どうしやうもないわたしが歩いてゐる
「……本当に反省しているの?」
人の寄り付かない路地裏に乙女はいる。
うつ伏せでぼろぼろの衣服をまとう男の腕を乙女は踏みつけた。男は頭から血を流しがたがたと震えている。
男は何かを呟きながら乙女を見上げている。恐怖に怯え、目には涙が浮かんでいた。
「こんな小娘にやられちゃって、可哀想。でも、アナタの汚い手で汚された私のほうが可哀想だと思わない?」
ぐっと力を込めていく。次第に強まる重みに男は悲鳴を上げた。骨の軋む音がする。それを乙女は至って冷静に見下ろしている。薄く笑いながら。
男の胸元からは血が滲み、地面にも赤い点を作っていた。全て乙女が行ったことである。殺さない程度に痛みつけて、乙女自身も血を浴びていた。
「スろうとしたんだから、その報いを受けるのは当然」
乙女は腕から足を退く。安心した男の顔に腹が立って顔を蹴り上げた。
もう一発入れてやろうか。乙女がそう思った途端、こちらに近づく足音に気がついた彼女は男の背中を踏みつけながらその方向を見た。
「……なんだ、アナタか」
「なんだとは失礼な。こんな所で何やってんだか」
こりゃまた、随分と派手なこと。その忍びはそう言って、この惨状にも呑気な態度を示している。
「だって、この人はスろうとしたから。こうやって制裁しているだけ」
「何をスったって言うのさ」
「お金。大事なものでしょ? 命と同じくらいに。だから、それを分からせてあげている」
「なーるほどねえ。ま、あたしは別に止める義理なんてないけど。でもその辺にしておいてあげたら?」
「なぜ?」
「……だって、信之様が呼んでるよ? それ以上に血塗れになっちゃったら、マズイんじゃない?」
「それは……確かに、そう。ここが潮時かな」
乙女はそこでやっと、男の背中に置いていた足を下ろした。自由になった男が恐る恐る乙女の顔色を伺う。乙女は目と顎で、男に逃げるように指図した。
逃げる男の足取りはふらふらとしていて、何か報復をしてくるようには見えない。
「こんな勝手なことすると、信之様にも迷惑かかっちゃうんだから。勘弁してにゃー」
「……ごめん」
「あたしに謝っても、あんまり意味ないでしょ? あたしが何とかするから、着替えたほうがいいんじゃない?」
「そりゃそうか。……やっちゃったな。アナタにも、迷惑がかかる」
「あたしは別に。あんたを放っておくわけにもいかないしね」
歩き出す彼女を追って、乙女も続く。彼女と話すことは、なぜだか心地が良い。乙女は自分の装束を見た。そこには鮮明に、先程の男の血が付いている。
乙女は信之に仕える忍びである。忍びとして、音を立てずに、気取られずに人を殺す術を心得ている。返り血を浴びることもなく、証拠を残さずに人を消すこともできる。
だが、乙女はそうしなかった。忍びとして、重々に反省しなければならないことである。あの男を消さなければならないかもしれない。乙女はいたぶったこと自体を後悔はしていないが、信之の面目を潰すことは耐えられなかった。
「……あのさ」
路地を出ようとする寸前、彼女は歩みを止めた。
「何」
「……その。本当は、お金じゃないよね」
「なぜそう思う?」
「だって。お金ぐらいじゃ、乙女はあんなに……怒ったりなんてしないから。あんたはあんまり、ああいうことしないでしょ。……普段は、ね」
彼女が真剣に何かを話すのもまた、珍しいことだった。いつものおどけた態度も表情も、そこには一切なかった。
これは、笑って誤魔化してどうにかなる問題でもなさそうだ。乙女は観念した。
「よく分かったね。……本当は、お金じゃない」
「んじゃ、何されたの」
「……これ」
乙女が懐から取り出したのは、懐紙に包まれた櫛だった。見るからに高級そうなものであった。
「櫛?」
「信之様に、頂いたから。これを盗られそうになったから、それで……」
このようなことを誰かに打ち明けるのは初めてだった。主君から贈り物を頂いたなど、乙女は誰にも言わなかった。忍びは影として生きる存在。光に触れることはできない。だがこれは、確かに光だ、光そのものなのだ、と乙女は思っていた。そして自身の弱さの象徴でもあるのだ、と乙女は感じてやまない。
これは、頂けるものではない。むしろ壊して、バラバラにして、捨てるべきものなのかもしれない。だができなかった。奪われそうになって、乙女は初めて逆上した。忍びとしての本領を超えた怒りを、乙女は初めて味わったのだった。
それを同じ忍びに言ってしまうのも己の弱さの現れだ、と乙女は思った。
「くすっ。にゃるほどね! じゃあ尚更、信之様の前ではキレイでいなきゃ!」
彼女は乙女の手を取った。それは汚れを知らぬ無垢な手のように、乙女には感じられた。理由は分からなかった。
