これの続編
あの当時のことは、思い返しても本当に現実のことなのかどうか定かではないと乙女は思う。約二千年も前の中華で、それでも彼女は確かに、そこにいた。
それももう随分前の話だ。幼少期の記憶が現実として経験したものなのかそれとも夢なのか、はたまた他人から見聞きした情報が混ざって自分のものと認識してしまっているのか分からなくなることがあるように、人間の記憶というものはいうほど頼りにならないものである。どうやってあの世界からこちら側に帰ったのかも、彼女はぼんやりとしか覚えていない。突然の出来事だったのは知っている。自分から帰りたいなどと、一度も言ったことはなかったからだ。
当時の乙女はまだまだ幼かった。なおかつ今思い返せば変な笑いが出るくらいに生意気だった。そこには彼女自身を取り巻く環境が影響していた、とどのつまりは大人という生き物をあまり信用することができなかったことが原因ではあるのだが、それにしても思い切った態度であったと乙女は回想する。
相手が趙雲という誠実な男であったから、命拾いしたのだ。誠実、という言葉が良く似合う爽やかな容貌の割には乙女への態度は一貫して冷たかったものだが、それは乙女の態度にも問題があったし、単に冷たいだけの男ではないということも彼女はよく知っている。竜胆の花を眺めて、それに触れた彼の手は戦に明け暮れる男のものらしくごつごつとしていたが、暖かく心地が良かった。その温度と感触をはっきりと覚えているから、やはり現実だったのだとふとした瞬間に思い出すこともあった。
こちらの世界に帰ってきてからというものの、乙女は死んだ友人の月命日には花を買うようになった。帰ってきてから、と言ってもどうやら趙雲と共に過ごした日々はなかったことになっていたらしく、向こうの世界にいたのはこちらの世界でいう一日にも満たないものだったから、急な心変わりを見せる乙女は両親に大層不審がられるということもあった。
特に初めのうちはろくにお金もなかったから初めは苦労したが、バイトをするようになってからはむしろ喜びの感情が沸き起こる。夏の終わりから秋にかけては、友人が好きだと、そして趙雲が好きだといった竜胆の花を買うのが恒例だった。もっとも、花を買うとはいっても乙女は大学進学を機に地元を離れてしまったから、友人の墓参りにはほとんど行くことがない。それでも花を買うのは自己満足に過ぎないのだが、友人と趙雲を忘れないようにするためにはこれが一番の得策であるような気がするのだった。
この日も同じようにして、乙女は花を買った。まだ竜胆の旬ではないが、花屋の店先には既に並べられている。これを見る度に夏の暑さや秋の訪れを実感するのだ。大学生となり一人暮らしをした当初は限界ぎりぎりまで履修登録した講義とバイト、家事その他に追われていたのだが、大学生活四年目ともなると就活や卒論制作があるとはいえ気楽なものである。
とはいえ忙しい日はやはり忙しい。花の鉢を抱えて帰る頃にはもう日は沈み、駅から家に向かって歩く頃には誰も外を歩いていない。たまたま遅くまで開いている花屋があってよかったと、こうなる度に乙女はありがたさを実感するのだ。
アパートに鍵を差し込みドアノブを捻る。花以外にもスーパーに寄ったものだから、荷物で手が塞がれていて鍵を開けるだけでも苦労した。
本来ならば真っ暗な玄関が乙女を迎えるはずなのだが、つい二週間ほど前からその様子は一変している。未だに信じられないものだが、紛れもなく現実世界なのだ、ここは。快適な一人暮らしのはずだったのに、と毎回ため息をついているのは、単に照れ隠しなのかもしれない。
「帰ったか」
明かりがついたままのキッチンのほうから声が聞こえる。乙女は曖昧に返事をした後、靴を適当に脱いで上がった。両手が色々なものでいっぱいであるし、ここは自分の家なのだから、この際靴が散らかっているのは許してもらいたいものだと乙女は思う。
「……竜胆」
ふっ、と男が笑う。キッチンの目の前にはダイニングテーブルが置かれていて、乙女は持って帰ってきたものをどさりとそこに下ろした。竜胆の鉢も、である。
