メランコリー
マッチングアプリで意気投合した男と待ち合わせをする。乙女が約束の時間よりも早く着いたとき、ある男はそこにいた。だがその男は約束していた人間ではない。事前に見せられていた写真とは似ても似つかない。
そもそも、この男は……。乙女は見なかった振りをして、待ち合わせの約束も反故にして逃げ出してしまおうと背を向けた。男と明らかに目が合う。だが乙女はそれにも気づかない振りを貫き通すだけだった。
「そう逃げるな、乙女」
肩を掴まれる。穏やかな声色に反して、その力は強かった。男の声を乙女は知っている。
全てを覚えているのだ。
「……あなたに関わる気はありません」
乙女の声に、男は一層肩に込める力を強めた。抵抗ができないどころか無理やり体の向きを反転させられた。男は乙女が予想した通りの微笑を浮かべている。
その真意は見えない。
「つれないものだ、折角再会したというのにな。私はどれだけこの為に力を尽くしたことか」
「私、待ち合わせをしています。あなたのような人ではなくて、」
「その男はこれだろう」
男が差し出したスマートフォンの画面に映っているのは、乙女が待ち合わせ相手と行っていた会話の履歴だった。
顔写真も別人、待ち合わせの際の目印として教えられた服装も嘘、これまでの会話からも話し相手がこの男なのだと乙女は微塵も疑わなかった。
何のために成りすましているのか。それも、存在しない人間に。
肌が粟立つ。乙女は肩を掴む男の手首を握り引き剥がそうとしたが、逆に男のもう片方の掌が乙女の手首を覆った。乙女が思わず肩から手を離すと一瞬にして男に主導権を握られる。
「離してください」
「聞けぬ要望だ」
乙女の手首を握り男は歩き出した。握る力は変わらずに強い。跡になりそうなくらいだ。抵抗できずに乙女は引っ張られていく。
「……本当に最悪な人。私を騙すなど」
「いかなる誹謗も我が身には効かぬな」
いつの間にか男の掌は降りており、 乙女の手を繋いでいる。傍から見れば、恋人同士のそれにしか見えない。乙女は繋いでやろうなどと全く思わないが、男はそうではない。手を握るこの行為からも執着が伝わってくるようだった。
「お前は私から逃げられぬよ」
「……私はこの世であなたと出会わないことを願っていたというのに」
足早に歩く男に必死に食らいつくようにして乙女は歩く。その背中では白と黒に別れた独特の長髪が揺れている。
昔から、それは遠い昔から変わっていない。髪も声もその常に余裕を感じさせる表情も。
その中でも特に目立つこの髪が目に入らなければ、無意識に目で追ってしまうこともなかったはずだ。乙女はそう思ったが、どちらにしても待ち合わせ相手がこの男だった時点でそれは叶わないことだったのだと悟った。
表裏比興。この男の行いはこの世でも変わらずに卑怯だ。
「私はずっとお前を探していた」
「だからと言ってこんな真似をするなんて」
「確実にお前を我がものとするためには手段は厭わぬ。こうでもしなければ私に近づくなど有り得ないだろうからな」
「……どうやって私を見つけたのですか」
「さて、な。ただ言えるのは、私はずっとお前のことを覚えているということだけだ。その点に関してはお前も変わりないだろう、その様子を見ると」
「……」
「図星のようだな。お前が今日会うはずだった男とやらは初めからおらぬ者だが、これ以上の嘘は吐かぬゆえ、安心するといい」
安心などできるはずがない。そう思った乙女が無視をしても男は悪びれることもなかった。
男に連れられたのは、事前にここに行こうとチャットで話していた喫茶店だった。最低限の誠実さは守られているとでも言いたげのように、乙女には感じられた。
静かな空間である。客は昼時にも関わらずなぜか男と乙女の二人しかいない。
仲の良い男女であるかのように男は振る舞う。優しい恋人、としか店員にには映らないだろう。乙女は自身を慈しむような目で見る男に嫌悪しながら飲み物を注文する。
店員が去った途端、男の顔から取り繕った感情は消え去った。そのまま、乙女にゆっくりと視線を向ける。
逃げ場がないように思えた。だが、このまま乙女は男の良いようにされるわけにはいかなあいのだと思った。
「……私はあなたに関わる気などありません。前世の話など最早何の意味も持ちませんから」
男のことを、乙女はずっと昔から知っている。
紛れもなく、前世における夫である。いつか再会するかもしれない。そんな恐怖とともに、乙女は生きていた。
その恐怖を断ち切るために、男の面影を感じないように乙女は恋人を作り、別れ、また探す……そう繰り返してきたのだった。
「なぜそう頑なに私を拒む。私は……今生ではお前を幸せにできる。人を殺さなくとも生き延びることができる。お前を、血で濡れた手で抱き締めることもない」
この男にしては、随分と直情的な言葉だった。
