私の知る喜びは静寂
武田が滅び、乙女は行き場を失った。忍びとして巫女に成りすましたり、時には浮浪者のふりをして乙女は武田の為に尽くしたつもりである。
しかし、今やもう尽くすべき相手はいない。乙女は忍び働きを辞めた。時に忍びは、人間以下の存在であると蔑まれることもあった。だがこうして、現在のように百姓に混じって生活することができたのは過去の経験のおかげだった。生きる為の知恵を忍び働きで培ってきたのだと言ってもよい。今の生活も、全てが虚しいものであるというほどではなかった。
武田の臣下だった者たちはこぞって徳川に召し抱えられた、などという噂を乙女は耳にした。井伊家の若者がそれを率いるようになっただとか、それくらいのことは忍び働きをしなくても自然に耳に入る。
乙女が仕事を終え粗末なボロ家に向かう途中、すぐ後ろに気配を感じた。すぐに振り向いたが、そこには誰もいない。
木々を見渡す。そこには黒い影が見えた。影は瞬く間に消える。乙女が一度振り返った顔を元通りの位置に戻せば、そこに影があった。
「半蔵様」
影の名を呼んだ。顔を覆っている彼の表情から、一体何を考えているのかを読み取ることはできない。
敵ではあった。しかし、今の乙女はもう忍びではない。乙女は武田の残党との関わりもく、彼がここに来る理由として考えられることは何もない。
ただ、この男にしては気配の隠し方が下手だ、と乙女は思った。因縁の相手には違いないのだが、乙女は彼に敬意を持っている。
彼らしくないと乙女は感じてしまった。
「……我が主が。我が元に来い、と」
「それを断るとしたら。半蔵様は、無理矢理私を連れていきますか?」
「……」
半蔵は、寡黙な男である。敬意を持っているからと言って、彼が腹の底で何を考えているのか、分かったものではない。
首元に刃を突き立てられ、脅されるか。薬を飲まされ眠らされるのか。家康の元へと連れ去る手段は幾らでもある。
乙女は警戒を強めるも、不思議と戦場で彼と対峙したような不穏な気配は微塵も感じられなかった。
「目的は何ですか? 私はもう忍びではありません。武田は滅んだ。武田に仕えていたどこかしらの家に仕える気も、私にはありません」
「……お主を忍びとして使う気はない」
「ならば、どうしてです? 武田の遺臣を家康様が重用していることは知ってします。私を忍びとして利用するつもりではないのですか?」
半蔵に敵意を向けるつもりはない。同様に、乙女は家康に対してもそう思っていた。彼らに従う者を殺し、また仲間を殺められた間柄ではあったが、乙女は恨むなど以ての外だと感じている。
だがそれでも、忍びとして生きることは嫌だと思っている。散った同胞たちが、まだ来るなと呼びかける夢を乙女はよく見ていた。それは悲惨なものではなく、また自分がこうして野良仕事をしているということを肯定してくれているようだった。
自分は忍びには向いていない。乙女は自身のことをそう認識しているのだ。
「……お前の行方を、主は探っていた。忍びではく、一人の人として」
奇妙だ、と乙女は思うしかなかった。そして、やはり今日の半蔵はどこかおかしい。
徳川とは一時的に同士として今川領を攻めたこともある。味方として戦った頃の彼とも、敵として相対した彼とも、何かが違う気がした。
「それで、あなた達にはどんな益が?」
「…………主に、益はない」
「なら、半蔵様にとって何か良いことでも?」
「……」
彼の寡黙さは、美徳であると乙女は思う。だが今となっては、そんなものは欠点にしかなり得ない。忍びや主君に対しては相応しいものかもしれないが、今の乙女は乱破ではない。ただの人である。
ただの人なのだから、もう少し歩み寄ってくれればいいのに、と乙女は呆れた。
「仮に、半蔵様に着いて行ったとします。そこで私は、一体どんな待遇を受けるというのですか? 何の対価も示さない私に、扶持をお与えになるのでも?」
「……」
「私は人の心が読めるわけじゃありませんよ。何か言ってくれないと」
「……拙者の、妻にと」
「妻?」
乙女が聞き返した矢先に、強い風が吹いた。乙女が目を閉じ、次に瞼を開いた時にはもう半蔵は姿を消していた。
代わりに落ちていたのは、乙女が名を知らぬ花一輪だった。
「求婚のつもりかしら」
こんなに身勝手な男だなんて、知らなかった。そんな悪態をつきながらも、乙女は花を拾ってしまった。
面白い、と単純な感想を抱いた。仕事一筋かと思いきや、妙に粋なことをする。花ひとつで女の心を射止めることができるとでも思っているのだろうか。
見かけによらず、情緒的な行為を好む男らしい。ともかく、乙女は元から半蔵のことを好ましくは思っているし、彼の庇護下で生きることは悪いことではないと思う。