「この花、好きだって言ってたもんね」
「ああ」
男の顔が、一瞬にして綻んだ。常にこのような穏やかで、通りがかった人が見れば思わず目を奪われてしまうような笑顔を浮かべているものならば、この奇妙な同居生活は幾分かましなものになることだろうと思わざるを得ない。
インターホンの使い方教えないとな、とでかい図体に似合わず花を愛でる男を尻目に乙女はぼんやりと思う。重い荷物そっちのけで花を見ている様を見ていると、この鈍感男! と言いたいような欲求が湧き上がるのだが、この状況に水を差すような気がしたからやめた。
「……それにしても、随分と今日は帰りが遅かったな。待ちくたびれたぞ」
椅子に座ったまま微動だにせず、妙に堂々としている男はてきぱきと動く乙女を手伝うこともせず呟く。
「……あのね趙雲。そうやってぼーっとしてないで、残りの荷物持ってきてくれない?」
「手厳しいことだ」
冷蔵庫に買ってきたものを詰め込む乙女の、少し怒気が籠った声が聞こえる。趙雲、と呼ばれた男は食品で詰まったスーパーのレジ袋をひょいと持ち上げ乙女の足元に置いた。
全てを一人暮らしのものとして想定していたのだから、いきなり一人増えれば大惨事になるのは当たり前だ。分かっていたことではあるが、まさかこれほどのものとは。乙女は小さな冷蔵庫に野菜を詰め、冷凍庫にチンすれば食べれるような既製品をこれでもかというほど押し込んだ。レンジの使い方を教えたから、辛うじて彼の昼食は確保することができている。成人、それもガタイのいい職業軍人が一日に摂取すべきカロリーが果たして如何程のものなのかは全く検討がつかないが、これ以上に良い方法は思い浮かばない。
「あなたが来てから、もう本当に大変なんだから」
事の発端は二週間ほど前。乙女があの世界に突然飛ばされ趙雲と出会ったように、この現世で乙女は、突然趙雲と再会した。
「どうやら自分のことを棚に上げているようだな」
「もう、ああ言えばこういう!」
「お前も似たようなものだろう」
趙雲は笑う。まるでいたずら好きな幼子のようだ。こうしていると、目の前の男はやはり幻でも何でもなくて、あの時確かに出会った趙子龍そのひとなのだということをはっきりと突きつけられているような気がした。
乙女の住むアパートの前に、趙雲は平服姿で倒れ込んでいた。はっきり言って不審者にしか見えないその格好を遠目から一目見て趙雲だと思ったのは、あの頃の思い出一つ一つが思っている以上に価値のあるものとして刻み込まれていたからだろう。乙女は大急ぎで彼の元に行き、どう考えても倒れている人間にすることではないが精一杯の力で揺さぶり、叩き起こした。
おぶっていくわけにもいかないしどうしたものかと乙女は気が動転していたのだが、思いのほか早く彼は正気を取り戻したようで、特に体の不調を訴えることもなくむくりと体を起こして難なく立ち上がった。
「あなたは……ん? お前……乙女か?」
趙雲が「あなた」と乙女のことを呼んだのは、彼女が彼に拾われてから僅かな期間だった。とある出来事……最も趙雲にとっては単に彼女を守ろうとしただけであるが――によりふたりの仲がぎくしゃくしたあたりだろうか、それとももっと前なのだろうか……はっきりとはしないが、彼の乙女に対する呼称は「お前」 で固定されていた。あなた、と呼んだところあたりは乙女がよく見ていた「よそ行きの趙雲」で、少しだけそれが自分へと向けられていたことに対してどきりとしたものだが、すぐに「お前」と呼ばれてしまったので乙女は肩を落としそうになった。それにしても、あの頃と違ってきちんとした化粧をして服装も異なっているのに、よく分かったものだ。乙女がそう言うと趙雲は、「よく分からないが、お前が乙女なのだということだけはすぐに分かった」と理由になっていない答えを述べた。
倒れていたのにも関わらず平然としている趙雲に圧倒されながら、乙女はとりあえず自分の家に案内した。流石に、あのまま放っておくわけにはいかない。悩みどころしかなかったものだが、なんとかして乙女は生活を維持しているのだった。
