蜥蜴の切れた尾がはねてゐる太陽
慶長十六年、真田昌幸がこの世を去る。幸村はその臨終を見届けた後、よりその身に宿す闘志を強めているように乙女は感じていた。

時が過ぎるにつれ、上方の騒がしさはこの九度山にも伝わってきた。戦になる日もそう遠くはないと乙女は見ている。関ヶ原はあくまで豊臣家中の争いであった。だから、豊臣恩顧だった大名の中には徳川に刃を向け秀頼を奉ずる一派も存在していると聞く。行商のふりをさせて各地に散らばせている忍びによると、豊臣家中では各地の牢人を呼び寄せているという。

幸村は大坂に入るだろう。だが、平時はそのような素振りを見せないのが不気味だと乙女は思う。今もそうだ。先程まで碁に興じているかと思えば、酒を飲んでいる。これでは、牙を抜かれたと言っても過言ではない。だが、この男がその程度で終わるはずがないのだ。

「……酒を」

「本当は弱いのに、まだ辞めぬおつもりですか」

「たまには、そういう日もあるだろう」

仕方がなく、乙女は酒をなみなみと注いだ。幸村が本当は何を考えているのか、こうしているとよく分からなくなるというのが正直なところである。望もうと思えば望むことができる。秀頼の手先となり徳川を、いや今や幕府の大軍を打倒するという途方もない大望を。幸村もそれはどこかで、必ず考えているはずだ。そうに違いないのだと乙女は根拠のない確信を得ている。

だからこそ、こうして腑抜けた主君の姿を見ることが、乙女にとっては耐え難いのである。それが演技であろうと、本心であろうと、関係ないことだ。ただ、彼がもう一度槍を振るい立ち向かってくる敵を一心不乱に倒す姿を見たいだけである。

上田合戦で徳川秀忠と、幸村の兄信之を足止めしたことはいつまでも乙女の記憶に残っている。昌幸の策に従い、乙女はかつて真田に与していた見知った顔と刃を交えた。幸村の槍働きも、忘れることはできない。赤備えの鎧が返り血を喰らい、十文字の槍が敵を貫き薙ぎ倒す。

もう一度見たい。幸村という男は、何よりも戦場が似合う。人質としての生活を余儀なく送ることになった彼が輝ける場所は、閉鎖的な城の中でもこの窮屈で常に監視の目がどこかにある九度山でもない。

分かっているはずだ。幸村自身も。豊臣を守るだとか戦うことで意地を示すだとかは、全て結果論である。乙女が幸村に求めているのは、もっと単純なことだ。ただあの頃の興奮を乙女は追っている。幸村もそうであるのだと乙女は、虚ろな理想を見続けている。だから乙女は、幸村が許せなかった。

酒を注いだ杯に手を伸ばす幸村の手首を乙女は掴み、捻りあげた。

「腰抜けとなられたか」

乙女は幸村を挑発した。幸村は眉すら動かさずに乙女を見ている。暗い炎が燃えている。幸村はふっと笑って、もう片方の腕を伸ばして杯を掴み取り一息に飲み干した。

「そなたは私のことをよく分かっているな」

「……幸村様ほど、こんな所で惰眠を貪る姿が似合わない人はいませんよ」

乙女は手首を握る力を弱めた。するりと幸村の腕は離れていく。

「では、そなたに問う。私に一番相応しい舞台は何だ?」

「戦場でしょう。あなたは元来、戦に生き、戦に生かされる人だ……そう心得ていますよ」

「その通りだ。私は大坂に入る。もう一度大軍を撃退し、秀頼様を守り、家康の首を狙う。……そなたもそれが望みだろう」

「よくお分かりで。どこまでも着いていきましょう」

幸村は酒を注いだ杯を無言で乙女に差し出した。乙女もまた、躊躇することなく飲み干した。

乙女は、本気で大坂方が勝つとは思っていない。それが幸村との唯一の違いかもしれなかった。所詮、烏合の衆であるのだ。幕府軍は大軍を引き連れて大坂城を包囲するだろう。だが、そんな些末なことはもう乙女にとって問題ではなかった。

