宇佐山
「父の仇……! 覚悟してください!」
叫ぶ少年の声を乙女は聞いた。血走る目で、背丈ほどの大きな刀を振るい、味方の兵をどんどんと薙ぎ倒す。
あれほどの武者を見るのは珍しいことだった。年端もいかぬ身でありながら、素晴らしいほどの武勇だ。
彼が味方であるならば、どれ程心強いことかと思うくらいに。
「……一度引く。あの勢いでは抑えられないかもしれない」
死を覚悟している彼の姿は、はなから生きることを望んでいないように見えた。乙女は返り血だらけの戦装束をちらりと見てから、刀に付いた血を落とした。周りの兵は乙女の声に従い歩みを止め、次第に退いていく。
「あの子は」
その少年が掲げる旗印を見る。鶴が描かれたそれは記憶に新しい。
半ば答えは分かっているようなものだったが、乙女の声に周囲の兵が応じた。
「森可成の息子のようです」
「……それならば、ああなるのも当然かな」
その男と対峙したのは乙女だった。織田軍を思うように突くことが出来ないのは、彼の奮戦のせいだった。その勇姿は、敵だというだけで切り捨てるほど価値のないものではなかった。最期の姿は素晴らしいという他なかった。
これが戦国の世のならいである。
「討つには忍びないな。彼には悪いが、私たちはこのまま後退し続け、守りを固める」
乙女の目から見るその少年もまた、乙女と同じように血を浴びていた。
「これで彼は、浅井を生涯恨み続けるだろうな」
乙女がこの戦場で彼を見たのはこれきりだった。
それからは、彼の姿を見ていない。
「……大丈夫ですか?」
呼び掛けに応じて乙女は目を覚ます。
そこには、あの時見た少年がいた。曖昧になっていた記憶が蘇る。そうだ、小谷は。乙女は自分がここにいることで、浅井方の敗北を知った。長政もきっと、生きてはいないだろう。そういうことに関する頭の回転はなぜか早かった。
「私は、なぜここに」
本来はこの少年に殺されるべきだったのかもしれない。乙女は傍らに寄り添う彼への罪悪感があった。
彼の父を殺めたときには何とも思わなかったというのに、罪の意識はなぜか今になってやって来た。
「あなたの部下たちが介抱してくださっていたのです。あなたは降伏した身ですから」
「……降伏?」
身に覚えのない話だった。乙女は織田軍に降る意思はなかった。
「はい。あなたの部下はそう仰っていました。あなたは傷を負っていましたから、きっと降伏の許しを得たことに安心して気絶してしまっていたのでしょう」
「……そう、」
部下が勝手に乙女を生かすことを選んだのかもしれなかった。どうせならば、そのまま放っておかれていてもよかったのだ。そうすれば、きっとこの罪悪感には気づいていなかっただろうから。乙女は傷だらけの半身を起こす。
いっそ、ここでとどめを刺してほしいくらいだった。
「私が誰だか知っているの、森蘭丸さん」
痛みに呻く乙女に、そう呼ばれた彼は慌てて体を支えた。しかし、その視線は鋭く彼女を見据える。
「……当然ですよ、乙女様」
蘭丸は深い憎しみを湛えている。乙女はそれを今初めて理解したかのように、胸の内では動揺していた。
「それなら、今ここで私を殺して」
今度は蘭丸が動揺する番だった。だが彼はそれを悟らせないように、すぐに切り替える。
「あなたを今ここで殺したとして、私に何の利があるというのです」
若干の怒りが籠っていた。それは宇佐山で見せた表情と酷似している。きっと、己を殺したいほど憎んでいるはずなのだ。それなのに彼は必死に憎悪を押さえ込んでいる。乙女は、最早簡単に死ぬことが出来ぬ身になってしまったのだと絶望した。
「ですが、もう良いのです。浅井は滅びました。あなた一人を恨んでいても、どうしようもありません。こうなった以上、あなたは信長様のために働いて頂かねば。私が浅井を憎むように、あなたは織田を憎んでいるのでしょうから、これで痛み分けとなるでしょう」
