その掌にさようなら
「もう、お休みになられたほうが」
乙女は、着物の裾から除く白くて細い腕を見た。炎の向こうで揺らめいて見えるそれは、病人の手をしている。彼の表情はこちらからでは分からなかったが、起きていることも辛いはずだった。
「……官兵衛を、救わないと」
蝋燭の炎を消してやろうかと乙女は思ったが、思うだけで実行はできなかった。彼は抵抗すらできないだろう。そんな卑劣なことをする気にはなれなかった。たとえ今の半兵衛の行為が自らの命を縮めるようなものであっても。
書状を覗く。そこには、乙女の名も記されていた。
半兵衛が書いている書状は、彼を救うための根回しのものである。そう聞いている乙女は、己の名が記されているわけを知らなかった。
そのため乙女は、どうせ自分の名を使うくらいならば、それを書くことも私のような人間に任せればよいのだと思った。しかし、やはり半兵衛が書いたものでないといけないのだという気持ちもうっすらとある。名の知れた軍師である彼がするということに、大きな意味があるのだ。信長に仕える秀吉の与力である半兵衛の家臣という乙女の立場では、きっと情勢を動かすことはできない。
彼の行ったことは、信長の怒りに触れることになる。それでも、恐れずに立ち向かって行く彼の姿はきっと賞賛されるだろう。それは彼の死後も変わらずに。
「さいごに残すことができるのは、僕の命と引き換えに彼と、彼の……」
書状を書き進める手が止まった。もしや、体調が優れないのかと乙女はどきりとした。近頃はずっとそうだったからだ。
「……半兵衛様?」
ふわりと優しく口角を上げ目を細める半兵衛に、死への悲壮感は見えない。
つい先日も血を吐き白い布団を汚した男とは思えない、力強いものを乙女は感じた。どうして彼が死の淵に立たされなければいけないのか。どうして自分ではないのか。
「君にも、大切な役目を残そう」
「……私に出来ることなんて、」
「君なら、きっと僕の頼みを聞いてくれるよね。……官兵衛だって、納得するよ。もう少し、待っていて」
そう言って半兵衛は、再び紙と筆に視線を落とす。彼は一介の武人に何を残そうとしているのだろう。何かを残されても、乙女には辛いだけだった。
「できた。ほら、乙女ちゃん。僕と約束してよ。必ず彼の命を守るって」
書状には、乙女が良く知る男……の、まだ幼い子のことが書かれていた。
「……はい。必ず、半兵衛様と、官兵衛様のために」
それは、誰にも真実を知られてはならないことだった。
「うん。……偉いね、乙女ちゃんは、本当はすごい子なんだから、」
言葉を発し終える前に咳き始めた半兵衛の背中を乙女は擦った。彼の体に触れたのは、これが最初で最後である。
「もう、お休みになってください。後片付けは私がしますから」
「ありがとう。頼んだよ、乙女ちゃん……」
「もう、大丈夫だから」
幼い子を宥め、乙女は自らの屋敷に入った。その子は自らの運命を知っていた。それを覆す策を編んだのは半兵衛で、実行したのは乙女だった。
「父上は……」
乙女はその子の頭を撫でてやった。
乙女は昔を思い出した。あまり背の高くない半兵衛が、同じくらいの背丈である乙女を褒めようとして腕を精一杯伸ばして頭を撫でようとしたことがあった。
子どもじゃないんですからと乙女が言うと、半兵衛は「僕の周りは背が高い人ばかりだし。たまには、ね」と少し照れながら言ったものだった。
未だ人から教えを乞う自分がこのようなことをしているのは、あまりにも滑稽だと乙女は思った。子もいない乙女には、この子の褒め方が分からなかった。
「大丈夫。半兵衛様が全て、根回ししてくださっていますよ」
「……本当?」
「はい。あなたが……実の息子が生きているということが、官兵衛様を奮い立たせてくださいます。きっと、じきにその知らせが届くでしょう」
有岡城に、彼を救う手が伸びるのはもう間もなくのことだろう。
不安が和らいできたのか、次第にその子は笑みを見せ始めた。
「半兵衛様と、乙女様のおかげだね」
「……私?」
「うん。だって、連れ出してくれたのは乙女様でしょ?」
「ああ。そう、ですね。松寿丸様……」
有岡城の牢に閉じ込められている官兵衛は信長から謀反の疑いをかけられ、それによって人質として預けられていた彼の嫡子、松寿丸は処刑を命じられていた。
それを救うために病と戦いながら生きていた半兵衛の活躍によって今がある。
しかし、処刑だと偽ってこの子を連れ出したのは乙女である。
乙女の手柄である。
それを自覚した途端、乙女ははらはらと涙を流し始めた。袖で拭えどもそれは止まることを知らず、畳を濡らしていく。
「どうして泣いてるの?」
「半兵衛様のお心が、分かったような気がしたのです」
松寿丸は、わけが分からないと首を傾げるのみである。
しかし、乙女はやっと分かったのだった。
やっと、自らの手で何かを成し遂げられた気がする。それは武功ではない。
しかし、武功でなくとも良いのだ、と半兵衛は言っている気がした。それを伝えるがための任務だったのだと乙女は感じてならない。
「やっとです。やっと、自分のことを卑下しなくてもよい時が来た気がします、半兵衛様……」
そして、自らが如何に信頼されていたのかということを知った。
「乙女様、大丈夫?」
「……うん。大丈夫。ごめんね」
自分に子がいれば、この子の親のように愛を与え、与えられることができていたのだろうか。
ふと思い出すあの日の言葉がある。
『君は、本当はすごい子なんだから』
あの言葉もまた、愛の形だった。それを返すことは二度とできないことが心残りだった。けれども自らもまた、誰かに愛と命、そして未来を託していきたいと静かに乙女は思う。そうして、松寿丸の小さな手を握るのだった。
(20260804)