「……ああ、もう冷蔵庫がパンパン。本当に大変だわ。冷蔵庫どころじゃなくて、色々なことがね」
乙女は限界まで食品を押し込めた冷蔵庫の扉を閉めて、趙雲を睨みながら言う。相変わらず趙雲は昔と変わらずに乙女の怒りを軽く躱し続けているから、なんだか怒っているほうが間違いなのではないかという気持ちに乙女はさせられた。
「私の苦労を少しは分かってもらえたようだな」
「まあ、確かに。……それは言えてる。あなたと違って私は文句ばかりだったし、よく私に愛想をつかさなかったものね」
一応は自分に与えられた部屋があったのにも関わらず、趙雲の私室に入り浸っていたことを乙女は思い出した。勝手に人の部屋に上がり込んで好き放題、部屋の、いやそれどころか屋敷の主であるこの男のことをやれ血の匂いが不快だの野蛮だの病気だの、散々罵倒したのは今となってはもはや苦い思い出だ。若気の至りといえば聞こえはいいが、礼儀知らずで全く可愛げのない女であると映っていたことであろう。
「お前のようなどこにも居場所のない娘を放っておくわけにいかないだろう。例えそれが私に事あるごとに楯突く生意気なきらいのある娘でもな。最も、今のお前はその見てくれだけは随分と変わったようだが。……それでも生意気なのは相変わらずだな」
乙女がこの世界に帰ってから数年が経った。時の流れがどうなっているのか、はっきりとしたことは分からない。だがどうやら趙雲も似たような時の流れを辿っていたらしいということを聞いた。つまり、あの世界から乙女が消えてから過ぎた年月と、乙女がここに戻ってから過ぎた年月は同じだということだ。
乙女はここ数年で人並みの礼儀と常識を備えたわけで、趙雲に何も変わっていないと言われるのは少々複雑なような気もした。とはいっても、乙女から見る趙雲も数年の月日を経ているわりには最後に見た姿と遜色ないようにしか思えないから、案外そんなものであるのかもしれない。
「私が変わっていないのなら……そうね、あなたも相変わらず変わっていないわ。そして、あなたと私は同じ。なんだかんだで、あなたを放っておくことなんてできない」
文句を言いつつも受け入れてくれた趙雲のことを思うと、今の彼のことも受け入れざるを得ない。むしろ、自分にしかできないものだ。一人暮らしを想定して作られているこの狭い家でどうこの男を養っていくのかという問題を差し置いても、乙女は趙雲を放っておくなど到底無理なのだ。それは分かりきっていることである。
「そうだな。まあとにかく、倒れていたのがお前の家の前で良かった。いちいち説明せずに済む。人間関係に悩まされることもない」
「外面だけはいいんだから」
「……外面が良いのではない。お前の前だからこうなるんだ」
「……は?」
趙雲の言ったことははっきりと聞き取れたが。なんだか趙雲らしくない言葉のように感じられて、乙女は素っ頓狂な声をあげる。
「いや。……それよりも、今日は何を食べるんだ。私は腹が減った」
明らかにはぐらかされているのだが、家でのんきに過ごしているだけの彼に対する苛立ちのほうが勝ってしまったらしい。
「ああ、もう! 作ればいいんでしょ。でももう遅いんだから、今日はレトルトで許して」
「食べられるのであれば何でも構わない」
気を遣っているのかもしれないが、この言葉すらも乙女をさらに燃え上がらせる一因だ。何でも構わないのならばその辺に生えている草でも食べればよいのである。趙雲ならそんな経験をしていないとも言い切れないし、流石に可哀想であるから心の中に留めた。
乙女は以前冷凍しておいた白飯を取り出しレンジに入れた。レンジが音を立て凍った白飯を溶かしている間にお湯を沸かす。一人暮らしは栄養が偏るとは正にこのことで、こうして遅くなった日はレトルトに頼ることが多い。自炊しようと思って買った野菜を余らしてしまうこともしばしばだ。自炊に備えて色々なものを買ってしまったのだから気をつけなければいけないのだが、中々そうもいかない。
