泥で汚れるほうがいい
「直政殿。またそんなに傷だらけになって帰ってきたのですか」
「……余計なお世話です」
袖を捲った直政の腕には幾つもの傷がある。治りかけていたものの上にさらなる傷が折り重なるようにして彼の肌を刻んでいた。
「あんまり、無理しないほうがいいですよ」
「……そうは言っても、私こそが力を示さねば。彼らは着いてこないでしょう」
「私みたいに、適当に生きていても案外どうにかなるものですよ。折角ですし、私が手当てしましょう」
乙女は散らばる書状をそのままにして、慌てて包帯と薬を取り出しに行く。直政はそんな彼女に半ば呆れながらも、彼女の不在をじっと待っていた。やがて戻った乙女は直政の顔や腕にべたへたと薬を塗った。
「大人しくしていてくださいねえ」
「全く、子供じゃありませんから。乙女殿は俺を見くびりすぎです」
「そうやって強がらなくても。私の前くらいは」
「強がってなどいません」
腕はまだ血が滲んでいる。乙女は包帯をきつく縛った。直政が密かに顔を顰めたのを見逃さない乙女ではなかったが、見なかったふりをする。
「そうは言っても、元々武田に属していた人たちを相手にしているわけでしょう? 私としては、やっぱり心配しちゃうものですよ」
直政は、家康の命で武田の遺した兵たちを率いる立場となった。彼がただの鍛錬でもこうして多くの傷を負うのは、精強な兵を纏めあげるために他ならない。上に立つものが、直政自身が力を示さなければ、彼らは徳川に対する信用をも失うかもしれない。
しかし、武人ではない乙女には、その辺の細かな機微は正確に理解することができないのだった。最も、直政もそんなことで乙女の言動に腹を立てることもない。
「だからこそ、私は彼らに見合う将になるために、彼らの上に立つために戦わなければいけない。……あなたも分かるでしょう」
「立場そのものは真逆ですけど、ね」
「過去の事をとやかく言う者は何処にでもいます。武士の風上にも置けません」
乙女は徳川の軍師、本多正信の傍に従事している。彼の元で、乙女は軍を動かすための大局観を身につけようとしていた。個人の武働きではなく、より広い視点から戦場を、物事を見ようとしているのだ。その点で直政と乙女は真逆と言っていい。
しかし、それだけではない。
彼は昔、三河の一向一揆に加担し家康に刃を向けたという過去がある。乙女はその当時を詳しくは知らない。直政もまた、伝聞でしか知らない話だ。だが裏切り者を殺さずに、追放という処分でその行為を許した家康の懐深さとは反対に、正信自身の悪評は未だに消えない。
直政もまた、率いるのはかつて徳川と敵対した武田の遺臣である。彼らに対する禍根はまだ徳川家中から消え去ったとは言えない。
乙女は自身の上司に、直政は部下に、大小の差はあれど何らかの問題を抱えている。その点もまた、同じであり反対の立場となる。
「ともかく。直政殿は自分の体のことを何とも思っていない節がありますよね。少しは体を労わってください」
捲っていた袖を、乙女は下ろしてあげた。腕の傷は隠すことができても、顔のそれを完全に隠すことはできない。それが彼の本分だとは分かっていても、余計な怪我を負っている姿を見るのは心苦しいものである。
「……ですが、俺はこうでもしないと、」
「直政殿に傷を負わせないようにするのも、私の仕事なんですからね」
「俺は自分がしたくてやっているだけですから」
「私のこの気持ちが伝わりませんかねえ」
成り行きで乙女は智を振るうことを生業とすることになった。だがその奥底にあるのは、戦いを無くしたいという思いである。戦いが無くなれば、直政がこうして背負う必要のない傷を付けて帰ってくることもないのだ、と乙女は思っている。
「……手当て、礼を言います。それでは俺は、まだまだやらなければならないことがあるので」
乙女は直政を見送ってから、散らばったままの書状を集め始めた。
彼のように精強なら、戦場で彼を守れたかもしれないと思うと乙女は惜しくなる。戦場ではない場所から、彼を守るには何をすれば良いのか。乙女はそれを導き出そうとしている。家康と秀吉の決戦の日は近いのだ。避けられるものではないだろう。
戦いの火蓋が切って落とされる。秀吉が率いる軍勢にどう立ち向かうべきか。羽黒の戦いでは勝利を収めたものの、まだ決戦の行方は分からない。秀吉軍がそうしているのと同様に、乙女たちもこの城……小牧山城の守りを固めようとしていた。具体的には、土塁を築くことである。
