春を待つ手紙
乙女が景勝の妻となってから約三年が過ぎた。景勝という人は無口で、必要以上のことは決して話さない。乙女も、嫁いだ当初は知らぬ間に彼を怒らせてしまったのではないかとびくびくしながらその顔色を伺ったものだった。

それが少しずつ変化してきたのは、ある日乙女が兄である勝頼から送られてきた手紙を読んでいるときだった。





乙女が越後に無事に向かったかどうかを心配する内容が書かれた手紙が、初めてのものだった。それを読んだ乙女は、兄と生まれ故郷が恋しくて恋しくて仕方がなかった。元々、望むがままの婚礼ではない。上杉と武田の同盟の証として、乙女が景勝の元に嫁いだのだった。それは人質のようなものである。もし勝頼が上杉との同盟を破るような真似をすれば、乙女の命はないだろう。そして、乙女に何かが起こればこの同盟は破綻することに繋がってしまうかもしれない。だからこそ勝頼も乙女のことを案じているのだ。

心優しい、自慢の兄である。

だがそんな身の上話を景勝に話したところで不興を買ってしまうかもしれない。乙女は兄のことを景勝の前では話さなかった。

だが、乙女が偶然兄から送られてきた、その身を気遣う手紙を読んでいる姿を景勝は目撃してしまった。

「……その、手紙は」

景勝は無口だが、それは特段話したくないからという理由ではない。感情表現が苦手で、自らの思いをどんな言葉として周囲の人に表すのかという作業に時間をかけるきらいがあるからだった。それが分かったのは、嫁いでからまだ日も浅い頃だった。しかし、それでも景勝という男への接し方というものを、乙女はあまり知らなかった。

「兄から送られてきたものです。……まったく、いつまでも妹離れができていないようなのです」

「……勝頼殿が」

「はい。困ってしまいますよね。私はもう、こうやって心配されるような歳でもないというのに」

乙女は苦笑いした。しかし、景勝は乙女のように笑うことはなかった。

「……妹というものは。……いつまでも、可愛いものだ」

景勝はそれから、乙女が勝頼からの手紙を読んでいても何も言うことはなかった。武田当主である彼から、この地でどう動くか指図はされていないのかと疑うこともできたはずである。手紙を、乙女がいない間に燃やすこともできたはずである。だが景勝は寧ろ、乙女が手紙を読んでいる姿に頬を綻ばせているようだった。妻という立場から見た贔屓目のものではあったが、乙女は景勝のこのをそう捉えたのだった。

だが、一つ心残りもあった。乙女がここに来たのは同盟の証ではあるが、それが結ばれたきっかけとなったのは上杉の後継者争いだった。

その時景勝に破れ自害した景虎の妻は、景勝の妹だった。この妹という何気ない言葉に込められた意味を、乙女は少しだけ理解できていると思っている。とはいえ、自分から言い出す程のことでもない。

景勝と景虎の争いはそれだけに留まらずに、乙女が嫁いだように周辺諸国にも大きな影響をおよぼしている。例えば、勝頼が景勝に肩入れしたことで武田と北条は手を切ることとなった。

それに、織田も益々力を伸ばしている。ただでさえ長篠で武田は甚大な被害を被ったのだ。いつ武田が、兄がどうなるのか分かったものではない。景勝が妹と義弟を失ったように。

それからだった。乙女はこの仏頂面で時に家臣からも恐れられる夫に、兄と同じように心を開きはじめたのだった。





1582年。いよいよ武田の命運が尽きた。景勝は普段と変わらぬその厳格な表情を緩めることなく部屋に入ってきた。だが、乙女は彼の表情のごくわずかな差異を感じ取ることができていた。毎日過ごしているのだから、当たり前のこととなっていた。

何を言われるのか、ある程度の察しは簡単につく。焼き払った新府城を出たらしい兄のことだ。覚悟は初めからできていた。あの日、甲斐を後にした日が兄と話した最後の一日となったのだ。

「……勝頼殿が」

「はい」

乙女は背中を伸ばしたまま、瞬き一つしない。景勝はゆっくりと彼女の元に向かう。向かいあって、景勝も腰を下ろした。景勝は上背がある。座ったときも、当然彼女より高い位置にこうべがある。それでも乙女は首を動かさずにじっとしている。