真田幸村という男をこの地に留めておくわけにはいかない。彼を結果的に死へと導くことになったとしても、乙女に躊躇いの気持ちはなかった。





「この真田丸に敵を近づけるな! 放て!」

幸村の叫び声で、火縄銃が一斉に放たれる。耳を劈くような轟音に顔を顰めながら乙女は打って出るための備えをしていた。

幕府の大軍が面白いように倒れていく。指揮を執る幸村はやはり、九度山で幽閉生活を送っていた頃とは比べ物にならないくらいに輝いていると乙女は思った。やはり悪戯に時を浪費せずに大坂に入って正解だった。豊臣の士気は高い。豊臣を守ろうとするもの、この戦いに勝ち恩賞にあやかるもの、その恩賞として家を再興しようとする者など、目的は様々で一丸となっているとは言い難い。だが幕府を、徳川を倒すという目的のみは一致していた。

「我らも打って出るぞ!」

火縄銃が再び放たれた。幸村の声や兵たちの互いを鼓舞する雄叫びとともに、火縄銃を潜り抜けた敵兵を白刃を持って討ち取りに行くのだ。乙女も幸村と共に道を切り開いた。幸村の腕は衰えていない。槍を振るうことに迷いはない。かつて自身が人質として過ごすこととなった豊臣の為に戦っている。秀頼を守るため、そして彼を守るための手段として家康を狙うため。

「乙女、敵の隙を突け!」

「はい! 敵は後退している! 追撃を!」

伏せていた兵が一斉に敵を襲う。その先頭に自ら立ち、幸村はさらに味方を鼓舞している。

幸村が戦う姿は、花が舞うようだった。

彼の策で、彼の武勇を見届けながら戦うことがこんなに楽しいことであるのだと、乙女は初めて知った。自身の、そして主君の死を覚悟でここまで進んできたものだったが、少しだけ希望が見えた気がした。

だがその希望も、長くは続かなかった。織田軍がかつて、設楽原で何千の鉄砲により武田軍を壊滅に追いやった地獄のような光景を。家康は再び、それをこの乱世の忘れ形見に思い起こそうとしている。乱世を終わらす大きな覚悟がそこにあると言っていい。彼らは大筒を用いた。それだけで豊臣方を畏怖させることは容易なことだった。大坂城の本丸に砲弾が命中し、数多くの人間の死を見た茶々はこれ以上の戦いは無駄だと和議を結ぶことを決めたのだった。

「幸村殿は、死を恐れていないように見える。兵の士気は上がるが、あれでは……」

「何が言いたいのです」

乙女は、幸村の戦い方を咎める男を睨んだ。結果的に戦いを停止することとなったものの、彼が残した戦功は大きい。乙女はただでさえ停戦の報を受けて苛立っていたから、さらに怒りが増した。

「彼は足軽ではないのですから、あのように出過ぎると我らにも迷惑がかかる。それに、あのような方に死なれては、今後は……」

「死ななければ良いだけのこと。幸村様は事実、戦果を挙げた。士気も高くなった。それは自らが表に立ったからでしょう。……それに、死はあのお方にとって、必ずしも不名誉なことではないのですよ」

男は何かを言いたそうにしていたが、やがて乙女を相手にしても無駄だと思ったのか、退いていった。

「……何かあったのか、乙女」

「いいえ。幸村様には何も関係ありません」

「そなたも、良くやってくれた。……和議を結んだとはいえ、まだ油断はできぬ。備えを怠らないようにしなければな」

「はい。私も力を尽くしますよ」





戦いは終わっていない。

幕府は大坂城の堀を埋めることを条件に講和したが、それだけで済むはずもなかった。堀を埋めるのが豊臣方のみであれば、いくらでもその期を先延ばしすることができる。だが幕府方はそれを許さずに周辺の屋敷を取り壊してまで堀を埋める。門や櫓も破壊された。もはや、和解だけでは終わらない。

「次が最後の戦いでしょうね」

「だが、私の目的は変わらない」

「……あなたは、そういうお人ですから」

「そんな私に、そなたは何も言わずに着いてくる。そなたも人のことは言えまい」

「そう、ですね……私は、不器用に生きることしかできないのですよ。きっと、それもお見通しでしょうけど」

「私とて、こうして戦って意地を示すことしかできぬたちだ。我らは我らにできることを為さねばならぬ」

「……勝てるとお思いですか」

「勝てる、勝てないということを考えているようでは、何も成せないだろう。ただ私は、今となっては命を惜しもうとは思わぬ」

「では、名が惜しいと?」

「そうかもしれぬ。私はもののふなのだ」

そんな会話を交わした。

死を恐れないほどの勇敢さは、昔から変わっていないと乙女は思った。

次こそ、彼らは豊臣を本気で滅ぼしに掛かってくるだろう。今はその布石にすぎない。そんな会話を交わした過去さえも、呆れるほど平和なものだった。それを乙女は身をもって知ることとなる。豊臣はもはや、この世では負の遺産なのだ。多くの人間を道連れにして、その代償として乱世を終わらすための死神と化している。