至って冷静に、笑みすら浮かべながら蘭丸は言うのだった。
「……信長の、ために」
生き地獄のようなものだ。主君を死に追いやった男に尽くさねばならないなど。乙女はなぜ生きているのかが分からない。
大切な人間を失ったのは蘭丸も同じだ。だが、彼は信長を信奉している。仇がそこに居ようともそれに鉄槌を下すこともなく、手当を施すことができるのは。心の拠り所が未だ存在しているからなのだろうか。
乙女には、もう拠り所はない。目を閉じると真っ先に思い浮かぶのは、あの日見た蘭丸の幽鬼のような気迫を背負った姿である。一種の美しさすら感じるのだった。
一方目の前の彼はそのような面影がなく、気味が悪いほどに平然としていた。蘭丸が生かそうとしたのは、文字通り自分を生き地獄に追いやるためなのではないか。彼が言う、己の部下の話も虚言ではないのか。乙女は蘭丸を信じることはできなかった。
結局、乙女は織田軍の将として生きている。彼女と同じく浅井から降り同じように転戦することになった者も多い。
しかし、腑に落ちないことがある。乙女の部下は彼女が生きていることを知らなかった。むしろ、彼女の首を土産に降伏を企てようとする輩もいたという。信長は最後まで抗わずに降ろうとした彼らを処刑したと、後になって乙女は知った。
乙女が生きていることには、作為的な何ががある。そんな釈然としない思いが残っている。
「宇佐山で私は、自分らしくない失態を犯しました。あなたを殺さなかった……いや、殺せなかったことです」
陣幕の中で、蘭丸は唐突に言った。乙女の背中に向かって語りかけるように。
「ならば、今殺すと?」
その背は無防備だった。しかし、蘭丸の声色からはあの時のような激情や殺意を感じない。
「いいえ。……過ぎたこととはいえ、やはりあなたは憎い存在であるということに変わりはありません。父の仇という事実は揺らぎませんから。ですがあの時退いたあなたを見て、私は己の中にある熱が、昂りが、急激に醒めていくことを自覚してしまったのです」
宇佐山では、乙女も蘭丸も血みどろだった。乙女は戦いが終わるまで理性的だった。彼の父の最期に感服した。無意味な殺しは誓ってしていない。それが綺麗事であろうとも、戦いというものはずっとそういうものだと乙女は思っている。そして、そんな彼女の姿勢が、巡って今のこの境遇を生み出している。
「それが、私を生かした理由?」
「……はい。討ったところで、私はきっと、何の感慨も得られない。あなたは挑発にも乗らず冷静で……それは今もそうです。いつだって、取り乱すこともない。あなたのような人間を、忠臣と呼ぶのでしょうね」
「別に、私は信長……様の忠臣と呼べるような人間じゃない。あなたに背中を狙われているほうが良かったかもしれない」
「あなたは忠臣ですよ、紛れもなく」
感慨なんてものが、仇討ちにいるものなのだろうか。乙女は今も織田が憎い。蘭丸のようには割り切れない。自分がどうあっても信長を討つことができないように、蘭丸も無駄な諍いを避けるがために仇討ちを拒んでいるのではないかと乙女は思った。それでも、蘭丸は嘘をついているようには見えないのだった。
「あなたが弓を使うような人間でなくて良かった。もしそうであるのならば、私はずっと背を気にしてしまって、まともに戦うことなんてできやしなかっただろう」
思わずそう小言をぶつけてしまう程度に、乙女は蘭丸のことを信頼できなかった。
「弓を使っていれば、刀を使うあなたの戦いを間近で見ることなどできないでしょう」
蘭丸は不思議な男だ。主君のためにと自己を犠牲にするような発言や行動ばかりしているのかと想えば、時折こうやって自らの意思を覗かせる。乙女は無言で陣幕の外に向かって歩き始めた。戦場はすぐそこにある。二人が再び血に塗れるまで、幾許もかからないだろう。
(20260812)