「家臣に裏切られ、やむなく天目山で自刃した、と」

「……はい」

「……わしも、無念だ」

乙女が瞳を景勝に向けようとしなかったのは、兄を想って涙を流す自分自身に耐えられなかったからだ。

そうなる予感はあった。だが覚悟しても、しきれない部分があった。

景勝は己の妹が自害したと聞いて、何を感じたのだろうか。乙女は自分が兄の代わりになれるものならばなりたかったとさえ思う。最後に彼から送られてきた手紙には、己のことを案じる言葉のみが綴られていた。兄は何を考えて自身の腹を斬ったというのか。乙女はずっと声を出さずにいる。兄の最期など想像したくないというのに、嫌でも頭に浮かんでしまう。どれだけ辛かったことだろう、なぜ私はそこにいないのだろうと。

「私、私は……」

上杉景勝の妻なのだ。上杉の人間なのだ。もう武田は、自分の家ではないのだ。そう言いたかった。せめてもの救いは景勝が居ることなのだと言いたかった。嫁いでいなければ、天目山で共に自害していたかもしれない。裏切った小山田たちに殺されていたかもしれない。それに、三年という時はそう言うには十分の長さだった。だが乙女は、何かを言えば言うほど声が掠れ、体が水を被ったように震えてしまうような気がしたのだった。

「お前は、わしの妻だ」

そうだ。景勝の言う通りだ。その言葉に歯向かう気持ちは、乙女に一切ない。景勝は不器用で人に誤解されることも多いが、彼の言動は乙女が未だ生家に囚われていることを非難するものではない。景勝は、女が夫に、男に殉じることの辛さをよく知っている。これは、乙女を守りたいがための言動である。口数が少ないほかに、乙女の零れる涙を拭わないのもただ僅かな勇気だけが足りないだけなのだろう。だがそれでも、景勝は妻を大切にしようと、彼なりに行動を起こそうとしているのだと乙女には伝わってきた。

「はい。……私は、私はここにいます。……でも……本当は、兄に会いたい、そう思ってしまうのです」

乙女から滴る雫が、膝の上に硬く握りしめている拳に落ちた。

「わしも、同じだ。散っていった者、散らせてしまった者にもう一度会いたいと……わしも、考える日がある」

恐らく、彼も実の妹のことを思い出していたのだろう。その悲しみは、時が経っても癒えることはないのだ。

「……はい」

饒舌な彼は珍しい。その奥底にある熱が、乙女の心も熱くした。

「勝頼殿の忍びが、これを……」

景勝は懐から書状を出した。それをゆるりと開いて、乙女に丁重に差し出した。乙女の胸がどきりとした。

勝頼の字であることは明らかであった。

「勝頼殿は、お前がいつまでも健やかでいることを願っている」

景勝が言う通り、勝頼はあのような状況にあってもなお、乙女の心身を相変わらず案じていた。そして、決して自らの後を追うという愚かなことはしないように、という文言で締めくくられている。彼はいつまでも景勝と仲睦まじく過ごせるようにと願っていた。

妹を政略の道具として使うことへの負い目もあったのだろう。せめてもの祈りがあった。

「兄上が、そうまでして私を……ああ、」

「兄が妹を思う胸の内は……いつまでも、変わらぬ」

いつまでも妹は可愛いものだと景勝はかつて言った。勝頼もそうであった。

「私が、残さねばならないのですね、兄上の思いを、生き延びた者として。……それは私だけではできません。景勝様と共に為すのですね」

「わしは、お前を誇りに思う。……わしの妻として。生き残った者が背負う責務を、共に背負う者として」

そういえば景勝は、一度も自分のことを武田だとか上杉だとかという物差しで表したことはなかったな、と乙女は思った。

上杉の義というものが何たるものか、乙女も知らぬ身分ではない。だが景勝の前では家のことは何も関係がなく、ただ一人の人間でいられるような気がするのだ。

そうして、そんな一見ぎこちない感情を向ける景勝のことを、乙女は慕わしく思うことができる。顔も知らぬままに嫁いだものだったが、景勝を選んだ勝頼の慧眼は確かなものだった。

乙女はやっと、石のように動かさずにいた首を傾け、景勝の顔を見た。それは、妹ではなく妻を見る男の顔をしていた。乙女もまた、そうでありたいと思った。

(20260228)

mainへ
topへ