きりのないおしゃべりをしながら一日中歩き回っている
お家の為ではある。とはいえ、そんな簡単な話を受け入れることができるほど、乙女は薄情ではない。

信濃を継ぐのは信之様こそが相応しい。だから彼に付く。そう言った出浦昌相の気持ちも分かる。彼を忍びの師として慕っている、そして信之のことも当然自身の幼い頃から慕っている乙女が、犬伏の父子、兄弟の別れを経て信之方に付いたのは必然だった。

あの忍びが幸村を選んだように、乙女は信之を選んだ。乙女は信之の為に生きる忍びだからだ。

「……信之様。……信之様。何か御用でしょうか」

「ああ……すまない、乙女」

信之は、紐で繋がれた三文の銭に視線を落としていた。信之にとってこの、なんの変哲もないように見える銭は何事にも変え難い価値を持っているということを、乙女は以前から察していた。

三途の川の渡し賃とするには、半分しかない。ではもう半分の行方は。

分かっている。もう半分は幸村が持っているのだと。乙女は、詮索などしない。だが信之が常に弟と、そして父の身を案じているのだと知らないものはいない。彼らの助命を乞うた際の彼の様子は大層痛ましいものだった。

この国から九度山は、あまりにも遠い。

信之は六文銭の片割れをしまい込んだ。

「……父上と幸村に、金や酒を送ろうと思っている。命がある……それだけでは、私の気持ちは晴れることはない」

「当然のことです。信之様は何なりと命じられよ」

「乙女……」

「大したことはありません。私は信之様のために戦います。やれと言われたことならば何でも。物資を送ることなど造作ありません」

「……では。お前に一任しよう」

「はっ。お任せを」

信之には愛する妻がいる。そして敵味方となってなお思わない日はない、大切な父や弟がいる。

乱世の定めである。だが、それは美しいものだ。そう乙女は思う。共に同じ地に住んでいてもなおいがみ合う親子、謀反を企て父に自刃を命じられる息子……身近な例を見てきたのだ。挙げればキリがない。

それに比べて、真田はどうか。敵味方となっただけだ。本当の意味で引き裂かれることはないだろう。信之が最も大切にしているのは家族だ。そうでありながらも、お家のために身内同士で戦うことを厭わなかった信之のために、この命を使いたいと乙女は思ってやまない。

乙女は、信之の一番にはなれない。はなから、そんなことは望んでいない。家族ではないからだ。だが誇りはある。信之の忍びだという誇りが。






「昌幸様。幸村様」

金や酒といった嗜好品を、同じ忍びたちと共に九度山に運ぶ。そして、昌幸と幸村の内情を探る。それが乙女の仕事だった。

「……まこと、優れた忍びよな。お前が敵ならばわしの首を刎ねる寸前まで迫ることができただろう」

「ご冗談を」

昌幸の生気は、全く衰えていないように見えた。徳川が豊臣を亡きものとしようものならば、昌幸はきっと豊臣に付く。かつて散々徳川を苦しめたその智謀を持って。そう乙女は思った。

「……これは全て、兄上が?」

「そうでございます。信之様は昌幸様、幸村様、そしてご家臣皆様のことを心から案じておられます」

「……兄上……兄上には、なんとお礼を申し上げるべきか。そなたもだ。これからも兄上を支えてほしい」

幸村もまた、闘志の炎は燃えているままだ。燻ってなどいない。ここで生涯を易々と終えるとは思えなかった。

「信之様には、伝えておきますれば」

昌幸も幸村も、乙女のことは見知っている。九度山での暮らしがどうとか、このような生活も悪くないだとか、言葉だけは終始穏やかで、戦のかおり一つもさせない。流石のものであると乙女はこの状況を俯瞰して見た。

何かを隠し持っているように感じたのだ。

彼らの元を後にして帰路につく途上、その正体は判明した。真田の忍びがいる。同業者かどうか程度、乙女はすぐに見分けることができる。

それは紐を売っている男だった。行商人のふりをしている。

「その紐は。何で作られている。何に使うものだ」

乙女が問い詰めると、男はすぐに口を割った。こちらが信之の忍びであるということを気づいているはずだ。昌幸たちに報告するかもしれなかったが、別に構わないと乙女は話を進める。

木綿や絹で作られた紐であった。見ただけで、丈夫であり伸びにくいことが分かる。昌幸が刀の柄を巻くのに使っているらしい。……加えて、この紐を作り売り捌いているということまで男は話した。

