人間辞めても
「上杉に逢うては織田も手取川」

戦勝後の話である。

謙信は独りで酒を呑んでいた。背後から唄う女の声がする。振り向いてもその姿は見えないということを謙信はよく知っている。杯を傾けその中の酒を飲み干し、視線を目の前に戻す。

「跳ねる謙信、逃ぐるとぶ長」

女が立っている。気配も足音もなかった。初めからそこにいたかのように。

「……何だそれは」

「誰かがそう詠んだのですよ」

謙信は酔いを知らない。越後に降る雪を思わせるほど白い肌は未だ何ものにも染まらない。軽装の女は立膝を付いた。

「京では謙信様の勝利の話題で持ち切りですよ。信長が飛ぶように逃げた、と」

手取川で謙信が織田軍を撃退してから日が浅い。女が謳っていたのは巷で流行っている狂歌である。

「当然だな。私は邪なる織田を断じて許せぬ。京にも私の志が届いたようで何よりだ。ご苦労だった、乙女」

乙女と呼ばれた女は顔を上げた。

彼女は所謂「草」と呼ばれる者だった。民衆に紛れ情報収集に励んでいる。彼女らは城下から離れた隠れ里で一生を過ごす。

京に行くことを志願したのは彼女の希望だった。謙信もいずれは再び上洛することを望んでいるから、情勢には気を配らなければならない。乙女を遣わせることに何の疑問もなかった。

乙女も謙信の上洛を望んでいる。だが彼女のそれは謙信のものとは毛色が異なる。

普段は音もなく現れ用が済めばすぐに去っていくものだったが、乙女は中々下がろうとしなかった。酒を煽る謙信の傍を離れようとせず、戦場とは違い露出している謙信の手首、指先、口元に運ばれていく杯の動きをじっと目で追っている。

「まだ何か言い残したことでもあるのか?……いや。そなたは、私に何かを隠している。そうだろう」

謙信は乙女の様子が普段とは違うように感じた。見知ったはずのこの女の顔が、別の人間に見える。

微かに既視感がある。だがそれが誰であるというのか。

乙女は、謙信のこの戦を見通す神の目がある一点に限ってのみ節穴であることを見抜いている。この仕事をすると決めたときから、そうして謙信に拝謁したときから、この地に骨を埋める覚悟は変わらない。時勢は目まぐるしく変動する。乙女は、自分が自分のままでいるということに疑問を抱いている。

今の謙信に、そういった事に対する検討をつけることはできなかった。

「本当に私のこと、ずうーっと分からないのですか? 私のこと、生まれたときから“草”になることを運命づけられた存在だと、思っているのですか? 私は久々に京を見て、生まれ故郷を恋しく思いましたよ」

謙信は杯を離さない。何かに取り乱すことなど、この戦神にはない。戦場を見渡す目つきを見せた。乙女という女に感じる違和感の正体を探った。

しきりに京の偵察を望んでいた女だ。私を殺し公のために生きる女が自我を出したのはこの度の任務のことだけだった。

「……そうか、そうか……相分かった。そなたは遠い昔、私と京で逢ったことがあるな」

それが謙信の出した答えだった。確信した。乙女は立膝のまま体を微動だにしなかったが、その答えに満足して笑んだ。

「思い出してくれましたか?」

「誠に信じ難いがな。なぜそなたは……」

「だって、あの時あなたに惚れてしまったのですよ、景虎様。あなたの為ならばこの越後にだって、身一つで飛び込んでいけるほどに!」

謙信は声を荒らげる乙女を見て、思わず戦慄した。

執念がそこにはある。見事だ、としか言い表しようがないことだ。何よりも彼女が草の者として生きているようにしか思えなかった。今この瞬間まで気が付かなかったのだから。それは初めから生まれ持った立場であるかのような振る舞いだった。妖術の類でも操っているかのように。

彼女はそのような、乱波などではない。乙女の兄は関白、近衛前久なのだろう。謙信が若き頃彼から紹介されたのが彼女だった。謙信に妻帯の意思はない。それでは話は終わったはずだった。

だが乙女はそれを知った上で傍にいようとでも考えたのだ。恐るべし胆力であった。

「兄君はさぞ心配していることだろうな」

乙女は首を振る。考えは当たった。乙女の兄のことを、やはり謙信は見知っている。顔に当時の面影はないが、前久の妹であると一度思えばそうとしか見えなかった。

やっとこの女の正体が分かった。ぞっとするような顛末だが、どうしてか微かな興奮があった。自らが“正しき”に執着しているのと同じだ。その対象が謙信その人であっただけだ。

「兄上のことなどはどうでもよいのです。私はあなた様が好きで仕方がないのです。あなたが誰も愛さなくたって、私は構わないのです。私は死んで生まれ変わって、虫けらになったとしても、何度輪廻を繰り返してもあなたの傍にいますよ、景虎様」

言いたいことを言い散らかして、乙女は足音を思い切り立てて消えた。草の根の者とも思えない姿だ。

呪いが解けたようでもあった。

「虫けらになっても、か……ふ、ふはは。やれるものならば、やってみるといい……! 幾度目かの今生での生を繰り返し、私を変えることができるのならば。……それが叶うのならば、そなたと契ろうではないか!」

だが、あれこそがあの女の本性なのだ。ひとりの女としての姿だった。

謙信はふと、乙女の本名は何だったかを思い出そうとしたが、ついに答えを出すことはできなかった。

遠い昔の話であることに違いはない。

正道を示すためだと公言してはいるが、謙信は戦いという概念そのものを美しく思っている。彼女もまた、軍神と呼ばれし男を前に己を示すために戦っているのだ。それを美しいと言わずして何と言うのか。

再び酒を煽った。謙信の頬は赤く色づいている。それが酔いのせいなのか女がそうさせたものなのかは、あの乱波を騙った令嬢にしか分からないだろう。

(20251121)
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