沸かした湯の中にレトルトカレーを突っ込む。レンジから白米を取り出し器に入れ、茶でも入れようかと乙女は思ったが、これくらいは趙雲にやってもらうべきであるだろう。
「趙雲」
「なんだ」
テーブルの上に置かれた竜胆を飽きもせずに眺めていた趙雲が顔を上げた。
「冷蔵庫からお茶とって。これコップね」
「……ああ」
突きつけられたコップ二つを受け取り、渋々立ち上がって趙雲は冷蔵庫から茶を取って注いだ。自分は乙女に、一度たりとも水を入れろなど言わなかったぞ、と言いたそうにしているが乙女は取り合わなかった。
そうこうしているうちにカレーが温まったので、乙女は封を切って器に注ぐ。たったこれだけのことなのに面倒と思うのだが、あの世界で過ごしていた日々のほうが遥かに面倒であったはずだ。記憶も経験も、曖昧で不確かなものなのだ。
「ほら。できた」
テーブルに皿を置く。次いでスプーンもだ。カレーというものは見た目がああであるから受け入れられるものなのかと乙女は危惧していたのだが、特にそんなことはなかったということを知ったのは趙雲がここにやって来てから数日後のことだ。スプーンも初めは慣れなかっただろうが器用に使うことができている。彼の着ている服は適当に安物を見繕って乙女が与えたものだが、それなりに似合っているようだ。本当にこの男が(仕方のないことであるのは乙女も嫌という程知っている、いや、正確には知るしかなかったのだが)人を殺して生きているようには見えないだろう。不思議なものだった。
「これ、部屋に置いてくるから」
席に着く前に、乙女は竜胆の鉢を抱える。元々彼女が買う花は彼女自身の部屋に置いているというのが習慣だった。部屋に続く短い道のりの中には、趙雲が来てから変わった部分がある。それは趙雲が寝るための布団が狭いながらも敷き詰められているということだ。大変不格好な形であるのだが、流石に同じ部屋で寝泊まりするわけにもいかないし、そもそも乙女の部屋はベッドの他にも様々なもので埋め尽くされているのだから、これしか取る方法がなかったのだ。一人暮らしに最適化している我が家ではあるのだが、ワンルームでなくて本当に良かったと感じるばかりである。
背を向けた乙女をじっと見て、趙雲はおもむろに立ち上がった。そうして彼女に向かって腕を伸ばす。
「ちょ、ちょっと、趙雲!」
乙女は、後ろから趙雲に抱きすくめられた。腹に回された腕の力は思いのほか強く、体は密着している。もがこうとしても無駄なほど、がっちりと覆いかぶさられていた。耳元には趙雲の吐息がかかってくすぐったく、ぞわぞわとする。乙女が思い返す限り、趙雲がこのような行動を起こしたことはない。乙女が彼の手に触れたことはあったが、それくらいのものだ。まるで恋仲であるかのようだった。乙女は急に起こったこの行為に頭が追いつかなくて、自分の心臓の音が外に漏れ出ているのではないかというくらいうるさく音を立てているのをはっきりと感知した。
「好きだ」
「な、なんで今、そんな、」
いよいよ鼓動が鳴り止まない。乙女は持っている鉢を落としそうになった。
この男が、趙雲が、自分を。乙女は何かの間違いではないかと訝しんだがさらに体を強く抱き締められて、もう一度熱っぽい声で「好きだ」と囁かれて、紛れもなく真実なのだと嫌でも思わされた。
「ちょ、ちょっと……ん、」
いつもであればよく回る舌が、言うことを聞いてくれない。振り返ると趙雲の顔がほんの間近にまで迫っていて、あ、と言う隙すらなく唇が掠め取られる。
もはや、何かを言ってやろうという気にすらなれなかった。反射的に目を閉じて、ただ趙雲の良いように弄ばれる。唇で唇をこじ開けられて、趙雲の舌先が乙女のものに触れる。くぐもった湿っぽい声が静かな空間によく響いた。いつの間にか乙女の持っていた鉢は趙雲の手にあり、カレーの皿を押しのけてテーブルの上に戻されている。
「……は、っ……」
乙女は涙目になりながら趙雲を見上げた。彼はいつものように余裕そうな微笑を浮かべている。けれども、いつものように腹立たしくはならなかった。