売り捌くとは、表向きの話だろう。金を目的にしているわけではない。乙女は金を出してその紐を買った。

「……諜報活動は怠らぬようだな。昌幸様は」

乙女は上田への道中でそう呟いた。信之を悲しませるようなことは本意ではない。だがそんな未来が訪れる可能性のほうが大きい気がした。





「信之様。ただ今戻りました」

「すまないな、私の我儘に付き合わせるなど」

「我儘などではございませぬ。信之のお心は察するに余りありますから」

「……ありがとう」

忍びには勿体なき言葉だった。

だが、乙女は謝辞の言葉を受け取りに参ったわけではない。

「昌幸様、幸村様のことですが」

「聞こう」

「お二人は、あのまま生涯を終えるような方ではございませぬよ」

「……」

信之の顔が僅かに歪む。信之とて、それを予測することは容易なはずだ。だが、もうこれ以上戦場という地に足を踏み入れてほしくはないという気持ちもまた、隠すことができないほど強いのだろう。

「……その、理由は?」

「こちらでございます」

乙女は、あの忍びが行商人を装って売っていた紐を差し出した。

「これは……」

「昌幸様、幸村様が編んだものだと思われます。昌幸様たちはこれを忍びに売らせている……ただ、金を目当てにしているとは思えませぬゆえ、信之様にもご覧いただこうかと思った次第でございます」

「父上と、幸村が……これは、私が貰ってもよいだろうか」

「勿論でございます」

信之はしげしげと眺める。

慈愛の目を向けている。乙女には、彼の瞳はそう見えた。

やがて懐にしまった。そこには片割れの銭が入っているはずだ。

「燃え尽きてはいない、か」

「恐らく」

彼らの戦いはまだ終わっていないのだ。金を稼ぐことが目的ではない。常に情報を求めている。いずれ入ることになる大坂のことを、各地のことを、人の動きを探っているのだ。

同時に、信之の心痛が消えることもない。彼らの灯火が消えるその時まで。

「長旅だ。お前も疲れているだろう」

「いえ。造作なきことゆえ、何も」

「いいんだ。……また、頼むかもしれないからな。その時に備えて、お前は休んでほしい」

「……では、お言葉通りに」

「ああ。……お前のことを頼りにしているからこそだ。無駄に使い走らせるわけにはいかない」

幸村に仕える忍びが要人を暗殺した際、そのような危険なことはしなくていいと彼は言ったという。信之もまた、今こうして乙女を案じている。

優しすぎる。乙女は何も言わずにその場を去った。

主命とあれば仕方がないが、九度山にはもうあまり行きたくないと思った。信之に報告するする度に、あの悲しげな表情を無理にでも見なければならないのかと思うと、やってられないと思ってしまうのだ。

乙女もまた、あの時買い上げた紐を取り出して眺めた。刀の下緒にしようと思った。






乙女はそれからも、彼女の思いとは裏腹に上田や沼田と、九度山を往復するような日々を送っていた。

彼らのことを探るためだ。だがお家が割れる前は一つの屋根の下にいた者同士である。

昌幸もそれを分かっているのだろう、密かに乙女を自らの元へと下るように指図したこともあった。だが乙女は信之への忠誠を理由にして全てを拒絶した。

同時に、彼ら父子は何があっても説き伏せることなどできぬと乙女は確信した。

年月は過ぎてゆくばかりである。傍目から見れば、九度山でその一生を終えるように見えるだろう。信之から送られてきた酒を呑み遊びに興ずる姿を乙女も見たことがある。それを含めて彼らの策なのだ。一秒足りとも時間を無駄には過ごしていない。だが、人は不死ではない。

その時は来る。昌幸の死を誰よりも早く信之に知らせたのも乙女だった。昌幸の家臣がぞろぞろと国許に帰還する。その中に幸村や幸村に仕える忍びの姿はない。幸村たちは近く大坂城に入る。止めることはできなかった。命じられていないことでもやらねばならぬ時が来る。幸村に仕える忍びも、そうして幸村が望まぬ仕物をしてきたのだ。主君に、何を思われることになろうと。あの優しい主が一介の忍び一人の命を自分のことのように案じるのだ。それでも主のためと思えば何も惜しくない。だが乙女はできなかった。昌幸の調略を受けてしまうことも、幸村を止めることも。命じられたことだけすればよい。何も間違いではない。そう強く感じているはずなのに、乙女は途方のない虚しさを感じた。

