罪のそばに恋をならべて
三方ヶ原の戦いは、徳川軍に深い傷を残した。多くの将兵が戦死し、犠牲になった者の中には忠勝の叔父や乙女の兄も含まれている。
忠勝は家康を守るために奮迅し、蜻蛉切を振るい決死の思いで撤退した。その点は乙女も同じだった。違った点と言えば、刃先が綻び使い物にならなくなった槍を捨て去って脇差を抜いて敵を切り結んでいたことだ。普段の槍とは異なり遠くの敵に攻撃を当てるのには適していない。視野を広く持つこともできない。乙女は見誤ったのだろう、忠勝が気づいた時には新手が乙女の腰を貫こうとしていた。忠勝は慌ててその攻撃を退け敵の乗っている馬に穂先を突き出し落馬させることに成功したものの、乙女の右腕には傷が残った。
「……こりゃ、まだ存分には戦えねえな」
戦後の処理には忠勝も忙殺され、その後ろくに乙女と話すこともできなかった。立て直しに追われ、次に戦に出るのはいつか分からない。忠勝としては戦場に立つことが本分だが、そう言えるような状況ではないのだ。
見知った者が死ぬ辛さを忠勝は知ったものの、それを背負うのは自分ではなく家康なのだと彼は割り切った。全ては家康のために命を捨てたのだ。戦中は忠勝も頭に血が昇り冷静ではなくなってしまっていたが、ひとたび本拠地に戻ればやけに頭が冷えきった。己が感傷に浸っていても死人は戻らない。
だからこそ、なのか。忠勝は乙女のことを考えた。傷は塞がっているのだろうか。礼を言われるために庇ったわけでもないが、彼女の顔を見ることができないのは寂しさを覚えるのだった。それこそ、戦で武を披露できないのと同じくらいに。そうと思えば、行動を起こしたい。忠勝は周囲の静止を振り切って部屋の外に出た。忠勝自身は傷ひとつない壮健であった。
乙女は家中でも屈指の変わり者として知られている女だった。元はというと家督は彼女の兄が継ぐことになっていた為無理に戦う必要もないのだが、自分より弱い男に嫁ぎたくはないのだと言って片っ端から縁談を自らの手で潰し兄と同じように戦っているのだった。
乙女の兄は三方ヶ原で討死した。彼女はどうなるのだろう。悩んでも仕方のない話だが、彼女にはとっくに元服を済ませている弟もいるのだ。忠勝が気ままに歩いていると、縁側に乙女が座っていた。
夢が正夢になったかのような感覚を忠勝は味わった。彼女のことを考えていたら、偶然そこにいたのだ。乙女が包帯を巻いているのはその裾から除く腕を見れば分かる。彼女は足を大きく開いて座っている。普段から男のように振舞っているのも変わり者と呼ばれる要因だった。
「おい、乙女」
忠勝が呼びかけると、乙女はゆっくりと首だけを忠勝の方へと向けた。
「あ〜? なんだ、平八郎か」
気だるげな視線が忠勝に寄越された。戦場で見た敵に対する獰猛な目、そして刹那の瞬間に見せた死を覚悟し受け入れようとしたあの目とは打って変わって、別人のようだった。忠勝はむしろ今のほうがずっと好ましく思った。
「なんでこんな所にいるんだよ。お前、怪我も治ってねえのに。大人しくしたほうがいいんじゃねえの」
「だって、腕が上手く動かないから何にもできないんだ。あの時は必死だったから痛みも分からなかったけど。だからこうやってぼーっとするしかない。……そういうあんたは?」
「……俺のことはいいんだよ。それよりも、助けてやったのに未だに礼はナシかよ」
忠勝は乙女の傷の具合にさしたる感慨も抱いていなさそうに返事をした。だが実際のところ、乙女が「腕が動かない」と言った段階でも、彼は戦場でも感じぬほどの悪寒を感じたのだった。
それを誤魔化すように、あの時の礼を促したのだ。乙女は隣に座った忠勝から目線を外す。
「……ああ、そうか。庇おうとしたのはあんただった。……ありがとう」
やけにあっさりと、促されるがままに礼を述べる姿もまた、忠勝にとっては奇怪に感じられた。素直なのは悪いことではないが、どうも普段よりもやりにくいように思った。
