春がおれを殺しにやってくる
必ず岩櫃城へお越しください、と。
そう言った昌幸の言葉と表情を、勝頼は忘れられないでいる。そこに向かえば再起は図れるのかもしれない。昌幸のあの言葉に嘘偽りがあるとは思えない。だが古参の家臣の中には、未だに昌幸を信用していない者もいる。それでも勝頼がこの世で最も信頼できる男といえば、彼を差し置いてもう誰もいない。彼の言葉に従うのが懸命であるとは分かっている。
だが勝頼が向かったのは岩櫃城ではなかった。その選択は、破滅に向かうことに等しいことだった。
「……勝頼様。あなたはもう、生きる気などさらさらないのでしょう」
「今の私にできることは、この程度しかないのだ」
「分かっています。……かわいそうな、勝頼様。あなたはずっとそう。己の悲しみをどうして私にも打ち明けてくださらないのでしょうか」
岩櫃の代わりに向かったのは岩殿。だがこれも懸命な判断ではない。
岩殿城に向かう道筋は消え去ってしまったのだ。家臣の小山田信茂が織田方へと裏切り、勝頼たちをこの先に通さないという意を示し道を封鎖したからである。
最早、生き残る術はどこにもなかった。大勢いた家臣団も多くは立ち去り、また多くは既に討たれてしまった。
勝頼の妻乙女は、彼に従っている。そして、勝頼の本心を知っているのは彼女しかいない。
勝頼の意地である。これは悪く言えば、途方もない我儘である。彼の行動は武田を守るものではなく、真田を守るためのものだ。彼女の言葉は勝頼を思いやっているようで、今の彼には棘のようなや突き刺さるものだった。
「……天目山へ」
限りのない恐れが勝頼を支配している。死がすぐそこに迫っている。勝頼が横目で乙女を見た。彼女はこの過酷な行軍に汗ひとつ流さずに、涼しい目をしていた。それは一種の諦観であり、自分より余程覚悟が定まっていると勝頼は感じた。
誰よりも信頼できる男が昌幸だとしても、誰よりも愛しているのは乙女だと勝頼は思っている。そのような女に、このような醜い決意を固めさせるようなことをしたのは紛れもなく己なのだ。そう思えば思うほど、既に生きた心地がしなくなっていく。ずっと歩き続けている熱い体が一瞬にして冷えていった。
昔から、人の感情を機敏に読み取るきらいが勝頼にはあった。反面己のそれを素直に表すのは不得意だった。いや、それには語弊がある。
負の感情を表すのが苦手だった。今もそうだ。今も、絶え間なく襲う死への恐怖と後悔の念に苛まれている。だが乙女の前では、何も表すことができなかった。
乙女から、悲しむことという人として当たり前の感情を奪ったのは自分自身なのだと勝頼は思った。彼女は何も言わずに勝頼に従う。天目山をひたすら歩く。麓にはもう織田軍が迫っていることだろう。昌幸の使役する忍びに渡した書状は無事に届くだろうか。その書状が届く頃には、己は腹を切っている。そんな気がした。
もう行き場なないのだと悟った頃、勝頼は鎧を脱ぎ捨て始めた。これは真田を守るためなのだ。武田の滅亡は、自分が岩櫃城に入ったところで避けられるものではない。岩櫃に行けば、真田は必ず滅ぶ。
これは正しい道だったのだ、と言い聞かせる。後悔せずにすむ道はこれだけしかなかったのだと。それでも勝頼はすぐそこに迫る死を、今このときになってようやく実感した。
「腹を切るおつもりですか」
「……そうだ」
「ならば、私からお斬りくださいませ」
「……お前には、」
生きていてほしいのだ、などと。
言えるはずがなかった。共にこの地を踏んだ時点で、生き残れる方法はもうとっくになくなっている。
乙女は、自身の持っている脇差を勝頼に差し出した。それでとどめをさせと言っているのだ。何が悲しくて、妻を殺さなければならないのだろうか。そう思った勝頼だったが、ではなぜ自分は昌幸を守ろうとしているのだろうかと感じた。武田や妻よりも昌幸を、真田を守ろうとするために動いているのではないのか。己の責務を履き違えてはいないだろうか。勝頼は乙女が差し出している脇差を掴み取りながらも、未だに迷っている。答えは死してもなお見つからないのだろう。
「勝頼様。私はあなたをお慕いしております。今も変わりませぬ。あなたはずっと、ずっとお優しい。誰にでも同じように。人の悲しみに心から寄り添うことができる。そんなあなただからこそ、私はあなたの手にかかりたいのです」
「私に、お前を殺せと言うのか。……私にとって、それは自分の腹を切り裂くよりも残酷なことだ」
「私はあなたのことをよく分かっているつもりです。昌幸たちを守りたいという気持ちを。私たちがここで死ねば、それは果たされるでしょう。その勝頼様の、身勝手な願いを叶える代わりとして。私は愛おしいあなたの手でこの世に別れを告げたいのです」