「けれども、人を騙す悪癖は未だ衰えていないのでしょう。私はもう一族揃って卑怯者だなどと呼ばれたくはありません。自らの子をも駒にするあなたの悪しき生き方など、私はもう見たくはないのです」
全ては生き延びるためだ。そうは分かっていても、男の生き方を乙女は最後まで理解することができなかった。
真田昌幸。男の名を乙女は覚えている。忘れることはない。忘れたくとも、できなかった名前だ。
生きるためにはどんなに汚い手も使う。使える駒は何でも使う。それこそが最善であり、そうでもしなければ真田は跡形もなく消え去っていた。そうだと分かっていてもなお、乙女は夫のやり方を肯定することはできなかった。人を騙して得た何かなどに、乙女は価値を見出すことが出来なかった。
「……では少し言い方を変えるとする。私は確かに、こうしてお前を騙してここへと連れて来た。それはお前にとっては、許し難いものだ。だがな、こうまでしてもお前を我が手中に収めねばならぬ理由が私にはある」
「何ですか、その理由とやらは」
男は、その真意を誰にも明かすことはなかったと言っていい。妻である乙女でさえ、裏切りを繰り返す理由、その先のことをどこまで見据えているのか。豊臣の下に統一された天下を、そして分断される大名、真田の家をどう捉えているのか……。全てを享受するなど不可能だった。
信じるべき、隣にいるはずの男を、乙女は見つめてこなかったと言ってもいい。妻である己のこの身すら、彼にとっては道具であるのだと思う他なかったのだ。だから、今こうしてこの世で男と共にある理由を説かれたとしても、乙女が納得できる自信はないと言っていい。
「くだらぬ男の戯言だと存分に笑うがいい。……ただ一度だけ、お前に言われた言葉ひとつを私は未だに忘れられずにいる。『昌幸様のこの髪が好きなのだ』、と。今生でもこの髪は相変わらずだったゆえ、な」
「……そんな、些細な言葉など」
「だが、助けられたのは事実だ。……この言葉も、お前を騙すための口実にすぎないと……そう捉えてもらっても、こちらとしては構わぬがな」
考えの読めない昌幸の表情に、僅かな人間らしさが見えた。
乙女は何も言えなかった。
この言葉を発された昌幸の記憶の奥深くには、今でもその頃の光景が色濃く残っているのかもしれない。だが乙女にとっては、今ここでこの話をされるまで忘却していたものだった。
最早記憶の彼方となってしまった、幼い頃の話ではないか。乙女は策のひとつたりともなり得ない、塵芥のような些末な思い出を心の寄る辺としている男を怪訝に思った。
だが、息をするように嘘や皮肉を吐くこの男にしてはこの言葉だけは真実味を帯びているように乙女は感じてしまったのだった。
「今更お前に何かを詫びたところで赦してもらおうとは思わぬ。いや……何かを詫びることすらないのだろうな。だが、それでもなお私はお前が欲しい。……何の役にも立たぬような言葉一つに、私は酷く揺れ動かされている。その感情は今も変わぬ」
昌幸はこちらが思っている以上に人の発した言葉というものを覚えている男だったような気がする。乙女は昌幸がかつて主君だった勝頼から聞いた言葉を信条としているような節があったことを思い出した。それすらも乙女は結局のところ、詳しく知ることはなかった。昌幸は必要以上に何かを吐露することはしなかった。
口と頭がよく回り、悪辣な言葉も社交辞令も世辞も自然に吐く男なのは確かだ。そしてまた、自身の感情表現だけは昔から不得意だったのも確かだった。
「……あなたは相変わらずのようですね。私がここで拒絶したとしても、簡単に逃がしてくれるような人ではないでしょう」
「当然だ。ここで私が折れることはない」
乙女は運ばれてきたコーヒーをやっと飲んだ。その僅かな間も昌幸は乙女から目を離すことはなかった。
その後、ろくに話が進まないまま解散した。二人は正式な連絡先の交換すらしていない。
こちらから何かを仕掛けなくとも、昌幸から何か行動を起こすことは確実である。
そう思いながらも、乙女は存在しない男……もとい、昌幸が騙っていた男とのチャット欄を開く。乙女は、「また会いませんか」というメッセージを昌幸に送った。
スマートフォンのロックを掛けて、ベッドに仰向けに転がる。乙女は虚空に向かってため息を吐いた。彼からの通知が来るまで、SNSも、その他のアプリも開きたくないと思った。
昌幸のことを忘れ去るためにマッチングアプリを始めたようなものだ。過去の呪縛から解放されるどころか、乙女はさらに強く縛り付けられてしまった。
だが、話が進まない無言の時間も、乙女は不思議と心地よく感じられたのだった。
今日昌幸の姿を見た時、一番に惹き付けられたのはあの髪だった。染めることも、少しでも目立たないように切る事も容易であるのに、昌幸はそうはしなかった。その決断をした昌幸に思うところがないわけではない。
この期に及んで強がってしまう自分を鎮めるために乙女が目を閉じるのと、スマートフォンから通知音が聞こえたのは同時だった。
(20251206)