任務の一環で、好きでもない男に近づいた過去のことを思えば。半蔵と暮らすこと、そしてその背後にいる家康の助けを得ることは決して損な話ではない。家康は武田の残党だけではなく伊賀から逃れてきた忍びも匿ったというし、この話は自分を騙すもの、というわけでもないのではと乙女は思う。
乙女は別に、本気で半蔵の妻として彼を愛そうとまでは至らなかった。ただ損得勘定で動いていると言っていい。
しかし、落ちた花を乙女は拾った。次に半蔵が来る日がいつかは知らないが、花が枯れ落ちないうちに来ればいいのに、と密かに思った。
乙女のそんな考えとは裏腹に、半蔵は日を空けずに再び乙女の元に来た。いつの間にか住処を知られていたようで、彼は律儀にも乙女が手招きするまで戸を引かなかった。
「迎えに来た、ということですか」
「左様」
半蔵を揶揄ってやろうか、と子供じみた考えも乙女にはあった。しかし、そんな事は今しなくとも、これから先いつでもできてしまうのだ。夫婦になるとはそういうことだろうと、乙女は想像も及ばぬ世界でありながらもそう理解している。
「行きましょう」
半蔵が頷いた。それだけだったが、乙女はかえって安堵した。
もしここで半蔵が力づくで有無を言わさず連れていこうとしたり、彼らしくない浮ついた戯言を吐いたのならば、乙女は危うく半蔵を刺してしまうことだっただろう。
ともかく、この一言で乙女は半蔵の妻となることを了承したのだった。
夫婦として生活に、正解が果たして存在するのだろうか。乙女は半蔵の妻という新たな立場で生きることになった。
相変わらず彼は寡黙で、乙女が重い物を持とうとすると無言でそれを掻っ攫っていくなんてことも多々あった。
夫としての責務を全うしている。それは乙女としてもそれとなく感じているし、彼への不満はなかった。
しかし、乙女はこの家に入ってからというものの、半蔵や侍女と言った面々としか顔を合わせていない。
彼曰く、「武田の元忍びとあっては、無用な乱の火種となる」ということではあったが、それにしたって、やりすぎではないかと思う。乙女はどこかに出かけることさえ許されなかった。
思っていたよりも過保護なのかもしれない。嫉妬心が強いとか、そんな風には見えなかったからだ。
だがそんな理由だけではないのだろうと、流石に乙女は勘づいている。半蔵がいれば外に出てもいい、というものでもなさそうだった。大体、半蔵が乙女を探しに来たのは殿の命だからと聞かされていたが、肝心の家康はいっこうに来なかった。
そうしていくうちに月日が流れ、乙女はすっかりこの奇妙な生活にも慣れてきたのだが、あることが起こった。
「乙女殿とお見受けする」
「……忠勝様。私に何か用ですか?」
本多忠勝。半蔵とは同士である。乙女はここにやって来てから、初めて彼の姿を見た。
彼の後ろに隠れるようにして立っている門番は、乙女に向け申し訳ないと訴えかけている。忠勝に睨まれたならば、そうなるのも納得がいく。ともかく、今の乙女は間者でも何もない。半蔵の妻である。忠勝に怖気付く必要はどこにもなかった。
「そなたは、いつから此処に?」
「三月ほど前からですが」
「どのような経緯で、此処に参ったのだ」
「半蔵様が、私をお招きしてくださいました。私を妻にすると」
「本当にそれだけであったか」
「はい。私はもう忍び働きはしておりません。ここに来てからずっと、侍女に混じって働いているだけです」
それまで厳しい顔つきをしていた忠勝の頬が緩んだ。乙女は訳が分からなかったが、余程忠勝には面白いことだったらしい。
半蔵様が笑うことと同じくらい、この方が笑う姿も珍しいんじゃないかしら。乙女はそんな事を思いながらこの男を見上げている。
「半蔵も、中々面白きことをする。……そなたが半蔵に匿われているという噂があったのだ。武田の忍びと通じていると。だが半蔵に限ってそのようなことはあるまい。その正体がそなたならば、これ以上の心配は要らぬゆえ。殿にも良きものとして報告しておく」
忠勝はそれだけを言って、さっさと後にしようとする。
良からぬ疑いが晴れたということなのだろうが、それはあまりにも乙女にとって性急すぎた。あっさり引き下がる忠勝に対しても、本当にそれで良いのかと思ってしまった。
「待ってください。私がここに来たことを、家康様は把握していなかったということですか。私は半蔵様から聞きましたよ。殿が私のことを探していると。殿が私を、半蔵様の妻にせよと仰ったとばかり思っていたのですが」
「……うむ。そうであったか……ならばそれは全て、半蔵のみが自らの意思に基づき行ったと見て、」
