昔話わんだーらんど
豊臣と徳川の決戦は近い。大坂には数多の牢人が集っていた。茶々もまた、そうした人々を鼓舞する役目が自分にはあると思っている。
だがどこかで、これは豊臣の世を取り戻すためのものではなく破滅を呼び起こすためのものではないのかと疑っているのも事実だった。
この城で権威を握っているのは茶々の乳母の息子、大野治長である。茶々にとっては見知った男だが、彼と幸村たち牢人衆の間には大きな隔たりがあると彼女は見ていた。
だが、茶々自身が何かを言って物事が動く……そんな段階はとうに過ぎているのだと思うしかなかった。これ以上、誰かが死ぬところを見たくはない。だがそんな思いとは裏腹に、戦いへと自分たちは向かっているのだ。茶々は、こんな毎日が虚しいと思うしかなかった。戦わなければ誇りは失われる。分かっていても、全てを納得することはできないままでいる。
ここに来てから何年になるだろうか。いつものように城を歩く。どこを歩いていても騒がしかった。広い城に多くの人がひしめいている。
茶々がふと目をやる先に、十字架を首からぶら下げた女がいた。
見知らぬ女である。侍女などではない。女は異装をしていた。だが、それにはどこか見覚えがある。茶々にとっては忘れることができない思い出のうちの一つと、よく似ていた。
「……そこのあなた」
「私ですか」
女は酷く陰気な声で茶々のほうを見た。
「そうです。……あなたは、何のためにここへ」
女の素性を、茶々は知りたくなった。大した理由はない。女の容貌は、関ヶ原の折に自害した「ことになっている」茶々の友を思い起こさせるようなものだった。それが理由だった。女には関係がないことである。それでも茶々は、引き止めてまで話をしたくなってしまった。
「我が主、明石全登様に従ったまでのことです」
腑に落ちた。幸村たちと同じくこの城に入った明石全登という牢人は、熱心なキリシタンである。その臣下たちもまたキリシタンであると茶々は聞いている。だから彼女も十字架を掲げているのだ。
女は冴えない様子でいる。何に怯えているのか、度々茶々からも目を逸らした。その挙動は、茶々が女を見て思い浮かべた一人の友とはまるで正反対だった。
面影を見ただけだ。茶々は、女を呼び止めたことを申し訳なく思い、役目に戻るように言おうと思った。だが意外にも、話を続けたのは女のほうだった。
「……その。あなたが茶々様だということは聞き及んでいます。まさか、こんな所で拝謁することになるとは……」
「遠慮せずともよいのですよ。私が些細なことであなたの手を煩わせた。気を遣う必要などありません」
「いえ。違うのです。私は……無理を言ってここまで来ました。私の左腕は過去の傷でほとんど使い物になりません。今も、大してやることは何もないのです。人を呼ぶとか、書状を運ぶことくらいしかできませんから」
女の、どこか居心地が悪そうなその素振りを生み出す要因はそれか、と茶々は思った。彼女は腕を長い袖で隠してはいる。しかし、その言葉は真実なのだろうという予感があった。
彼女は何があっても戦場に出してはいけない。そして、城中であっても危険な目に遭わせないようにしなければいけない。茶々がそう思った瞬間、彼女は口から出まかせにこう言っていた。
「主の許可を得ないことにはどうしようもないかもしれませんが。あなたは以後、私に従うように」
そうしなければいけない気がした。男たちの戦いに巻き込むべきではないと思ったのである。それはかつて、友に対しても感じたことだった。友情も何もないこの女に対して、不思議と尽くしたいという思いが溢れた。
「え……?」
「あなたが主に尽くしたいという思いは尊重します。ですが……私の傍を離れないように。いいですね」
女はゆっくりと頷いた。茶々の強引な言葉に戸惑っているようだったが、やがて彼女の前を辞した。
「茶々様」
「何です、乙女」
茶々はこの乙女という女を重用するようになった。名目上は侍女であるが、何か重荷を背負わせるようなことはしなかった。
簡単な用事を任せると、文句一つ言わずに彼女は働いた。人付き合いができるようにはあまり見えなかったが、至って穏やかに務めを果たしているようだった。
乙女は、主君のために尽くしたいと思ってこの城に来た者の一人である。彼女の生き甲斐を奪っていることなのかもしれないと茶々は考えたこともあった。乙女は言い返さないことをいい事に、こきつかっているだけではないのだろうかとも茶々は自身を俯瞰した。
戦いは、いよいよ始まろうとしている。この部屋の中に、多くの人が死んでしまうような、惨い戦いの気配はない。本当に始まるのか、とさえ思ってしまいそうだった。
「……関ヶ原の折、細川屋敷から火が上がりました」
どきり、と茶々の胸が震えた。彼女も石田三成らと共にその現場にいたのだ。
「過去の話です」
「私にとっては、全てが地続きのことです。あの方は私の憧れでもありました」
「……」
この話を続けるのは危険だ、そう思って一蹴しようとした。だが乙女は普段のおどおどした、自信のなさげな態度とは打って変わって引き下がろうとしなかった。