「好きだ、乙女」
同じことばかり繰り返す趙雲に何かを言う気にもなれず、ただ呆然とするばかりの乙女だったが、ふわりと宙に浮かぶ感覚を覚えて我に返る。
「や、やめてよっ!」
「やめない」
軽く横抱きにされ、趙雲はそのまま歩く。足先がテーブルにぶつかりそうで乙女はじたばたしたが趙雲は意にも介さない。所謂お姫様抱っこというものは、想像以上に男性には負担が掛かるものらしいが、趙雲がこんなことでへばるはずもなかった。
「乙女」
乙女が優しく降ろされたのは無造作に敷かれた趙雲用の布団である。乙女はぞっとした。
「……先程、私はお前のことをあの頃から変わっていないと言ったが、本当は少し……いや、かなり違った思いを抱いている。お前は美しくなった」
押し倒される形となり、乙女は身動きも取れずに趙雲の端正な顔を眺めることしかできなかった。
本当に、趙雲? 彼の言動も行動も普段からは考えられなくて、乙女は僅かに恐怖を感じる。だがこうなることが、こうなっているということが嫌ではないのだと思う自分もどこかにいた。
「趙雲……どうしたの、急に……」
何がどうなって彼のスイッチを押してしまったのかは知る由もない。けれども乙女を見下ろす趙雲の目は煌々と輝いている。
「いつからだろうか。……だが、ある時からずっと、お前を妻にしようと考えていた。お前はあのようであるし、年端もいかない娘だったから……無理強いはすまいと思っていた。だが……もう抑えが聞かない。こうしてやっと、再びまみえる事ができたのだからな。順序が逆転するのは、申し訳ないとは思うが……」
服の着方、脱がせ方すらろくに知らなかったくせに、趙雲は乙女の衣服に手をかける。乙女は自分が犯されそうになっているのだと強く実感して、目を見開いた。
「この、変態! な、何考えてるの……! しかもこんなところで……」
電気も点けっぱなしであるし、このままではテーブルに置いたカレーは冷めてしまう。せめてベッドで、なんて言える悠長な余裕はなかった。乙女は趙雲を罵ったが、彼はいつも彼女に何を言われてもさらりと返しているように、未だ平然としている。
「お前の寝台は小さすぎるからな。だが……そうだな。私はどうかしているのかもしれない。それでも私の気持ちは本物だ。お前もそうだろう、乙女」
「……呆れた。あなたの意地が悪いところは、本当に変わっていない」
「お前も私のことが好きだ。そうに決まっている」
「……好き、だけど……ね。……優しく、してよ」
乙女が当時趙雲に抱いていたのは、恋慕の思いではない。親戚の、年上の男性に対して感じるような憧れの気持ちだったはずだ。
趙雲からすれば乙女は分別もつかない子どもだったわけで、彼は一体どの辺りからこうしたいとのだと思ったのか……分からない。趙雲すらも分かっていないのだろう。良いように言いくるめられ、好きだと言わされているだけなのかもしれない。
けれども、乙女が秘めていた思いはやっぱり恋心というものであったのだという考えも、全てが間違いとは言いきれないのだ。その理由を今言うのは恥ずかしかったし、さらに趙雲の気持ちを昂らせてしまうようにも感じられたから乙女はあえて言わなかった。
「善処しよう」
その言葉を皮切りに、趙雲の唇が首筋へと落とされる。乙女はただ趙雲の一挙一動を見つめることしかできないままに、身体の全てを趙雲に委ねるのだった。
「……まさか生娘だったとはな」
コップに注がれた茶を一飲みした趙雲は、苦笑いしながらもう片方の手に持ったコップを未だ寝転がったままの乙女に差し出す。乙女はぼーっとしたまま、ゆっくりと首を振って差し出されたものを突き返した。辛うじて服を着直したものの、全身が汗でぐっしょりとしていて気持ちが悪い。
思っていたよりも痛かったし、気持ちよかったのかどうかすら……乙女はよく分からなかった。ただ、普段素っ気なくて冷たいとさえ思える趙雲は、信じられないほど優しかった。事ある毎に「大丈夫か」と声を掛けたし、肌に触れる手つきは壊れ物を扱うかのようだった。趙雲の荒い息と掠れた声は、まだ脳裏に深く焼き付いている。
