夢見たものは
焼け落ちた明智城が果たしてどんな姿だったのか、次第にその記憶は薄れつつある。それは薄情だからではなくて、悲しい記憶を消し去りたいと思うがゆえのものなのかもしれない。それでも城が落ちた際の光秀の慟哭は未だはっきりと乙女の耳に残ったまま、離れない。
よくもここまで生き延びることができたものだ
、と乙女はまだ何者でもない自分と光秀を評価していた。越前に辿り着くまでの放浪生活は苦しいことも多かったが、それでも光秀と一緒であることの喜びのほうが大きいものだった。
故郷が彼方にある悲しみさえも吹き飛ばしてくれるほどに。
「……その、すまないと思っている」
一応は寄る辺を手に入れた光秀たちだったが、それでも彼は毎日忙しなく働いている。帰ってきて真っ先に言う言葉がこれだったから、乙女は少し吹き出してしまった。
乙女からすれば、こういう時は素直に帰ったぞ、などと言えばよいと思うのである。
「あら、何がです?」
「義景様からの扶持を断ってしまったがために、このような……」
「いいんです。住めるところがあるだけよいではありませんか」
「いや。それはそうなのだが……お前のことを思っていなかったのも同然だ」
義景からは、それなりの邸をあてがってもらえるという話があったらしい。だが、光秀はそれを固辞した。その結果、今乙女がいるのはぼろぼろの家だ。冷たい風は入ってくるし、扉の立て付けも悪い。
「それでも、家があるだけで十分ですよ。ここに来るまでのことを思えば。それに、ゆっくり治していけばここだって立派になっていきます。……ふふ、そうだ、これを使ってください」
「これは……もしや、お前が工面したのか?」
「はい。どうしても、光秀様の力になりたかったから。光秀様がいない間に、用意したものです」
光秀は純真な男だ。素直で分かりやすく、この醜き世の中であっても清く生きようとしている。放浪生活で暮らしが苦しいからという理由で、他人から搾取するようなこともしない。必要以上の報酬も貰おうとしない。そんな光秀だからこそ、乙女は故郷から持ってきた数少ない持ち物を質に入れることができたのだ。
置いてくることもできた。放浪中に捨て置くこともできた。そうしなかったのは、捨てるのが惜しかったからではない。この時を待っていたからだ。
「俺は何と弱く情けない男だろうか。お前に、妻にそのような苦労をさせるなど」
光秀は乙女から差し出された銭を手に取った。手に持ったそれと乙女を交互に見つめる。座ったままの乙女が見上げる長身のはずの光秀が、不思議と今は小さく見えた。
「そういう光秀様だからこそ、私は着いていこうと思ったのですよ。いつまでも、その弱さを忘れないでいて。弱さこそ愛おしいものだから」
破れたままの障子から風が吹き込んでくる。乙女が自分の座っている隣に手招きすると、光秀はふっと笑ってそれに従った。
乙女は単純に隣でその温もりを感じたかったのだが、どうやら光秀は乙女が思っていたよりも感極まっているらしい。銭を懐にしまい、両の掌で乙女の掌を掴み、包み込む。
「乙女」
「はい」
「俺は……」
焦れったい。乙女は光秀が一体何をしようと思っているのか、分かる。それでも行動に移せずにいるこの男の弱さから、やはり目が離せないと乙女は感じるのだ。
握る彼の手を振り切る。驚いた光秀の不意を突いて、乙女は体を伸ばして肩を掴み、優しく口付けた。
両の手が自由になった光秀は驚き、されるがままだったが、次第に余裕を取り戻し乙女の背を包み込むようにして抱く。
自分から仕掛けたことといえ。なだれ込むようにして、この寂れた家の中で二人の時が進む。乙女はどこかで、この場に利三が帰ってきませんように、と願ってしまうのだった。
光秀は弱き者の声を決して聞き逃さない。それは妻に対しても同様だった。
「光秀様。どうしてここに? 今日は遅いお帰りかと思っておりましたのに」
「体調が優れないと聞いてから、やはりいても経ってもいられなくてな。切り上げて早く帰ってきた。医者の見立ては?」
「……子が、宿りました。あなたと私のお子が」
その言葉を聞いた光秀の顔が、次第に明るくなっていく。乙女も釣られて、くすくすと肩を震わせた。
「よくやってくれた、ああ……」
感激のあまり膝から崩れ落ちるようにして乙女の傍に駆け寄る光秀を見て、乙女は笑いが抑えられなくなった。大変なのはこれからなのだ。
けれど、光秀がここまで己の全てをさらけ出すような笑みを見せたのは一体いつ振りだろうか。
そして同じように、乙女が屈託のない朗らかな表情を表すことができたのも久方ぶりだった。城が焼け落ち延びてからの笑顔は決して偽りではない。しかし、今の乙女は光秀と結ばれたときのように……いや、それ以上に喜びに満ちている。
例え貧しくとも、何事にも変え難い幸せがここにはあった。
「この命を守っていきましょう、光秀様」
「ああ。……この子の為にも、俺はさらに励まねば。いつか、俺たちの生まれ故郷も見せてやりたい」
故郷を思い出すといつも浮かぶのは、光秀の悲痛な叫び声だった。
乙女は腹を撫でる。その記憶が塗り変わる日を乙女は心待ちにしようと思った。再び光秀の表情を見つめる。その兆しが、既に見えていた。
(20260227)