殉死した日
「士官が決まったらしいね」
乙女は隣にいる高虎の顔を見ずに言った。久方ぶりの会話にしては、随分と淡白だった。高虎はそんな彼女の態度を不愉快に思うほど、彼女という人間に興味がある訳でもない。……と、乙女は思っている。事実、高虎の表情もまた冷めている。しかし、それは乙女に対してではなく、自分の未来に対するものかもしれない。
「……また次も、同じかもしれんぞ」
「あら。そうかしらね」
主君との折り合いが悪くなり出奔したと乙女は聞いている。それ以来の会話だ。これで元のように、乙女と高虎の立場は近しいものになった。
理想が高すぎる男なのだ、と乙女は思う。あの城で自害した彼を今でも想うあまりに、自らの理想を崩すことができていないのだ。
乙女とて、小谷落城のことは今でもはっきりと覚えている。だがそれに固執しても、何も進まない。乙女は今や、主君を自刃せしめた織田家に仕えている。高虎とてそうだ。上手く生きるしか、自分たちの道は残されていない。
「俺は、俺を正当に評価する人間でないと仕えんぞ」
「そんなだから何回も主君を変えてるんでしょ。あなたの悪い噂ばかり聞こえてくるわ」
そんな中で自らの尊厳を重んじる高虎の考えを、乙女は理解することができなかった。しかし。
「言いたいやつには言わせておけ」
「……まあ、秀長さまなら大丈夫だと思うけど」
「どうだか」
羽柴秀長という男なら、彼を重宝するだろうという予感が乙女にはある。高虎の居場所は彼の元にあるのだと、彼自身が気づく日が来るという、根拠のない自信を乙女は持っていた。
「秀長さまに気にいられてるんでしょ」
「……急になんだ」
高虎が乙女に視線を向けた。口ぶりの割に、その表情は明るい。乙女の予想通りだ。
「何にも。ただ、良かったなあって」
反して、乙女の面持ちは暗い。それを表には出すまいと努めているが、高虎は何かに気づいたようだった。
「あんたも秀長様に仕えないか」
「私が? そんなの無理。私はそこそこ満足してるから」
「秀長さまはあの方とは違う。お前もそれが分かるはずだ」
乙女もまた、あれから主君を何度か変えることとなった。主君が死んだことがきっかけで出奔したり、高虎と同じように彼女にも色々なことがある。
そして今は秀長の兄、秀吉に仕える身である。秀吉のことを高虎は今でも恨んでいると言っていい。乙女も秀吉には思うところがある。だがそれは高虎ほどではない。
加えて、乙女もまた、理想が高いと言える部分があった。それを近頃、乙女はよく自覚している。
「私は理想が高いから、秀長さまだったとしてもきっと満足できないの。それに高虎みたいな人が隣にいたら、多分そこから前には進めない」
「俺と秀長様はいい関係を築けると言ったのはあんただろう」
「こんなに相性がいいって思わなかったし」
「俺が隣にいても、あんたには何の問題もないだろう」
「高虎にはきっと、私が死ぬまで分からないわ」
高虎は乙女に、格段の興味を抱くことはない。彼は主君のことだけを見ている。その背中を見ている。
乙女は違う。高虎の背中を追い求めている。そして、彼が振り向くことはない。乙女は高虎のことを案じ、彼が懸命に生き永らえる姿を見てきた。それだけだった。だが次第に魅せられていたのだ。その男の生き様に。
同じような道を辿っているのに、彼には追いつけない。それは嫉妬でも何でもなく、ただ対等に居たいという思いなのだと乙女は思う。そして端的に言って、乙女は彼の主君にこそ嫉妬しているのだ。高虎の出世をただ後ろで見るしかできない。秀長こそ、高虎を間近で見届けることができる。彼の一生昇華することはないであろう長政への思いも受け入れている。乙女は、自分にはできないことだと分かる。そうであるから、秀長に仕えるわけにはいかないのだ。きっと、彼の元だとしても自分は高虎の隣に並ぶことはできないだろうから。
「おかしな奴だ」
「高虎。あなたは、もっと成長できる気がするわ。それこそ、長政様と同じように……」
高虎は、そんなわけないだろうと言わんばかりに呆れた顔を見せた。
「秀長さまがあなたを導いているんだわ」
乙女は、到底自分の辿り着ける域ではないと思った。いっそのこと、戦場で生きることを辞めてしまおうかと思うくらいには。
「……出家するって、本当なの」
秀長が亡くなった。それは早い死だった。高虎の悲しみを乙女は分かってやれない。その男が高虎を高みに登らせた。
彼をそこに導くのは自分であれば。未だその思いは消えなかった。
それだけならば良かった。秀長の後を継いだ秀保も若くして死に、高虎は自らの生きる意味を己に問うようになった。
「もう武士でいる意味もない。あんたにも随分と世話になったな」
「世話になったなんて……私は何も、」
「あんたが俺の背中を押した。お前が居なければ俺は秀長様を信じなかったかもしれん」
「……そう、なのかしらね」
高虎は、自分を見ていない。見ているのは己を通した先にある主君のみだ。乙女には痛いほどそれが伝わってきた。
高虎は高野に登るらしい。もう二度と、彼と会うことはないだろう。
彼が自分の顔を見たいと願うことは、有り得ないのだ。だからこの末路が示されている。乙女は冷淡な事実を突きつけられていた。
「私も、出家してみようかしら」
「なんだそれは。お前は戦に生きる女だろう」
婚期を逃した乙女は、独身を貫いている。それを知っての高虎の言葉だろう。
「愛していた人が、遠くに行ってしまったから」
乙女の声は震えていた。
しかし、高虎は動じることはない。先立たれることの辛さは彼のほうがよく分かっている。最も、彼女の言う愛していた人は、今もまだここにいる。
「……追い腹だけはやめておけ」
「死ぬことも、愛の形だとは思わない?」
「生きてこそ、死んだ者への想いに答えられるものだ。……俺とあんたは、正反対だな」
それでも、私はあなたの後を追うの。乙女の心はこの僅かな会話で定まってしまった。長い髪と共に、彼へのこの想いも断ち切るのだ。
穏やかな日々が過ぎている。
乙女は武器を捨てた。高虎と共に死地を生き延びた経験も、遥か遠いところに置いてきたような気がする。
やがて、彼女の元にある知らせが舞い降りた。
高野山に入った高虎は、秀吉の説得を受けて還俗したらしい。
乙女が秀吉の元を去った時、彼に引き留められることはなかった。高虎はそれほどまでに優れた男として評価されていたのだろう。
「……高虎、あなたという人間は、」
その程度の意思だったのか、と吐き捨てたくなった。金や領地には揺らがないはずの信念を持っていたのではなかったのかと。
そう、彼が簡単に受け入れたとは思えない。秀長、秀保への忠義は決して軽くはなかったからだ。
それでも、恨み言が乙女の口から飛び出す程度に、乙女は心を掻き乱されている。
「……私はついに、あなたの隣には並べなかった」
理想はかつてのままだった。それは愛した男の二度目の死のように感じられた。
それから、高虎から彼女を案じる手紙が届くこともなく、乙女も彼のことを探ることはなかった。ただ己の天命を受け入れ、乙女は生きている。高虎が最後に言い放った、後追いはするなという言葉を意味もなく律儀に守っているのだった。
(20260719)