きみの瞳のなかに今も希望と光があればたとえそれがどこの宇宙のできごとだってかまわなかった
とある講義で来週発表するプレゼン資料を作るためにセミナールームで話し合ったものの、ろくに成果も出せないまま解散となってしまった。
残ったのは三成と乙女の二人だけである。全くろくでもない奴らばかりだと悪態をつく三成に乙女は苦笑いした。外を見れば日はとうに落ち、構内に備え付けられた街灯が地を照らしている。
「でも、私たちだけでもどうにかなりそうでしょう?」
三成が途中まで作ったパワーポイントを覗いて乙女は言った。シンプルで余計な装飾もなく、それでいて要点はまとまっている。三成だけでも完璧なものを作ることができそうなものだと乙女は思う。……が、一人だけでも、いやむしろ一人だからこそ楽に作れることができるということは三成が一番自覚している。その上で、同じ班のメンバーから意見を募ろうとしているのだった。
「お前がいなかったとしても、どうにかなっている」
乙女は三成の口の悪さに辟易することもなかった。三成はパワーポイントを上書き保存して
、用が済んだノートパソコンをシャットダウンする。
内心は、己の力だけで完成させることを望んでいたわけではないのだろう。そうでなければスケジュールを合わせてセミナールームの予約を自ら取るということもあるまい。本当は皆にも同じように働いてほしいと思っているはずだ。それが退けられたから、三成は誤魔化すような言葉を吐き捨てている。乙女は不器用で素直でない三成を見て、そういう所は昔から変わらないなと笑った。
「……まあ、でも……こういう日も悪くないって思ってるでしょ。というか、私はそう思ってるけど」
乙女もノートパソコンを閉まった。三成は机の上の私物を片付け始めた。
「些か抽象的すぎるな。もう少し具体的に言え。……全く、お前らしくもない」
三成は私物を整理し仕舞い終えたため、この部屋の明かりのスイッチを切った。廊下の明かりは人がいないと自動的に消える仕組みだったことと、さらに外が暗いことも相まって部屋の中は真っ暗になった。
「幸せすぎるなあってこと」
抽象的だ。そんなヤジが飛んでくるだろうとリュックを背負った乙女は少しだけ身構えたが、返ってきたのは正反対の言葉だった。
「奇遇だな。俺も全く同じことを思っていた」
三成がどんな顔をしているのか、乙女には良く見えない。部屋を出れば、人の動きを感知したセンサーが反応して眩しいくらいに辺りを明るくした。振り返って三成の顔を見る。普段通り、何も変わらない。
「……何がおかしい」
「何でもない」
「変な奴だ」
「そっちこそ。急に素直になって、変だね」
「……お前がそうさせた」
早足で歩く乙女を追いかける形で三成が続く。二人が向かうのはすぐそこにあるエレベーターだ。慌てることもなかったが、乙女は意味もなくそうしてしまった。
乙女がエレベーターのボタンを押すと、すぐにドアが開く。エレベーターの中でも、降りてから外に出るまでも二人は何も喋らなかった。
大学構内を横に並んで歩きながら、再び乙女が口を開く。先程のことをまた引き合いに出した。
「こんなことが自分に許されるのかとまで思っちゃう。今日こんなつまらない話し合いで時間を割いてしまったことも、話し合いが決裂したからと言って人が死ぬわけでもないし」
「21世紀の今日、少なくともこの国ではそれしきのことで人を殺めるのは愚策だな」
「だから、幸せだなあって」
当たり前のことを当たり前だと気付かぬのもまた、この世では幸せなことなのかもしれない。
乙女も三成も、深くは語らなかった。三成は彼女が何と何を比較して自分が許されるのか、そして幸せだと感じているのかを知っている。三成もまた同じことを常々思い浮かべているからだ。
最も。彼は許すも何も、全ての権利を享受し行使することは当たり前だと考えている。罪など何もない。自分にも、また乙女にとっても。なぜ幸せになってはいけないのだ? 幸せになって然るべきだろう、と彼は本気で思っている。
「……そうだな」
そんな前提がある三成であっても、乙女の言葉には頷いてしまうのだった。
「私の意見に賛同してくれるのは嬉しいけど。まだ何か言い足りない、みたいな顔してる」
乙女が見上げた三成の顔は、傍から見ればただ無表情で愛想がないようにしか見えなかった。だが乙女は三成がそれだけの男ではないと見抜いている。その中身までは分からなかったとはいえ。
「俺は、恵まれすぎている。だがそれは当然のことだと思っている。全ては俺がそうあるべきだと行動した結果だからだ。だがな、確かに一つだけ不満がある。これもまた、お前の言う通りだな」
「やっぱり。何が不満?」
「お前が頑なに俺の名を呼ばないことだ。俺が幸福を感じない瞬間といえば、真っ先にそれが思い浮かぶ」
呼び捨てにできるはずがない。乙女はむしろ、彼の名をかつてのように呼ぶことができないことを唯一の不満だと思っているくらいだった。
「……敬語じゃないだけ、譲歩していると思ってほしいものなんだけど」
乙女と三成が出会ったのは、ただ運が良かっただけに過ぎない。それが互いの共通認識だった。運が良かったのもそこまでで、乙女からすれば三成は今も同志ではあるが同等の存在ではなかった。ただの友人のように接しているのは周りの目があるからだ。乙女から見た三成は今も友人という生易しい言葉で済まされるような存在ではない。
「この世では対等だ。いい加減現実を受け入れろ」
逆に三成からすれば、この世の理通りに乙女が生きることを望んでいる。名を呼び捨てにされたからと言って乙女への気持ちは揺らぐことはない。
「だって……いつまでも私にとって、殿は殿ですよ、三成様」
小さな声で呟く。
三成の口許が綻んだ。
「……今日はそれで許してやろう」
「明日は?」
「俺の気分次第だ。だが」
「だが?」
「今のは、悪くない」
乙女は吹き出した。これほどまでに単純な男だったかと思った。扱いにくい男ではあるが、幾分かこの世では生きやすくなったと見えた。
「良いって言えばいいのに。さっきみたいに、はぐらかさずにさ」
「では言い方を変えよう。お前が同志で良かった」
「……訂正できてない、それ」
二人は構内を出て、駅に向かって歩き出した。過去の話はしなかった。過ぎた過去よりも、やがてやって来る明日の話がしたかった。
(20251103)