愛が向かう方角
乙女には夫もいた。子もいた。だが夫は戦で亡くなり、子は幼く家督を継げなかった。

子を自らの手で育てる傍ら、乙女は下働きをしていた。そこで瀬名に見出されたことで、乙女の人生は好転した。瀬名は命の恩人と言っていい。己と子の命が永らえるきっかけになったのは彼女のおかげだ。

だから、家康の側室となることも辛いことではなく、むしろ喜ばしいことだった。愛があるとかないとかそんなことは問題ではなく、側室としての務めを果たすことが瀬名への恩返しとなると乙女は思った。

だが、瀬名はもういない。乙女が知っているのは、彼女が武田と内通していたということだ。だから家康は彼女を自害させたのだと。

浅ましい、と家康に対して嫌悪の念を抱いた。

「私はあなたを恨みます。瀬名様こそ、この家に居なくてはならない人だったというのに」

乙女は産まれて間もない赤子を抱いていた。家康との子である。乙女が抱くこの赤子が家康の後を継ぐのではないかとの話も浮上するようになっており、瀬名の死を喜んでいるのではないかと乙女を謗る声もあった。

それも含めて、全てがこの男の招いたことなのどと乙女は思っている。そう思わなければ、瀬名があまりにも不憫なのだ。

「恨むならば、恨めばよい。だが私は、そなたを離すことはできない」

「この子が信康殿の代わりの駒となるからですか」

家康は眉間に皺を寄せて、首を振った。意地の悪いことを言っているという自覚が乙女にはある。家康を言い負かして、何になるというのか。不毛である。そうした所で瀬名のためにはならない。しかし、家康に対する気持ちを簡単に消すこともまたできなかった。

「……瀬名から託されたそなたを、子供たちを、私は何があっても切り捨てることなどできぬ。あのような悲劇を繰り返さぬためにも」

「瀬名様が……?」

「瀬名がそなたに目をかけていたことは、そなた自身が一番知っているだろう。私は彼女に報いたいのだ」

瀬名は最後に何を遺したのだろうか。瀬名は、乙女の前では弱音を吐かなかった。彼女が死に追いやられた本当の理由も、未だに分からないままなのだ。なぜ家康が知っていて、自分が分からないものなのかと乙女は苛立つ。彼女の愛を享受できる家康が腹立たしい。

しかし、それは本当に家康に対しての嫉妬なのだろうか。

「私に愛がなくとも、ですか」

家康が今もそうしているように、瀬名もまた一番に愛していたのは家康その人なのだ。

乙女は何者でもない。あの二人に比べれば、乙女は誰からの愛も向けられていないように感じる。愛してくれた夫は既に亡く、乙女もまた家康のことを愛しているとは言い難い。しかし、乙女はそれを無意識に求めてしまっていた。

浅ましいのは自分ではないか、と乙女は身震いした。

「……どう思われようと、私は立ち止まるわけにはいかぬのだ。ただ前に進むのみ」

それから暫くの時が経ち、乙女を謗る声は次第に消えていった。家康の仕業であると、乙女は彼が何も言わずとも察することができた。

そしてその頃、乙女は瀬名の真実を知った。彼女は徳川を裏切っていなかった。家康を謀反の疑いから守るためには、自分が命を散らすしかなかったのだと。家康の死を防ぐためには、自分こそが全ての黒幕であり、信康を唆し武田を動かそうとしたのだと言い切るほかなかった。それはどれほど辛い決断だっただろう。

乙女にはできないと思った。それほどまでの覚悟はない。その点で、瀬名と家康の愛の深さを乙女は思い知った。









瀬名は、己の命の使い方というものを心得ていた。次第に乙女はそう感じるようになった。

そして、家康もまた彼女の覚悟を受け入れることができたからこそ、その命の扱い方をよく知ることができたのだろう。

恨みは消えない。だがそれは意地を張っているだけである。家康のことを敬う気持ちがある。妻として支えようと強く思ってしまっているのだ。

彼は今もまだ瀬名のことを愛している。こんなに一途に、想った女を愛する男など、この世にどれだけいるというのだろうか! 乙女は既に亡くなった夫の声を思い出すことができなかった。

「母上」

長丸が苦しげに息を吐く乙女に近寄った。今やこの子は、名実ともに家康の後を継ぐ立場となった。

乙女からすれば、それは誇らしいことである。しかし、まだ元服すらしていない彼の成長を乙女は見届けることができなかった。病が体を蝕んでいる。もう、長くはない。それは医者の見立てでもあるし、乙女もそう思っている。

家康の為に、命を掛けることができなかった。捨てることができなかった。それだけが乙女の心残りであった。女は男のようには戦えない。その代わりに、家中で戦うのである。夫のために戦うのである。それを果たせずに死ぬことが乙女をさらに気落ちさせている。最早回復することはできぬだろうという程に。

「……私は、あなたを遺していくことが、つらい」

長丸は、あまり子どもらしさのない子どもだった。今も乙女を心配する素振りは見せているものの、この母親の姿を見ても、必要以上に取り乱すことは一度もなかった。

「母上……私が、母上の想いを継ぎましょう」

「想い……?」

「母上の無念は、決して忘れません。父上は、自分の妻と子を見殺しにしたのだと」

「……長丸。殿は、家康様は……」

その後の言葉を紡ぐことができなかった。病のせいだけではない苦しみがそこにはあった。

乙女が家康をはっきりと恨むと言い放ったのは。彼が物心つく遥か昔の話である。この子をこう育ててしまったのは自分だ、と乙女は己を責めたくなった。

それでも、この子もまた、真実を知る時はきっと来るはずだ。かつての自分がそうであったように。そして家康は、妻にそう思われていたとしてもそれを理由に疎んじることは一度もなかった。それもまた愛だったのだ。

乙女は目を閉じた。やがて長丸は母の異変を悟ったのか、人を呼びに部屋を出ていった。

何人かの、こちらに向かってくるような足音が聞こえる。

家康の妻として過ごしたこの時は、そして瀬名が亡くなってからの長い長い時は、きっと幸せだった。乙女がそう思うように、家康にとってもそうであったのだとま乙女は信じたかった。


(20260226)
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