これでいいんだ、と思うまで
秀忠に対する中傷が乙女の耳に入った。彼はその態度と言動から家中でも腫れ物のように扱われることが多い。確かに、すぐに人のことを馬鹿にするような言動をするし、全ての物事を斜に構えて屈折した見方をしている。
だが、乙女にとっては幼い頃から敬愛する男であるということに、一切の揺らぎはない。そんな秀忠のことをよく分かっているのは自分だけであるし、できる限り彼の傍を離れたくないと思うのだ。
秀忠のことを悪く言った男をこっそりと睨みつける。彼が面と向かえば逃げ出してしまうような意気地無しに違いない。乙女はわざと足音を大きく立てて歩いた。
このようなことに都度苛立っているようではキリがない。秀忠のいる部屋に辿り着いた頃には怒りは消えていた。どんな輩も彼の前では霞むし、適う人などいない。乙女は本気でそう信じている。
とはいえ、あまり表立ってそのようなことを言うのは気恥ずかしく、乙女は臣下として一線を引いているつもりである。
「御曹司。頼まれていた書状はきっちりお渡ししましたよ」
「……ご苦労」
秀忠は刀の手入れをしていた。その姿は真剣そのものだった。彼の剣術の腕も乙女は存分に知っている。それは秀忠自身をを守るための力であり、この徳川を支えるためのものである。
乙女は近くに座り秀忠を見守っている。だが彼の静けさは、この刀を大切にしているがためのものというわけでもないことに乙女は気づいた。
「……何かありましたか」
秀忠は動きを止めて、目だけを乙女に向けた。彼は何も言わない。
変な御曹司。乙女は内心でそう呟いた。乙女のその呼び名は、彼に対する照れ隠しでもある。名を呼ぶのは、たとえ敬称を付けていたとしても畏れ多い。それも、愛ゆえのものなのだった。
刀を鞘に収めて、秀忠はそれでもまだ口を開かない。だが彼は、まだ部屋を出るなと言いたげだ……と乙女の目には映った。
「……お主は、全くもって危機感が足りぬ」
「何のことですか。私、普段通りですよ」
「その普段通り、とやらが危ういと言っておるのだ」
「……そんなこと言われても、だって私は何もしていませんし」
埒が明かない。不毛なやり取りだった。乙女はこれまで、機嫌を損ねている秀忠は何回も見てきている。しかし自分に対してこのように当たる姿を見るのは初めてだった。
「本当に知らないのだな。お主が私に色目を使って近づいているだとか、媚びを売っているだとか……わざわざ言わぬが、聞くに耐えぬ話が私の耳に入ってきたゆえ、こうして忠告しているまでだ」
乙女がそれを聞いて感じたのは、そんな聞くに耐えぬ話をした者への直接的な怒りではなく、秀忠の名誉まで傷つけるような結果を導いたことへの怒りだった。自分のことなどいい。このような噂をするなど余程の恥知らずだ。先程秀忠のことを悪く言っていたような人間がやるようなことだと乙女は思った。
「……私、別にそんなつもり、」
「せいぜい、己の行動には気をつけよ……ということだ」
秀忠の瞳は、寂しげにも見える。
それを読み取ることができるのは私だからだ、と乙女は思う。
第一、乙女は何も間違ったことは一切していない。秀忠のことは好きだが、下衆な妄想を垂れ流されるような真似はしていない。弁えという言葉は常に刻んでいる。だから主君の悪口に対してとやかく追求するようなこともしない。変に騒ぎを起こすことは秀忠の顔に泥を塗ることとなる。
そして、秀忠もまた突き放しているように見えて、その実自分を深く慮っていると乙女は感じた。自らから離れるように命じることで、乙女の名誉を守らんとしているに違いなかった。
「あのですね、御曹司。私はそういうの、どうでもいいんです。ただやりたいことをやっているだけですよ。私の評判が下がるとか、関係ありません。それよりも御曹司がまた敵を作るほうがダメですよ」
「……」
「それに、そうやって私のことを悪くいう人がいるのも好都合ですよ。変な人が私にやってくることもないでしょう?」
「……そうか。お主は。そうだな……確かにお主と私の関係について要らぬ噂を立てる輩は増えたが、お主に近づこうと思う輩も減っただろう。だがな……」
有無を言わす気は乙女にはなかった。
