

信玄は徐に回り込み、乙女の背中から右手を回した。その指先が胸元をまさぐる。短刀を探り当て、鞘を付けたまま首筋へと当てる。

「脅しのおつもりですか」

「俺がお前を殺めることはない。いいや、この肌に傷を付けることは毛頭ない。……俺だけではない。お前に近づく男は俺が潰す」

短刀が放り投げられる。乙女が手を伸ばしても届かない場所へ。自由になった信玄の指先は首筋を伝った。

「お前が妾という身分では物足りぬとその口から発するまで、俺はお前を愛で続けよう」

指先が胸元を這い、腹に達する。

信玄の手は、焼けるような熱を孕んでいた。

「わたくしが晴信様に靡くなどありえません」

「ほう、何故だ」

「……分かりきったことを」

「この世に親子の情という不確実なものは必要ない。父親のことなど早く忘れよ」

「……」

その手を振りほどくことはない。本当の意味でその腕から乙女が逃れることはないからだ。だが乙女は、やがて生まれる子に全てを注ぐつもりでいる。諏訪の血はまだ途絶えていない。生まれて来る子に武田を滅ぼさせるのだ。

信玄を討つのは現実的ではない。だがそれは乙女が、不可能だと分かっていてもなお生涯を賭けて挑み続けるだろう。しかし、それだけでは足りないのだ。信玄に滅ぼされた諏訪の血を持って、武田を根絶やしにしなければいけない。それができるのはこの子しかいない。そこまでして、乙女の恨みは昇華される。

「産まれてくる子が楽しみだ。……それだけはお前も同じだろう」

「……ええ」


(20251102)
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