戦いは避けられなかった。だが難攻不落と謳われた大坂城は堀を埋められ曲輪も破却され裸同然であり、勝ち目がないと見て大坂城を退去した兵も多かった。

例え局地的に勝利を収めたとしても、もはやこの幕府軍との戦闘に勝つ術は失われつつあった。

後藤又兵衛の討死、長宗我部盛親は行方知れず、豊臣方にとって不利な戦況ばかりが伝えられた。共にこの天王寺口で戦っていたはずの明石全登も今や連携が取れず、大坂に集った牢人衆は壊滅したと言ってもいい。

「……ここまでか」

三度に渡り、幸村たちは家康が構える本陣に突撃した。三方ヶ原以降倒れたことがないと言われた家康の馬印が倒れたという。

そこまで追い詰めることができた。幸村の父昌幸がかつて仕えた信玄の境地に達することができたのだ。あと一歩だった。信玄もそうだった。三方ヶ原で散々徳川軍を蹴散らしたが、家康の首を取ることはできなかった。

もう少しで幸村は家康の首を挙げることができた。だが、数で勝る敵方を打ち破るにはやはり兵力が足りなかったのだ。

元より、ここまで乙女は生き永らえることができると思っていなかった。幸村が切り結ぶ姿を目に焼き付けて、自らも存分に戦うことができる。それだけで満足だった。どうせ、自分はあの九度山では生活などできないのだ。常に監視の目が光り窮屈で金を無心する毎日は耐えられなかった。この世で情けをかけられるのも苦痛でしかない。もし高禄で召抱えると話を持ちかけられたとしても、乙女はそのような選択をするはずがなかった。

乙女は自らの太刀を見る。血と脂に濡れている。もうこれで人をまともに斬ることはできないだろう。

身につけている脇差を見る。残されたことといえば、この刀を取って自らの腹を引き裂くことくらいだった。死は迫っている。だが怖くはなかった。進めば極楽浄土、退けば無間地獄。乙女は一向宗の門徒ではないが、石山合戦ではそのような口上が流行ったという。地獄のような話だが、その信者の気持ちが少しだけ分かるような気がした。死を目前にしても、恐れは一切ない。むしろそれは光栄なことなのだと。そう思うと、まだ敵を存分に殺すことができるように思うのだ。

幸村を見る。彼さえも口ではああは言ったものの、敵に対する尋常ではない殺意はまだ残っているように見えた。赤い鎧を覆い尽くすように、自身のものなのか、誰のものであるのか分からぬ血が纏わりついている。血の匂いは消えない。荒い息を吐くその口元から流れ出る血が覗く。白い歯が薄らと朱に染まっている。だが血走る目は未だ正気を保っていた。

彼とて、もう長くはあるまい。いくら彼のように優れた武人であっても、数の暴力の前には劣る。

乙女はぞくり、と身体を震わせた。乙女も幸村と同じように、体の至る所に傷を負っている。斬られた足からは出血が止まらなかった。足を引き摺り、幸村に続く。

兵の喧噪が響いている。見つかるのは時間の問題だろう。ここまで、幸村に着いてきて良かった。彼が戦う姿をこの特等席で見ることができた。限りなく死に向かいながらも死を恐れないこの男の姿に夢を見た。憧憬を抱いた。兵を策で翻弄し槍を突き刺して死へと誘うこの男のことを、乙女は愛していたといって良かった。

「幸村様……」

誰もいない神社の境内で、幸村は座り込んだ。乙女は地に頭を向け項垂れる無防備な男の姿を、隣に座ることなく見ている。首級を求める敵兵の声が聞こえる。

「覚悟を決めねばならぬ、か」

幸村は、顔を上げて乙女の脇差を指差した。乙女は、はっとして柄に手を掛ける。

太刀を投げ捨てて、乙女は脇差を抜いた。幸村が無言の後、緩く頷く。

首を落とせと言っているのだ。これまで何の恐怖も抱いてこなかった乙女が初めて畏れを抱いた瞬間だった。

「……本当に、よろしいので?」

腹を切らずに首だけを切り離すなど。乙女の一言には、そのような疑問も含まれている。

「良い。私は人質としての生活も長く、父上のように己で全ての策を思い描き、万に値する敵軍を相手にするなど、この生涯ではないものだとばかり思っていた。たが最後にその真似事ができた」

