血の道を歩く
あの女はもう気が触れているから。近頃の乙女の様子を仲間に尋ねた一氏は、そう返されてしまった。

構うだけ無駄、らしい。彼女をそう評しているのは一人だけではない。尋ねる以前から、一氏さえそう思うようになってきている。しかし、どうしても放っておくことはできなかった。

先の戦で、乙女の夫は亡くなった。乙女もその戦いにいた。彼はその目の前で討たれたのだという。

一氏には、そういった機微があまり分からない。彼女の夫は眼中になかった。あるのは、彼女の姿だけである。

だから、彼女の気が触れている理由が気に食わなかった。夫のことを未だ思うからだという単純なことに納得がいかないでいるのだ。

しかし、だからといって彼女の様子を忍び見るには至らないのは、一氏の持つ些細な弱さだった。彼女のことを想っているからこそ、彼女の姿をこの目で見るのが怖いのだ。

怖い、この俺が。一氏は深く自嘲する。乙女という女と自分が見合わないということを分かっていた。だからこうして身を引いたのではないか。それとは裏腹に、彼女を元気づけられるのは自分だけだという感情もある。一氏は驕っていた。だが単なる驕りではない。やはり彼女に会わねばならないと思っている。自身の、彼女へのこの積もり続けた感情を押し付けるのではない。そう言い聞かせながらも、この期に及んで死んだ男よりも俺のほうがあいつに相応しいのだと一氏は心のどこかに泥水をぶちまけている。それらが、胸の内で回り続けている。



忍びとしての任務を済ませ、乙女の屋敷へと一氏は向かった。乙女は誰とも会いたがらないという。しかし、そんな下人を突っぱねて一氏は彼女の元へと足を踏み入れた。

足音を立てないのは一氏の癖だった。元音を立てずに障子を開けることもだ。

一氏が来たことに気づかない乙女は、血溜りが染み付いたままの陣羽織をこの部屋の中で纏っていた。光の入らない部屋である。その中で彼女は夫の形見を身につけている。赤くなってしまった陣羽織は一氏にも見覚えがある。

それを目にして、一氏は冷静さを失いかけた。剥ぎ取ってしまいたいくらいだ。その一瞬で、彼女が嫁ぐと自らに告げたとき、二人で並んで歩く姿、戦う姿を思い出した。その隣に立つ男が、彼女の愛した男が、この場にいるかのような錯覚がした。

「……乙女」

怒りを抑えて一氏は言った。叶わなかった彼女への恋慕の情が溢れそうになる。随分と卑怯なやり方だ。だが卑怯で何が悪い? 忍びとして汚いことも随分やってきたのだ! 一氏はやはり、自らのこの行いを自らの手で正当化しようとしている。

「なんで、一氏が」

ゆっくりと振り返った乙女はやつれていた。ずっと泣いていたのか目は潤み腫れている。血濡れの羽織りが異様だった。

「俺が……代わりになれるものならばと」

無意識に、一氏は怖気付いていた。それほどまでに彼女の様子は、最後に見た日とは大きく異なっていた。気が触れていると彼女を称した言葉は間違いではなかったのだろう。

「なれるはずがない。長可さまは私とともにいるの。私は長可さまとひとつになっているの、あの人は私とひとつになりたいんだ、」

「おい、お前……!」

乙女は懐から取り出した短刀を自らの左腕に向かって引いた。皮膚が裂け、瞬く間に血が流れ出る。そして陣羽織に、ボタボタと落ちていく。

一氏はそれを見届けてからやっと乙女の腕を掴んだ。何もできないほどに、彼女に圧倒されていた。普段の一氏ならばこの行為を止めることくらい造作のないはずだった。それでも腕を思い切り掴んで捻り、刀を落として止めることができたのは、他にも幾つもの傷が彼女の腕にあるのを見てしまってからだった。

彼女の行為に対する衝撃や、その男への消えない未練から目を背けたいのではなく。この彼女の血と混ざり合うに見合うのは、己なのだと一氏は思った。

秀吉に仕え初めて彼女を見た時から、 目が離せないでいた。親しくはしてきた。しかしそれは忍びには似合わないと、本当の気持ちには蓋をし続けていた。しかし、何事にも限界がある。自分ならば、彼女にこのような思いは初めからさせなかったというのに! 一氏の激情が燃え盛る。

「離して……!」

左腕から血を流しながら、再び短刀を掴もうとする乙女を制止して、彼女がその短刀を握った。

「手荒だが、覚悟してもらう」

短刀を振りかざした。

苦痛に顔を歪めたのは、一氏であった。

「一氏!……なんてことを、」

一氏が振り下ろした先。それは自らの腕だった。乙女がさあっと顔を青くして、一氏の体にしがみついた。その時、一氏の腕から流れた血が乙女の陣羽織に落ちる。二人の血が重なり合った。

「すまねえな、俺の血で汚しちまって……俺は、嫉妬してんだよ。幻滅するか?」

その男の痕跡が分からなくなるまで、俺の血で染めてやりたいのだ。一氏は痛みを堪えながら、我に返ったようにこの光景を呆然として見つめる乙女を見やった。

一氏は、彼女の目に光が宿ったように感じた。

「いいえ……でも、一氏が」

「俺の心配はいらねえよ。……そうだな。また、気が向けば来る」

それ以上のことをする気は、今の一氏にはなかった。急に肩の力が抜けてしまったのは、腕の痛みから来るものではなく、元来の彼女の姿を少しでも見られたことによる安堵からだった。ここまで来れば、慌てずともよいと少しだけ日和ってしまった。

血を止めることもせずに部屋を出ようとする一氏の服の裾を乙女は掴む。彼女も同じ痛みを抱えたままだった。

「帰らないで、一氏」

「……」

「せめて、止血しないと。……私のためなのは、分かってるから」

「……」

血とともに、激情が失われつつあった。一氏は、己のした事が自己満足に過ぎないと知っている。こんな方法で彼女の心を奪うのはやはり間違っている。しかし、彼女を振り切ることはできなかった。

「……一氏のおかげで、私は前を見る決心が付きました。ありがとう」

乙女は大切にしていた形見の陣羽織を脱ぎ捨て、適当な布を一氏に差し出した。

一氏は無言で受け取るしかできなかった。彼女の顔をまともに見ることもできなくて、一氏は背を向けた。

「これはもう、燃やします。その……一氏」

「何だ」

「また来てくれると……嬉しい、かな」

「何度でも来てやるよ。お前は……放っておけない」

「ありがとね。待ってるから」

その後、一氏は黙って部屋を出ていった。

彼女は、奪って手に入れるものではない。愛しき人である。ちっぽけな嫉妬や野心でどうにかなる人ではない。早く自分のものにしたいなどと、思えるような存在ではない。

しかし、不思議と怒りや焦りはなかった。 またとは言わず、明日にでも訪れようと一氏は思った。彼女が他人の血を流すような行いをすることも、自分の血を流すこともないような世の中が待ち遠しくなった。忍びにはやはり、似合わない願いだった。

(20260321)
mainへ
topへ