「……おう」
忠勝もまた、乙女を見るのを止めてしまった。やり場のない感情だけが残されている。
「その、腕が動かないってのは」
「……多分治るとは聞いた。私は強いから。利き腕だから本当に不便なのが、気がかりだが」
乙女が、自身の武辺を誇る姿に忠勝は好感を持っている。とりあえず、二度と戦に出れぬほどの怪我ではないということにほっとした。
「本当か? ……お前ほどの人間を失う訳にはいかねえから、腕が動かないって聞いた瞬間ぞっとしたぜ」
「あんたがいなかったら、ダメだったかも。あんただからこそ私を庇おうと動けたワケだし、本当はもっと感謝しないといけないんだろうけど」
「けど……? お、おい」
乙女が急に押し黙ったので、忠勝は不本意ながら彼女の横顔を見た。
乙女は静かに、大粒の涙を流していた。
おいおい、急にどうしたんだよ。忠勝は乙女が声も出さず表情を変えずに涙を流している姿を見て動転した。目の前で起きていることは本当に現実だろうか? そんな有り得ない話の可能性まで探ってしまうほどに。
「平八郎」
本当に泣いているのか定かではないほどに、乙女は平然としている。相変わらず足は大きく広げているままであるし、声の調子も変わっていない。
「なんだよ」
名を呼ばれても、忠勝にはどうにもならないのだ。ましてや忠勝は、自身とそう変わらない年の女に対してどのように接していいのか知らなかった。
「兄上が死んで、弟が家を継ぐことになったんだけど。なんで私じゃいけない? 私は弱いのか? もしかすると、私が代わりに討たれたほうが良かったのか? 兄上は優秀だった。私が言いよる男を殴ってもその場を収めてくれた。弟は……そのようなことはできない男だ。私は……」
頬に垂れる涙を拭うことも乙女はしなかった。普段の直情的な態度とは異なり淡々と話す彼女は、忠勝にとって気味が悪いものに見える。
確かに乙女の兄は将来を期待されていた。忠勝もよく知っている。彼女に甘いということも有名だった。もう、強力な後ろ盾が乙女には存在しないのだ。そう思った時、忠勝は勇ましい彼女に巣食う孤独を知った気がした。
知った気がしただけである。所詮、それ止まりである。忠勝は乙女の家のことは良く分かっていないし、彼女が死んだところでその兄が生きているなんてこともないだろうと思っている。
「お前は弱くなんかねえよ」
「あんたに助けて貰っていなかったら、死んでたかもしれないのに。それでも弱くないって、あんたは言えるの」
「弱かったら縁談相手?を殴ることもねえだろ。やり返される前にお前が叩きのめしてんだからよ」
「……あんたは単純でいいね」
乙女は泣き止むことなく、また忠勝と再び顔を合わせることもない。静かに泣き続けている。忠勝からすれば、そんなに堪えているくらいなら大声を出したほうが良いと思ってしまうものだが、どうもそう言っていいような空気でもないことを彼なりに読み取っている。
「だってよ、そうは言ったって……お前の弟が当主になって……弟に仕えるんじゃあ駄目なのかよ」
「あいつはどうも好かない。兄上とは違う。何なら私を戦から遠ざけるかもしれない……丁度腕がこんな様子だし、本当に適当な男と結婚しろと言われてしまう可能性もある。……私は、罪深い存在なのか? 弱くないのだとしても……力が強いだけじゃ、意味がないのかも、しれない……」
いい加減、泣き止まねえかなあ。忠勝は辛気臭いこの戦友の面を見るのが段々と嫌になってきた。
大体、彼女に見合う男などこの世のどこにいるというのか。いないから乙女は自分のことだけを信じて戦っているのだ。
ひょっとして、(無傷とはいかなかったとはいえ)乙女を助けた自分は、彼女に見合う男としての資格を果たしているのではないだろうか。少なくとも、彼女が誰かを庇っているのを見てもその逆は見たこともないし、聞いたこともなかったのだ!