幸村は笑う。この絶望的な状況の中で。それは諦念から来る笑いなのだと、乙女は悟った。

「……私も、愉しくありました。最後にこんな大舞台に立つことができて」

乱世でしか生きることができない。乙女は自身をそんな人間だと思っている。戦いは愉しいものだと思っている。この戦が最後なのだ。全てが燃え尽きようとしていた。

「ああ……」

幸村は再び、頭を地に向ける。その項が見える。乙女は脇差を構えた。本当にできるのだろうか? 苦しめずにこの命を奪うことができるのか?邪念が襲う。だが、これは主命なのだ。

脇差を振り下ろそうとしたとき、不意に幸村は立ち上がり、乙女の手にある刀を瞬時に奪った。

「え?………」

乙女の腹に、握っていたはずの脇差が突き刺さっている。血が吹き出ると共に、嫌な汗がどっと流れ始めた。

幾田の戦闘で感覚が麻痺しているのか、深く刺されているにしては乙女の痛覚は鈍感だった。均衡を崩し背中から乙女は倒れる。幸村はさらに突き刺した刀身を動かし一文字に切り裂いた。先程は感じえなかった苦痛が乙女に襲いかかる。

「ぐっ……あ、あ……」

なぜ。乙女は仰向けとなって幸村を見る。彼の獰猛な目つきに、乙女は怯えることしかできなかった。

幸村は乙女が投げ捨てた太刀を蹴り飛ばす。手を伸ばせば届きそうな位置に、血濡れの脇差を投げる。腹を切られるだけでは、まだ死ねない。だから介錯をする必要がある。苦痛を少しでも和らげない、早く首を搔き切らなければいけない。乙女は必死になって体を捩り、腹ばいになって脇差に向かって指先を伸ばした。だがすんでのところでその脇差も幸村に蹴られ遠くに弾き飛ばされた。もう声も出なかった。腹が熱い。血の温かさが奇妙だった。体温がさっと奪われていくような感覚がした。

簡単には死ぬことができない。乙女はずっと、戦場で死にたかった。漠然とそう思い続けていた。泰平では、徳川の世では生きられないと思った。上田の地で、二度も撃退したはずの徳川にへつらわねばならないような生き方はできなかった。だが、こんな苦しみを味わうなど、考えたことはない。それも主君に殺されるなど。

「そなたの望みだろう、これが」

幸村は立てかけていた槍を取った。すぐそこに敵兵は姿を見せている。幸村は敵を見据え槍を構えた。

幸村の言っている意味が、乙女には分からなかった。彼のことが分からなくなった。

「そなたはせいぜい、私の死に様をそこで見ているといい」

幸村は唾を吐き出した。それは血が混じっていた。乙女は自分の体内から流れる血が海となり広がっていく様子を見るしかなかった。幸村がさらに血みどろになりながら槍を振ることを黙って見ることしかできなかったのだ。彼はもうすぐ死ぬのだろう。

彼の生き様に、そして今から辿っていくこの死に様に見惚れているのか。彼が戦場で散る姿を望んでいたのか。彼がただ脇目も振らずに戦い抜くその姿だけを見ていたかったのではなかったのか。乙女は次第に、自分のことも分からなくなった。こうして惨めに死ぬために戦っていたのか。彼を見届けてから玉砕したかったのか。彼に付き従ってから今このときまでまで一体、何のために戦っていたのか。そこに何か大義が少しでもあったのか、いや初めからそんなものはなかったのかすら、何も思い出すことができなくなっていた。

敵兵が、自分たちを囲んでいる。だが乙女の次第に薄れゆく意識の中では、鎧が擦れる音も武器がかち合う音も、何も聞こえなかった。ただ蝉の鳴く声のみが聞こえていた。それは今年になり初めて聞く声だった。

戦いは終わり、大坂城は落ちた。豊臣の天下の象徴が燃えている。葵の旗が揺れていた。

(20251223)
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