「……信之様は」

徳川は、いや幕府軍はいまや大坂城を囲もうとしている。その軍勢の中には、かつて幸村が人質として時を過ごした上杉勢もいる。風は、豊臣にはない。

皆、己を、家臣を、家を生かすために必死なのだ。

「私は、大坂に行くことはない。信吉と信政を遣わすと決めた。私は体の調子が優れないのだと言ってな」

「……懸命なご判断かと」

今そんなことを言う信之は至って健康で、仮病を使っているようにしか見えない。ただもし病を患っているとしたら、それは心に巣食う病だ。

「……お前を九度山に行かせることもなくなったな」

「……はい」

「少しは安らげるだろう。お前にも、長い間世話になっているからな」

「信之様……」

簡単な道のりではなかった。だがそれよりも遥かに苦しい道を信之は歩いている。安らぎなどとは程遠い。乙女は視線を落とした。腰には常に刀が備わっている。その刀に括り付けられている紐が目に入った。

乙女は、あれからも度々紐を買った。金を恵んでやりたいわけではない。ただ自分がそうしたいから、身銭を費やした。昌幸にも知られていただろうが、何も言われることはなかった。ましてや幸村からも。

それにしても、長い間使っているものである。紐を売っているのは単純な目先の利益を求めてのことではなかったが、この紐に助けられた人間も多いことだろう。意味もなく刀の柄を乙女は握る。忍びとしての役目が、不要になる日は近い。本当の泰平はすぐそこにある。それでも最後まで信之の為に生きたいと乙女は思ってやまない。

翌年の夏も、信之は大坂に行くことはなかった。だが信之は、幸村に会っていた。無論、信之の供として乙女もいた。

幸村の覚悟は変わらなかった。乙女は見張りとして部屋の外にいた。金属が触れ合う音が聞こえた。彼は信之の差し出した六文銭の片割れを受け取ることはなかった。未だその片割れは、信之の手の内にある。渡し賃としては満たないものである。

夏が終わった。

次に信之がその片割れを手に取っている姿を乙女が見たのは、全てが終わってからだった。

「それは……!」

「……置いてあった。幸村の忍びがここまで届けたのだろう。……彼女はまだ、どこかで生きているようだな」

信之は、もう片方の銭と自らのそれをそれぞれ手のひらの上に置いている。

そこに六文銭があった。ずっと半分だったものが揃ったのだった。

「渡し賃が揃ってしまったな」

信之は、幸村が持っていた片割れの紐を解いた。ずっと遠い昔から変わらなかったそれを。

「お前から、紐を貰ったことも、随分と前の話だ。この六文銭は、この紐で繋げよう」

「持って、いらしたのですか」

「お前もそうだろう。ずっと手放さずに持っているのを、私は知っている」

「お見通しでございますか、信之様」

「ああ」

信之が取り出したのはかつて乙女が、初めに買った紐だった。未だ、乙女の刀にも巻き付けてあるものだ。

「この六文銭も、父上や幸村が作った紐も、大切な形見だからな。これも、守ってゆかなければならないものだ」

六文銭と紐が繋ぎ合わさる。その様子を、乙女は黙って見ていられなくなった。

「一つ、よろしいでしょうか」

「ああ」

「……あれからも、私は紐を買っておりました。私ばかりが持っていても、意味がありませぬゆえ、信之様に」

信之はすぐに是を示さなかったが、乙女は半ば無理やり押し付ける。

「お前が持っていても良いのではないか? お前とて、それはもう己の一部だろう」

「私は既に、幾つも持っておりますから」

乙女が懐から紐を出すと、信之は穏やかに微笑んだ。

何本もの紐が、乙女の傷だらけの指と指の隙間に挟まれていた。





たまには城下を見て回るのも良いのではないか。稲姫の言葉により、信之は腰を上げた。近頃は沼田にずっといて、息が詰まっているだろう。信之とて、妻にそう言われたならば否定はできない。乙女は信之の護衛として付き従うことになった。