「そうでしょう? これでいいんですよ。私は動じません。御曹司がそうであるように」
本当は殿のことも、非情だなんだと蔑みながら、心底尊敬しているというのに。歪んだ感情を父親に抱くこの男のことを見放すなど乙女にはできない。
「……私への中傷であれば、こうは言わぬよ」
本当は優しいこの主が、乙女は誰になんと言われようと好きなのだった。
「御曹司。これ、どうぞ」
「……ご苦労」
秀忠は乙女から差し出された書状を受け取った。中に何が書いているのか、乙女には予想がつかない。が、それを確認するのは秀忠の役目である。臣下はただ任務を遂行するだけで良いということを乙女はしっかりと自覚している。
秀忠は何やら、この日もどことなく機嫌が悪そうに見えた。
「何か嫌なことでもありましたか?」
秀忠は書状を読むのを止めた。
「……私は、嫉妬していた」
「嫉妬?」
「私を疎まずにいるのはお主くらいのものよ。……そうであるから、お主が私以外の人間と話をしているだけで気に食わぬと……そう思っていた」
何となく、意外だと乙女は思った。秀忠は自分がいなくとも何も変わらず、平然としているものだとばかり思っていた。同時にそれほど自分の存在が秀忠の中で大きなものとなっているということに、僅かな優越感が目覚めた。
「ならば、私が変な噂を立てられたことは、ある意味御曹司にとっては都合が良かったんじゃないですか?」
それにしては、やけに怒っているようだったが。結果的に乙女は仕事としてのやり取りを除けば最低限の会話しか近頃は交わしていない。それを寂しいとは特に思わなかったから、都合が良いということは乙女にも言える。
「そこよ。確かに、真のことを言うと都合が良いとは思ったがな。だがお主への誹謗を聞くほうが、余程腸が煮えくり返る。それこそ手打ちにでもしてやろうかと思うくらいに」
「……御曹司はそんなことしないでしょう」
本気で言っているわけではあるまい。秀忠が剣術の師として教えを乞うている宗矩の思想を思えば、激情のままに人を殺すという愚は犯さないはずだ。
「ああ、無駄に血を流しはせぬよ。人を殺すことに何も感じなくなれば、それはけだものと変わりはせぬ。私はそこまで落ちぶれてはいない。だが、そう思うほど……お主の存在は大きいものだ」
仮に秀忠が正当な理由なく人を殺めたならば、乙女は罪を被って自刃することも厭わないつもりでいる。仕えるということはそういうことだと乙女は思う。
だがそんな乙女の覚悟は、別の意味で裏切られることとなる。
「そこでだ。私は嫁を娶ることにした。そうすればくだらぬ感情に振り回されることもない。嫁はお主だ。あらぬ噂は全て潰す。私の意思でお主を娶ったという事実を持って」
「……え?」
「拒否権はない。お主ならば分かるだろう? 私に見合うのはお主だけだということを。いや、違うな。私には、お主しかおらぬよ」
「そんな、私は……あの、御曹司……本気ですか?」
忠誠を誓うだけで乙女は精一杯である。
だが秀忠は大真面目に言っているのだろう。自らの意思にほかならない。
「本気でなければなんだと言うのか。幸せにするという約束はできぬが、悲しませはしない」
「……御曹司」
名前すら、畏れ多さと気恥しさで呼べないほどの男だ。
乙女はすっかり機嫌を良くした秀忠を前にして、何を言おうかしどろもどろになっている。
「まあ、悪くはないだろう?」
「まったく、御曹司は本当に私のことが好きなのですね」
人のことは言えないな。乙女は秀忠の名を呼ぶ自分の姿を想像すると、何だかおかしくて笑ってしまいそうになる。それに、妻としてその名を呼ぶなど思いもよらなかった。
「まずは私の名を呼ぶ練習からだ。いつまでも私を御曹司、などという小馬鹿にしているような呼び名を貫く必要もあるまい?」
秀忠は少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。乙女は意を決して「秀忠様」と呼ぶ。
慣れぬ呼び名に顔を背けた乙女を見て、秀忠は声を上げて笑う。珍しい姿だった。
こんな姿を見れるのならば、夫としてこの主君を愛するのも幸せに違いないと思うのだった。
(20251214)