「私も、あの方と同じですから。……私たちは、自ら命を絶つことはできません。だからあの方は、ご家臣の方に胸を突かせることでご自害あそばされたと」
「なぜ、そのようなことを私に話すのです。あなたらしくもありません」
乙女は目を逸らさなかった。茶々を非難するような目つきではない。あの時のことを責めるような口ぶりでもない。
「あなたもあの場にいたのだと聞き及んでいます。しかし、あの方を見捨てるような人ではないと。私はあなたと過ごして思いました。短い時ではあります。けれども、そう思えて仕方がないのです」
茶々は、あの時友を屋敷から逃す手引きをした。生きていてほしいのだと望んだがためだ。
三成は怪訝な顔をした。茶々が「自害した」のだと言うと、「そう言うことにしておいてやろう」と言わんばかりの目線を送った。
仕方のないことだ。三成は、人質を取ることで味方を増やそうとした。人質になることを拒む女が出ることは予想済みであろう。いちいち取り合っているだけ、時間の無駄だったのだ。
だがその三成ももうこの世にはおらず、唯一あの時茶々の本心を悟った大谷吉継もまた同様だった。
言ってもよいのかもしれない、と茶々は少しだけ思った。乙女を自らの傍に置きたいと思ったのも、あの友を連想させるがためだった。
「……人払いをしましょう」
茶々は、乙女を除くこの場の人間を下がらせた。乙女もまた、茶々がこれから重大なことを言うのではないかという覚悟を決めたようだった。
二人きりである。
暫くの間、沈黙が場を支配した。それを茶々は破る。乙女が言ったことは真実だと、何としても言わなければならなかった。
「あの屋敷にいた、あの娘は……」
たったそれだけを言うだけなのに、乙女の他には誰も聞いていないのに、茶々は未だに言いきれずにいる。
乙女は茶々から目を離そうとしなかった。茶々の友もそうであった。好奇心が強く、疑問に思ったことは納得するまで人を問い詰める。茶々とは全く異なる性格だったが、敗将の娘という立場は同じだった。乙女もまた、似たようなものである。彼女が陪臣として仕えた宇喜多秀家は関ヶ原の後、八丈島へと流されているのだ。
暫くして、茶々はようやく重い口を開いた。
「……あの娘は。私が逃がしました。もう、それも遠い日のことです。あの娘がどうなってしまったのか、私は分からない」
一人の女性に彼女を託した。その女性のことを鑑みるならば、四国へと逃れたのかもしれない。土佐の長宗我部を頼ったのかもしれない。長宗我部は大名家としては既に亡く、後を継いだ盛親は牢人としてこの城にいる。今更、茶々は彼に尋ねることもだできなかった。あの友を生かしたことを知っているのは、この世に茶々と大谷吉継、そして乙女だけである。それ以上の火種を産む必要はないのだ。
茶々の言葉を聞いた乙女は、静かに頷いた。
「いいのです」
乙女は何度も、「いいのだ」と言って首を振るばかりだった。
「あの方に、私は会ったことがありません。ですが憧れていたのです。逆境にあっても自らを曲げずに生きたあの方を。……そして、あなたにもそう感じている」
「私にですか。私は……あの娘ほど、強くは……強くあろうとしている、それでも……」
「あなたの為に集っている人も多くいる。私もそのうちの一人です。明石様のためだけではなく、私は茶々様に会うためにここにやってきたのだと……そう思うようになりました。あなたは強いお人です。だからあの方をお助けすることができたのです」
茶々と乙女が出会ってから、まだそう日は経っていない。しかし、茶々は乙女のことをずっと手元に置いてしまいたいと思うようになっていた。
しかし、戦いは目前にある。乙女は過去に受けた傷が原因で武器を持つことができない体なのだ。とても戦場には立たせられない。
既に籠城して戦うことになってしまっている以上、彼女たちを含む侍女などがいる部屋には決して敵を近づけてはいけない。それよりももっと手前で食い止める必要がある。
それができるのは兵を率いる牢人衆、そして茶々自身である。
「私があなたを守ります」
「……お助けするのは、私のほうです」
「あなたは、ここに何かあったときに女たちを逃がすのです。ですが、そんな事態にはさせません。あの娘と同じように、私はあなたを守らなければいけない」
乙女はいつものように困ったような、見えない何かに怯えているような表情を見せた後、再び深く頷いた。
彼女の胸元で十字架が揺れている。
徳川幕府軍は、大軍を擁して大坂城を攻めた。
茶々は、自らも武器を取って戦っている最中に大筒が大坂城に撃ち込まれるのを見た。
二度の落城、父と母の死を見届けた茶々は激しく動揺した。最早、一人一人の武勇がものを言う時代は終わったのだ。
乙女という女性の行方は、この戦いの後分からなくなったとされる。幕府の放った弾が彼女のいる部屋に命中したことをきっかけにして、茶々は和議を結んだのだとも。はたまた、こんな話もある。夏の陣の折、茶々に殉じるために彼女自身に胸を貫かせたのだと。
いずれにせよ、茶々が乙女を深く想っていたということは、事実なのだろう。
(20260129)