お前も好きに見て回るといい。ここには私の命を狙うような者などいないからな。そう言う信之に言いくるめられる形で、乙女も自由に真田本城下を散策することになった。

主が生まれ育った地だ。乙女もここで信之の背を見て育ってきた。

懐かしさと、少しの寂寥感が乙女にあった。

信之が遠くで、誰かと話しているのが見えた。その姿は見覚えがある。

「……幸村様の」

幸村に仕えていた忍びだった。

きっと、あの六文銭を信之の元に置きにきたのは彼女だったのだろう。それから姿を見せることはなかったが、何を思ってここに来たのか。

存外、彼女も自分たちも同じようなことを考えてここに来たのかもしれない。馴染みの地を懐かしく思うのは当たり前のことだ。

信之が口を動かすのが見えた。「家族」という言葉を言っているように乙女には読み取れた。

背を向けて歩く信之を見る。

あ、と声が出そうになり、乙女は思わず手で口元を抑えた。

そうして、常に懐に忍ばせてある紐を乙女は握る。

どれくらいそうしていたのだろうか。乙女は暫く動けないでいた。

「乙女。やはり美しいな。我らの故郷は」

信之の顔は、晴れやかである。

「信之様、」

「うん? どうかしたのか」

「……その、髪紐は」

信之は、悪戯がばれた子どものような笑みを浮かべた。

「お前に、何本も押し付けられてしまったからな。だが、大切なものだから、つい、な」

「昌幸様も幸村様も、喜んでおいででしょう」

信之は、乙女が渡した紐で髪を結んでいた。

昌幸も幸村も、きっと信之が自分たちの作った紐で髪を結うことになったとは思ってもみないだろう。そう思うと、どこかおかしくて、滑稽で、それでいて彼らの温もりを間近で感じることができるようだと乙女は思う。

「……乙女。言いたいことは、それだけではないだろう」

「何も、ありませぬよ」

乙女によぎるもうひとつの気持ち。それを信之は見透かしている。

「いいんだ。正直に言ってくれ」

「……その。先程は、何を話しておいでで?」

「先程? ……ああ。久方ぶりに、顔を見せてくれたからな。家族なのだから、もう一度あの頃のように、と……豊臣から落ち延びただとか、そんなものなど、最早関係ない。どうにでもなることだからな」

「家族……」

信之の忍びだ。それを誇りとして今まで生きてきた。

忍びは、泰平には不要だ。家族など、乙女は考えたことも……いや、それを否定するほど彼女は孤独ではない。

「もしかして、妬いているのか?」

揶揄うような声色。信之は本当に童へ戻ってしまったようだと乙女は文句を言いたくなった。

「妬いて、など……おりませぬ。今日の信之様は、子どもの頃に戻られたようでございます」

「隠さなくてもいい。今日の私は、一段と気分が良いからな」

「……私は」

妬いている、という言葉が適切なものなのか、乙女にはよく分からない。

ただ家族だと言われたことは、一度もなかった。信之にずっと仕えていても、だ。顔に出すなど忍び失格と言っていいが、乙女はそんな一面を露わにしてしまうほど、この平穏を自然に受け入れていた。

「お前のことも、大切な家族だと当然思っている。その言葉をわざわざ口に出さずとも、当たり前のものだと日々感じている。……確かに、お前に甘えすぎていた部分もあるが。口に出さなかった……私の、怠慢かな」

「……勿体なき、お言葉」

確かにそうなのだ。

乙女もまた、真田の家族であることに変わりない。昔から、あの別れを経ても、それから今になってもずっと、だ。

家族である。それ以外に、この関係性を言い表す言葉はどこにもない。簡単な話だ。もうとっくに分かりきっていることだから、信之は口に出すことはなかったのだろう。

そう思うと、乙女はいても立ってもいられなくなる。

乙女はひれ伏そうとして、信之に制止された。

「家族であれば、たまには命令されていないこともしたくなる。それが、己の大切な家族のためになりそうなことだと感じたならば、尚更だ」

「私は何もしておりませぬ。昌幸様たちのことも、何も……」

「いいや。お前は立派に務めを、いや、務め以上のことを果たしている。私のためを思って、お前は動いている。……命じられたこと以上のことを」

信之が取り出したのは、本来の姿を取り戻した六文銭。それを繋いでいるのは乙女が信之に渡した紐だ。

「お前の働きも、私の一部となっている。この紐は父上と幸村……そして私と、お前自身をも繋いでいる。真田を繋いでいるのだ」

上田の様子も見に行きたい。そう言って乙女の先を歩き始めた信之に追いつこうと乙女は足早に歩き始めた。

信之の髪紐が、真田紐が。その全てを背負った大きな背の上で揺れている。

(20251218)
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