二人、孤独な人たち
「……伏見にいた頃のようにはいかないだろう」

兼続は消え入るような声で呟いた。乙女は「いいえ」と毅然に返答する。兼続の陰気な声に引き摺られるような素振りを見せないのが乙女という人間だった。

「私は伏見で人質で過ごし、確かにあの頃は豪奢な暮らしをしておりました。ですが、兼続様が隣にいる日々に勝るものは何もありません」

秀吉の命で乙女は景勝の妻と共に伏見にいた。大名の妻としてそれは当然のことではあったが、乙女は兼続のことを考えない日は一日たりともなかった。それほど兼続のことが自らの体の一部のように身体の中に在るのだった。

やっと夫と共に穏やかに暮らせるというのは夢のまた夢、上杉家が関ヶ原の後受けた仕打ちは兼続にとってあまりにも悲痛極まりないものだ。

石高は大幅に減らされ、この米沢に兼続らを含む多くの領民が押し寄せあって暮らしている。特に兼続は自らの石高も家臣の為に分け与えてしまったから、乙女が伏見で味わっていたような暮らしとは大きくかけ離れてしまっている。

もっとも兼続が気を病んでいるのはそれだけではないが、乙女がわざわざ言及することもない。乙女は越後や会津に対する寂寥を覚えつつも、何よりもこの男の命を案じているのだ。

「……そうか」

景勝の傍らで働く兼続に対して、以前と変わらぬ働きだと誉めそやす声は乙女にも届いていた。それは真実なのだろう。だがその分、こうして屋敷に帰ると彼は人が変わったように塞ぎ込むようになった。

同志を喪い主家を結果的に貶めることになってしまった自責がこの男を支配している。それは乙女が、妻としてどうこうできるような範疇を大きく超えている。乙女にできるのは兼続をこれ以上追い込まないように周囲に気を配ることだ。それはこの屋敷の人間を悲しませないこと、飢えさせないこと……小さなことであっても突き詰めると抱えきれないほど大きなものとなってしまう。

乙女は、少しでも以前のように太陽のような表情と高らかに響く声で兼続に笑ってほしいのだ……と言えるような立場にはない。歯がゆい思いがあった。

「兼続様は頑張りすぎるきらいがありますから。私を気遣うのは無用です。私はどこにいても直江兼続の妻、伏見だろうと会津だろうと、ここ米沢でもそれは変わりませぬ」

乙女は自分を見つめながらもどこか焦点が合わないような、虚ろな目をしている兼続を思わず抱きしめた。背中を強く腕で掻き抱いて、肩口に顔を埋める。兼続の指先は強ばっていた。恐る恐る、彼の腕が動く。

昔はそれこそ、私の背骨が折れてしまうのではないかと肝が冷えたくらい、こうして愛を示していたではありませんか。

と言いたい気持ちを、乙女は堪えた。当時の乙女は人前で赤面してしまうような言葉を兼続から受けても、同じくらいのものを彼に示せずにいた。それでも兼続は何も言わなかった。それどころか、そんな態度に反して初めて手を繋ごうとした兼続の指先は僅かに震えていたし、手を繋ぐにも顔に触れるにも、常に妻のことを気遣い続ける細やかな一面があったことをよく覚えている。「今日は冷えるな」寒さには慣れていると言った兼続がそんな珍しいことを言った日、乙女は黙って手を繋いだ。初めから、何も言わずに手を繋ぐくらい動作のないことのはずなのに、そうはしない兼続が妙におかしかった。

その頃に兼続から受けたものを、今こうしえ、そのまま返しているだけなのだ。いや、いきなり彼に抱きついた分だけ、乙女は無神経で気遣いの心とは無縁だったとも言える。けれどもこうして不意打ちをして温もりを感じなければ、彼の心は氷に閉ざされてしまうのではないかと思ってしまうのだった。

「伏見にいた頃は確かに色々な方から食べ物や着物を頂いたこともありましたが、それは来る決戦のために我ら女から調略しようという卑怯な考えから。そんなものに靡くほど私は安くはない。私は庭に植えた五加や桃、柿などを兼続様と食べる日が来るのが待ち遠しく思います」

兼続が少しだけ、乙女の背中に込める力を強くした。

少しでも節約できるようにと、垣根は食用にもなる五加を植えた。屋敷の敷地内には実のなる木を植えた。全て兼続の采配だ。乙女が驚くほど兼続は働き詰めなのだ。義を失いながらも、兼続の家臣や民を愛する気持ちはずっと変わっていない。

「私がいますから。……それでは、足りませぬか」

少しだけ、意地悪なことを言ってしまったと乙女は後悔した。足りないのは承知しているはず、なのだ。

「……そうだな。私は多くのものを失ったが、それでもまだ、私のことを信じてくれる者が多くいる。お前は誰よりも私のことを……」

兼続も同じように、乙女の肩に顔を埋めた。

「私は生きなければならぬ。この国のために、景勝様、お前のために。……お前と二人で穏やかに、庭で取れた柿を食べるのも、立派な夢、だ……」

「……兼続様?」

兼続の頭の重みが、乙女の肩により強く感じられた。緩やかな寝息が聞こえる。

こんな姿勢で眠ってしまわれるなど。乙女は兼続の多忙と疲労を思い知った。

「……夢は何度でも見れますよ、兼続様。志もまた、その胸の中に……」

運は天にあり、鎧は胸にあり……

乙女はふと、謙信の言葉を思い出した。

天命が尽きようとも、我等はまだ生きているのだ。

(20251203)
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