数日が経った。乙女はあの路地裏で、彼女を見かけた。乙女とは違い、一人でいる。あの日男をなぶった場所に、何もせずに立っていた。
「何、しているの」
「あっ……見つかっちまいましたねえ。なんにも、しちゃあいませんぜ」
彼女はわざとひょうきんに振舞っている。本当は何か言いたいことがあるはずなのだ。直感が乙女にそう言っている。
「嘘でしょう。……私が、一度嘘を吐いたことは謝るから。……アナタも本当のことを言って」
「そんなに変な顔、してるかな?」
「してる」
「そっか。……乙女には、敵わないな」
急にしおらしくなり、彼女は乙女を見つめた。それはどこにでもいる普通のおなごであり、何の抵抗感もなく人を殺めるような姿には見えなかった。
「教えて。昔からの仲でしょ」
「うん……そのね、あんた……いや、君にはさ。ふと思っちゃって。忍び働き、してほしくないなあって」
「今更、そんなこと」
「だよね。おかしいって分かってるんだけど……あたしはいいんだよ? でも、君は……こんなに何も考えることなく人を傷つけるような、殺しちゃうような生き方、本当にこれだけだったのかなって」
「……お館様が示してくださった生き方だから、否定なんてできない。アナタも、そう思っているはず」
「そうなんだけど、そうなんだけど、ね……あたし、何言ってるんだろう。お館様に拾ってもらったからこうして生きてるってのに、あは、は……」
「……」
彼女は、指で口の端を持ち上げて無理に笑った。乙女は彼女の気持ちが理解できる。しかし、それと同じくらいに信玄への、そして信之への忠誠心がある。彼女もそうだ。信玄と幸村の為ならば何だってできる。
二人には身寄りがない。それを拾い、忍びとして育て上げたのが信玄だった。一人で生きていく為の術でもあった。彼がいなければ、二人は生きていないかもしれない。
それでも。忍びは時に、武士からも蔑まれる。人の心を持たない存在だと陰口を叩かれることもあった。忍びではない生き方も、どこかにはあったのではないか。本当にこれが幸せなのか。
彼女は、そう言いたがっているように見えた。
「私も同じだから分かっちゃう。……あたしは幸村様の為なら何だってできる。でも、あたしと幸村様が結ばれることは絶対にない。君と信之様もそう。でももし君が忍びじゃなくてどこかの養女にでもなっていたら、それは不可能なことじゃなかったかも……って」
乙女は、無意識に懐を押さえていた。信之のことが好きだ。だがこれは忠誠がゆえのものだと、乙女は思い続けてきた。そうでもしないとこんな仕事はできないからだ。
彼女はそんなことくらい、とっくに見抜いている。共に幼い頃から育っただけあるというものだ。
罪なものだ。お館様も、幸村様も、信之様も。乙女は初めて、彼らのことをほんの少しだけ憎んだ。
そして、もしここに役目も何もなく、二人だけの世界があったのならば。そこで初めて自由になれるのだと乙女は彼女を見て思ってしまった。
「私も、アナタにこんな危険なことさせられないって何度も思った。何かあれば、二度と幸村様に会えない。それはあなたにとって一番辛いことだと……そして、怪我がなくとも。こうした毎日はあなた自身の心も傷つけてしまうのだと」
「乙女。あたし達、全然血なんて繋がってないけどさ。本当の姉妹みたい。こんなに同じことばかり考えちゃうって。そう。君が誰かを傷つけるのと同じくらいに、傷つくのも見たくないんだ、あたしって」
大切な人を守りたいという気持ちがある。それは彼女も同様だ。忍びとして育ち、残虐な行為を何も思わなくなり、それを楽しんだこともあった。だが今は違う。物事を知りすぎてしまった。何かを失いたくないという気持ちを知ってしまった。何かを守りたいという烏滸がましい願いを持ってしまった。愛を覚えてしまった。
「幸村様も信之様も。守らなければいけない。だって、大好きなんだから。でも、それはアナタも同じ。アナタも守りたい。……二人で、全てののとから逃げ出したならば、どうなるのかな」
実現など不可能な夢物語だ。
「……楽しいと思うよ、きっとね。そんな未来がどこかにあったのかも。なんだか君と話してたら、時間を忘れちゃう」
「私もそう。まだやらなければいけないことは沢山あるのに」
「……あたしも。そろそろ幸村様の元に行かなくちゃ。ありがと、ね」
彼女はその言葉を最後にして、音もなく消えた。声だけが残された。彼女の笑い声が聞こえる。普段通りの、おちゃらけた声が。
乙女もまた、闇に消えた。
彼女が本音で話すことができるのが、私だけであればいいのにと乙女は思った。乙女もまた、主君信之にも言えぬことを彼女にだけは話すことができるのだ。泰平の世、忍びなど無用の世が早く来ればいいと思った。二人で旅にでも行こうかと乙女は考えていた。乙女はそれから、もうあの路地裏へは行かなかった。
(20260107)