直政も、自らが率先して土を堀り、堆い土の壁を積み重ねていた。戦場で彼が一番槍を望んでいるように、ここでもまたその姿勢を顕にしている。乙女は遠くからその様子を眺め、天幕の中へと入った。
城の図から、ここが敵に攻められるのではないかと提言したのは乙女である。その言葉をきっかけにして、直政たちは動いた。
人の上に立つということの責任の重さを分かっていたつもりではあるが、いざこうなると荷が重い。とはいえ、こうした圧というものを、正信も、直政も常に感じていたのである。
乙女は、図面を眺めながら握り飯を頬張った。
「……乙女殿」
見上げると、そこには陣幕をくぐってやって来た直政がいた。心做しか、機嫌が悪そうである。しかし、彼の表情よりももっと大きな彼のことが乙女を注目させた。
彼の顔も、露出した手足も泥だらけなのである。腕の包帯はしていないから、あの時の傷は治ったのだろう。傷の代わりに今度は泥を背負ってきた彼の様子がおかしくて、乙女は不覚にも笑ってしまった。それがまた、直政の表情をさらに険しいものにする。
「ごめんなさい。真剣に働く人を笑うなど……直政殿、何か御用ですか?」
「御用も何も。皆が必死に動いているのに、あなたは全く……ダメすぎます」
乙女は直政の言葉を気にせずに、再び握り飯を囓った。別に、乙女も仕事をさぼっているわけではない。これでも、やるべき事は弁えているはずである。
「まあ、そう怒らないで。私は力仕事じゃなくて、頭を使うのが仕事ですから。……おむすび、直政殿も食べますか? 手ぬぐいもこちらにありますし」
「……」
「まだ、怒ってます? もう、直政殿は働きすぎですよ。皆も適当に休憩しているでしょう。ですから、ほら」
「……」
直政は、無言で乙女の差し出した手ぬぐいを取り、手と顔を拭った。
「確かに、乙女殿も働いていないわけではない。それは俺も分かっています、ですが……」
「まだ何か、不満でも?」
乙女が握り飯を差し出すと、直政はやはり何も言わずに受け取った。重労働で腹が減っていたのか、直政は急いで食べ出す。
「私は、戦場でこそ、戦ってこそこの力を示さないといけないというのに……」
「手に余る仕事だと、言いたいのですか? そう慌てずとも、この後の戦いであなたが活躍するってことくらい、私も分かりますよ」
「……あなたに当たっても仕方がない、それは分かっています」
暫しの間、両者は無言だった。乙女も、直政の焦りは分かる。ずっと焦燥感に駆られる彼の姿を見てきた。しかし、乙女はどちらかと言うと……いや、比べるまでもなく、傷だらけの彼よりも泥だらけの彼のほうが、ずっと格好よく思えるのだ。
「直政殿。あなたは泥だらけの姿を笑われるのが嫌かもしれないけれど。忘れないで。私は、その姿のほうが……戦場で戦う姿よりも、ずっと好きよ」
彼のその姿に、もしもの姿を見た。彼が武士でなかったら、一介の百姓であったら。そして、彼の近くに自分がいるなら。こうして泥だらけになって働く彼の傍に、自分が居るのかもしれない。乙女はもしそうだったなら、こうやって一人小綺麗な格好でいるのはあまりにも甘えが過ぎるなと思った。それならば、一緒に泥だらけになるべきだろう。
そして直政の泥だらけの姿を見て笑ってしまったのは、そんなあるはずのない世界を垣間見てしまったからだ。
直政は乙女の言葉を受けてもまだ納得がいかなそうだったが、もう不満を洩らすことはなかった。
「……あなたにもしものことがないように務めるのも俺の働きだということを、どうかお忘れなく」
それだけを言って、いつの間にか食べ終わっていた直政は出ていこうとする。
それはそうなんだけど、と思いながら乙女はその後ろ姿を……黙って見ているわけにはいかなかった。
「直政殿!」
「なんですか」
「私も手伝いましょう」
「……なぜ急に、今になって」
「戦いの犠牲を、あなたの傷を増やさないようにするのが私。戦いで、私を害するなんてことにならないようにするのが直政殿。じゃあ、今は直政殿も私も、傷の代わりに泥に塗れるのが道理でしょう」
「好きにしてください。俺は手伝いませんよ」
そうは言っても、何だかんだで手を差し伸べてくれそうな気がすると乙女は思うが、わざと指摘はしない。
「さあ、声出していきましょうよ」
天幕の外では皆が己の身分に関わらず声を出し、歌を歌い、自らを鼓舞させて作業を進めている。
いつか直政と畑でも耕して穏やかに暮らしたいものだと乙女は思った。きっと、この戦いの後には平穏が待っている。戦う姿と同じくらい、そんな姿が似合う男だと未だ泥が付いたままの後ろ姿が物語っていた。
(20260225)