脇差を受け取った勝頼を前にして、乙女は躑躅ヶ崎館で昔見せたような笑みを浮かべた。
乙女の前では、一度も弱い所を見せなかったつもりであった。涙を流したのも、昌幸の目の前だけであった。
妻の前では気高くいたいという、僅かな自尊心が勝頼をそうさせていた。
だが、今の勝頼を前にして、幼子のように無邪気に笑う乙女を見ていると。もっと彼女に対して素直であれば良かったのかもしれないという後悔が勝頼を苛んだ。
「私はお前一人を幸せにすることもできなかった。そのような願いしか言わせることができないなど……不甲斐ないにも程がある、な」
「構いません。人の死に深く感じ入ることができるあなただからそう言っているのです。……一つだけ、さらなる願いを打ち明けてもよろしいでしょうか」
勝頼は頷いた。頷くしかなかった。
本当に、死に感じ入ることなど、自分はできているのだろうか。
「人が死んで悲しいのは当たり前だ」かつて、初陣を終えた昌幸に勝頼はそう言った。そして同じ言葉を、信玄の死後昌幸に言われてしまった。それを忘れるほど愚かな人間ではない。死は誰にでも訪れる。酷く悲しく寂しいものだ。だというのに設楽原では多くの武田の将兵を死なせてしまった。人の死を軽んじてしまった。許されないことだった。
乙女はそんな時でも誇りを捨てなかった。死んだ者を手厚く供養し、必要以上に悲しむことはなかった。彼らは命じられて散ったのではなく、武田の誇りを貫いたのだと言った。生かされた命をどうやって繋ぐかが肝心なのだと彼女は説いた。勝頼の揺らぐ信念を、乙女は守り続けていた。それはきっと、今もそうだ。
「私の胸を刺してください。そうして、私を抱きしめてください。あなたの死を見てから後を追うのではなく、あなたを感じたいのです」
乙女が発した唯一の我儘だった。勝頼にとっては残酷なことだ。愛する女を殺しその死を見届けてから自刃しなければならないなど。だがそれ以上の我儘を、彼女は受け入れている。真田は助かるかもしれない。だが己は助からない。妻よりも一家臣の家を優先した夫に、これまで何も言わずに従っていたのだ。
「分かった。お前の願い……しかと聞き遂げよう」
「……良かった」
脇差を抜いた。乙女は立膝を保ったまま動こうとしない。武家の女としての矜持があった。勝頼によって切っ先が向けられる。乙女はやはり、びくともしない。
願い通りに、胸に向かって刃を思い切り突き立てた。勝頼は、不思議と恐れを感じなかった。小さく呻き声を漏らし、乙女が胸から血を流しながら横たわる。勝頼は刀を捨て、仰向けに転がる乙女を抱き起こし、思い切り抱きしめた。
「……さいごにあなたを独り占めできて、ほんとうに、ほんとうに良かった」
乙女の熱い血が勝頼を汚す。弱々しかったが、乙女も勝頼の背中に手を回し、そっと添えた。
「乙女……私も、すぐに逝く」
これ以上苦しめるわけにはいかない。勝頼は手に持つ刀に力を込めて、さらに胸を貫いた。体から力が抜け、彼女は事切れた。
背骨を折ってしまうのではないかというくらい、勝頼は乙女を強く抱き締めていた。
僅かに残った家臣たちの、すすり泣く声が聞こえる。
やがて息絶えた乙女を丁重に寝かせ、勝頼は立った。勝頼の胸から腹にかけて、乙女の血がべったりと付いていた。
「私は最後に参る。お前たちの介錯は、私が務めよう」
振り返った勝頼の瞳は、未だ彼の体で流れる血の温度とは対象的に絶対零度の如く冷え切っている。
覚悟が定まっていた。彼らの終始を見守っていた数少ない臣下もまた、涙を流しながらもその命を絶つことを決意したようだった。
一人の男が、己の腹に刃を突き、引き裂いた。苦しげに呻く声が勝頼の耳に響く。勝頼は一度は落とした脇差を再び取り、喚く男の首を落とす。首が転がり、また新たに吹き出た血が勝頼を穢した。
次々に、残った臣下は己の腹を切り裂く。聞くに耐えない叫喚が鳴り止まない。勝頼は刀を何度も振るい、この喧騒を彼らの死をもって次第に鎮めていった。地獄のような光景だった。これが我らではなく、織田軍の血である可能性も、どこかにあったのだろうか。勝頼は血の海の中に立っている。
勝頼の介錯をしようと願い出た臣下にも、彼は丁重に断りを入れた。勝頼はもう、とっくに決めているのだ。最後に自身の首を切る。そして妻に寄り添うようにして果てるのだと。最後に残った者の首を勝頼は刎ねた。
静寂が訪れる。
勝頼は、改めて乙女の遺骸の前に立った。
「昌幸。……お前は、私たちの分も生きてくれ、幸せになってくれ。乙女。お前は……私には勿体なき……」
首筋に、刃を当てる。頸動脈を切り裂き、勝頼は乙女のすぐ近くにゆっくりと倒れた。その姿は、まるで男女が共寝をしているかのようだった。かくして武田は滅亡した。天正十年、春のことだった。
(20251230)