「だ、だって……」
言い淀む乙女に対し、趙雲は追撃を仕掛ける。
「だって……その続きは、なんだ? この世界の女性というものは、無理に好きでもない男の元に嫁ぐ必要もないのだということは知った。だが好き合っている男女ならば、そういう関係になってもおかしくはないのだろう」
いつの間にそんな知識を得たのやら。乙女は趙雲を見上げる。今まで通り、意地の悪い笑みを浮かべた彼がそこにいた。
「そりゃ、ね……私もそういう関係になりかけたことはあるけど……」
「けど?」
それを言わせる気か、この男は。乙女の、やっと落ち着き始めたと思っていた頬は再び赤くなっていく。とんだ故意犯だ、と乙女は思った。
「あなたのことが、忘れられなかったから……どうしてもあなたと比べてしまって、いつまでも先に進めなかったの。あなた程……その、格好いい人なんて、いないし」
恥ずかしい。それ以上の言葉は浮かばなかった。この世界に帰ってきてから、彼氏ができたこともある。だが結局乙女のほうから別れを切り出してしまったのだ。それは無意識に趙雲と比べて、彼の方が勝っていると優劣をつけていたからだ。……やはり、あの頃から趙雲のことを愛していたからなのかもしれない。
「可愛いことを言ってくれる。……あまり私を煽ってくれるな」
再び趙雲が覆い被さる。髪を撫でられ、唇に軽く口付けされた。
「あのね、もう……本当に、ダメだからね」
乙女ははっと正気に戻って、特に意味をなすわけではないのだと分かっていながらも趙雲の厚い胸板を押した。案の定びくともしない。
「なぜだ」
「……こんなこと言いたくないんだけど。……あなた……中に、出したから。本当に信じられない」
「なぜだ」
「ああもう……! 私、まだ子どもいらないから! 明日、急いでアフターピル貰いにいかないと……初めてなのに、なんでこんな、」
ぶつぶつと時折趙雲にとっては意味の分からない単語を呟く乙女に対し、彼は悪びれる様子など全くなかった。そんな趙雲を見て、乙女はさっと熱が冷める。昔、趙雲が返り血に塗れたまま帰ってきたことに対し乙女は散々文句を言ったものだが、約二千年の間に人間の倫理観というものは随分成長してきたものなのだろかと思った。心と体が通じあってもなお、相容れないものは存在するらしい。
「私は子どもができても構わない。責任は取る。その覚悟がなければこんなことはしない」
「趙雲が良くても、私は駄目なの! 避妊してよね! それでも確実なんかじゃないし、避妊具なんてこの家にあるわけないんだから!」
「……字で呼べと言ったはずだが?」
「もう! 子龍の馬鹿!」
最中のことをを思い出したのか、乙女は再び顔を真っ赤にする。その様子がよほどおかしかったのか、趙雲は声を出して笑った。
「では、今回はお前に免じて終わりにしよう。……本当に可愛らしいな」
あっさりと引き下がる趙雲だったが、さりげなく乙女を可愛いと評するところを見るに、事の重大さをよく分かっていないような気がする。乙女は少々複雑だった。結局のところ、全てを彼の意のままに操られているようだ。
「……シャワー浴びてくるね。その後、ご飯温め直すから」
乙女はやっと起き上がって姿勢を正し、立ち上がる。本当は湯船に浸かりたいのだが、ご飯も結局食べていないし、手早く済ませたかった。
「私も一緒に入るというのは」
「……今日は、ダメ……あっ、」
また抱きしめられる。今度は後ろからではなく前からだ。なんでこんなに甘えてくるんだろうと思いながらも、乙女は趙雲の背中に手を回した。
「もうお前のことを離さない。離したくない。もしこの世界から私が帰らなくてはいけないのだとしたら、私はお前が何と言おうと連れて帰る」
やっぱり意地悪だ。乙女はもう一度馬鹿、と言ってやりたくなったが、実際に彼女の口から発されたのは全く別の言葉だった。
「……うん」
趙雲の手が頬に添えられる。乙女はその手の上から自らの手を重ねた。やっぱり、あの頃と変わらずに暖かかった。
(20240822)