そんな考えがふと忠勝に浮かんでしまった。
忠勝が今すぐにどうこうできる問題の範疇を超えているのは確かだが、とりあえず乙女を落ち着かせるきっかけにはなるかもしれない。
「あー、お前ってさ、弱い男と一緒になるのが嫌って……言ってたんだよ、な?」
「そうだ……」
「……俺なら釣り合うんじゃねえの」
涙をはらはらと流す乙女だったが、忠勝の言葉に拍子が抜けたようだった。
「あ? あんたが?」
赤くなった目が忠勝に向けられた。その表情を抜きにすると、いつもの乙女が帰ってきたみたいだと忠勝は思った。
「そうだ。お前は並の男じゃ満足できねえだろ? それはそこら辺の野郎よりもお前が強いからだ。その点俺は、お前に貸しが一つある。そんな強いお前を、ちょっとは助けたってことだ」
「結局私が雑魚だって言ってるようなものだ、それって」
「違ぇよ。そこまでは言ってないだろ。俺は確かに強いけどな、本当に最強だったらお前に怪我させてねえし誰も死んでねえよ。……もし、例えばの話だぜ? 俺は嫁に戦うなとは言わねえよ。女は女でも、一緒に戦えるほうが面白いだろ。竹千代と瀬名姫様みたいにな」
「……私のこと、そう思ってたってワケ?」
「思ってたっつうか、今たまたま思っただけだよ。お前の家のことは良く分かんねえし」
あ、笑った。どうやら自分の言葉は良い方向に転んだらしい。忠勝はほっとした。
「そうか。あんたは確かに強い。あんたは私のことを見下しもしないし……そうだな、私の信条に基づけばあんたは適している。そうか……」
泣き止ますことには成功した。とりあえずの目的を達した忠勝だったが、落ち着いた乙女が今度は急に笑いだしたのでまた困惑してしまった。あまりにも情緒が不安定だ。
「おいおい、大丈夫なのか?」
「平気。平八郎、この傷が癒えたら決闘だ」
乙女は左手で右袖を捲り、包帯をぐるぐる巻いた右腕を露出させた。にっと笑う乙女は、戦場にいる時とそう変わらない。
「決闘?」
「そうだ。私を打ち負かせたならば、潔く嫁ぐ。私を疎む家中の者は安堵するだろう。だが手を抜くわけでもない」
半分出任せ、半分は本気で言ったつもりの忠勝だったが、ここで背を見せるのは戦う前から負けを認めているようなものだ。
「いいぜ。存分に、お前を負かしてやらあ」
「その意義だ、平八郎! ああ、喜びが増えた。私が勝ったらもうこの世に私を止めるような輩はいないことを証明できるだろうし、負けてもあんたになら文句はない」
乙女は立ち上がって、尚も笑っている。やがて忠勝には目もくれずどこかに行ってしまった。
戦をきっかけに箍が外れて、そのままおかしくなっちまったのか。忠勝はそう心中で揶揄した。
ともかく、何だか大事になってきている気がする。勝手に事を進めてよいものなのか、忠勝には全く判断が付けられない。
それにだ。いくら彼女がそう言ったからとはいえ、あの顔に傷を付けるのは忍びないと忠勝は思った。どうにかして、穏便に済ませる方法はないものか。
主の不在を心配してやって来た小姓の声が聞こえるまで、忠勝はそのことばかり考えてしまうのだった。
(20251106)