「半蔵様が独断で……!?」
「そなたの話を聞くと、これは半蔵の仕業だと見て間違いあるまい。ともかく、殿のお怒りを買うようなことにはせぬゆえ、気にすることはない。拙者は半蔵を信じておる。半蔵がそなたを信じているのならば、これ以上の追求はせぬ」
そう言って忠勝は立ち去ってしまった。乙女は呆然とするしかなかった。全てが半蔵の企てなのだとしたら。半蔵は一体、なぜ自分を妻にしようと思ったのだろうか。乙女には予想することもできない。
半蔵は何やら仕事と称して姿を消している。彼が帰ってくるのがこんなに待ち遠しくなるのは初めてだった。
「半蔵様」
半蔵は手傷を負って帰ってきた。
「心配は、無用」
助けを借りずに手当てをする半蔵を見て、乙女はそういうことを言いたいわけではないのだと地団駄を踏みたくなった。怪我の心配をすることは当たり前だが、半蔵が何か命に関わるほどの大怪我を負うことは有り得ないと思っている。
「そうではないのです。半蔵様、私を騙してここに連れてきたのですね」
半蔵は包帯を巻くのをやめて乙女の方に顔を向けた。素顔の彼を見ることには慣れてしまったが、やはり何を考えているのかはよく分からなかった。
「……お主は。既に分かっていてこの誘いに乗ったとばかり思っていた」
「もう。私、とっくに忍び働きを辞めました。全部話してくれないと分かりません……ああ、今の私は、戦場の半蔵様が相手だったらあっという間に討ち取られてしまうことでしょう」
ふ、と半蔵は小さく笑った。自らが咎められていること程度、彼にとってはびくともしない。心を揺さぶられることもない。
なんだか、自分ばかり怒ってしまいそうな気がする。乙女は、忍びとして生きた過去が現実のものなのかどうか疑わしくなった。それほどまでに、心を乱されている。
真実かどうかは分からないが。忍びという存在は、誰かを愛してしまえばその通力を失ってしまうのだという。乙女はそんなことを聞いたことがある。
半蔵様を愛してるという事なのかしら。では、半蔵様は?乙女が一人でそんなことを考えていると、半蔵が再び口を開いた。
「討ち取られているのは、拙者のほうかもしれぬ」
「私に?」
「心を。……影にも心はある」
「半蔵様でも、そんな冗談を言うのですか?」
「……冗談ではない」
「家康様たちを謀ってまで、私を妻にしたいだなんて。こんな冗談みたいな話、きっと私じゃなければ取り合って貰えませんよ」
「殿には、拙者が話をつけておく」
「話、ねえ。ふうん。まあ、いいんですけれども。あなたが私のことをそれなりに想っているということは、よく分かりましたし。いつからですか? こんなことを考えたのは」
「……武田が滅びお主の行方が分からなくなった時に、気づいた」
敵だった女を気にかけてしまうほど、半蔵は自分にぞっこんだったのか。乙女は一連の彼の言動や行動を憎むことはできないと思った。騙されてここにやって来たことも、不思議と気にはならなかった。
「それなりに、長い付き合いですからね。こんな忍び風情に入れ込んでしまうなんて、半蔵様は随分と馬鹿なひと」
「人としてあるべきことを教えてくれたのは、お主かもしれぬ。だが……強引だった。……すまぬ」
忍びは誰かを愛せば通力が失われるなど。そんなものは噂、俗説にすぎないものだ。半蔵を見ていると乙女はそう思えてしまう。
手傷を負って彼が帰ってきたのは、「そういうこと」なのかもしれない。などという些細な懸念はありつつも、乙女から見た半蔵はやっぱり見ただけでは何を考えているか分からなかった。大体、あの時花だけを置いて消えてしまったことを考えると、やっぱり忍びとしては今も優れすぎている男だと乙女は思う。
どちらにせよ、忍びである以前に、乙女も半蔵も人の子である。
影として生きることだけが、忍びとしての本質というわけでもあるまい。
「半蔵様だったら私をもう一度忍びとして使う、なんてこともありませんし。私があなたを選んだのは、いや……選ばなければいけないと思ったのは。私が人として生きるために、必要なことだったのでしょう」
「ならば。……大切にする。これから先も、必ず」
「でしたら、忍びは泰平の世には不要だ、なんて考えも捨ててくださいね。私のように、畑を耕すのも楽しいものですよ」
「善処しよう」
半蔵が家康に詫びを入れるならば、自分もお供しようかと乙女は考えた。
何にせよ、 乙女の気持ちに迷いはない。半蔵もそうであればよいのだ。中途半端に巻かれたままの半蔵の包帯と手を取った。たまにはこういうことをやって差し上げてもよいでしょう。 乙女の言葉に、半蔵は深く頷いたのだった。
(20260201)