信じるかは貴方次第
「やりましたね乙女様! 天下統一が貴方様の下で成されることも夢ではありません」

乙女の勢力は、この日の本で力を広げ続けていた。元々は乙女の父が弱小大名として僅かな地を治めていたのだが、父が亡くなり、家督を継ぐ男子が居なかった事から乙女がその後を継いだ。

元々父に溺愛されて育った娘である。父にとってはこの娘以外に家督を譲るとは考えもしなかったのだろう。他家から養子をとることもしなかった。家臣からは反発もあったが、結果として乙女の治世は成功だった。それどころか天下を統一してしまうのではないかとも言われているのだ。死んだ父も安堵していることだろう、と乙女は思う。

「ありがとう。今夜は無礼講ね」

おおっ、と歓声が上がる。既に酒を呑んでいる人間も居て、これから始まる宴の混沌さを物語っている。豊かな海の幸が運ばれ、乙女も今夜くらいは楽しもうかと思っていた。何せ家督を継いだ頃から気苦労が耐えなかったのだ。こうして皆と一緒に宴を楽しみ休息を得られるということ自体が、彼女には珍しいことだった。

その日の、夜が更けていった頃の話である。

酔いつぶれて寝ている者、こんな日にも関わらず執務が残っているのだとして早々に宴から抜け出してしまった者など、乙女の家臣達は様々な動きを見せる者達だらけだ。

そういった個性的な面々が、乙女にとって家臣への庇護欲を掻き立てる。

例えば、部屋の外で月を見ながら酒を静かに煽る男、幸村がその代表例だった。

「幸村殿」

幸村に声を掛ける。乙女にとって、幸村は所謂外様という立場にある将だった。だが、他の勢力をねじ伏せて従えさせた人間の一人というわけではなかった。幸村は自分の家を出奔して、乙女に仕えたという境遇を持っていた。

元々乙女に対して敵意はないこと、そして彼女のために良く尽くしていた事が相まって、彼の立場はこの家の中ではかなり力を持っているという部類に入る。

乙女の一族や臣下の一部からは不満を持たれていることもあるということを、幸村も乙女も知っている。けれども彼女は幸村のことをよく頼っていたし、また幸村も彼女のことを慕っていた。乙女にとって幸村は目が離せない存在なのだ。だからこそ、こうして一人で過ごしていることを、見逃すことは出来ないのだった。

「乙女様。私のことなどお気になさらずに……」

幸村は優しい。乙女の一族や臣下に良く思われていないとしても反発はしないし、こうした場においても乙女のことを気遣う。与えられた政務もこなし、戦場では武功を立てる。

はっきりいって、自分には勿体ないほどの才能が彼にはある。乙女は常々そう思っていた。

「今夜は無礼講だから。幸村殿ももっと羽目を外しても構わないよ」

そうは言っても、幸村を困らせてしまうだけなのかもしれないと乙女は考えた。幸い他の臣下は部屋のあちこちに散らばって騒いでいたり寝ていたりしている。乙女は幸村の隣に座った。

「乙女様……酒を、飲まれますか」

「いや。もう沢山飲んだから良いかな。ありがとう。幸村が飲んでいる姿を見ていれば、それで」

幸村は焼酎が好きらしく、少しずつではあるが既にかなりの量を呑んでいるようだった。酒には強いということは既に聞いていたが、それでも彼の顔は普段より赤い。

「そうですか。……乙女様。せっかくですからお話を聞いていただけますか。つまらぬ男の話だと思って頂いてもかまいません」

幸村は真剣な眼差しで乙女を見つめる。乙女は無言で頷いた。幸村とは何度もこうして二人で話したことはあるが、酒の席で二人きりになるのは初めてだった。少し不思議な気分だと乙女は思う。

「天正三年に起こった話です」

天正三年といえば、まだ乙女の父親は生きていた頃だ。いずれ自分が家督を継ぐのだとしても、まだはっきりとした自覚は芽生えていない。そんな頃の話だ。人から伝え聞いた話だろうか。乙女は興味深く感じた。

「戦いが、ありました。その騎馬隊はこの世で最強と謳われたもの。敵陣の乱れがあればすかさず突撃しその隙を突くのです」

天正三年に起こった戦い。最強と謳われた騎馬隊。乙女は覚えがなかった。戦いは各地で起こるものであるため、把握していない小規模な戦いがあることは考えられるが、彼女の記憶には存在しないものだ。

幸村は続ける。

「ですが、その戦いは違いました。騎馬隊といえども、鉄砲には弱い。突撃を遅らせる馬防柵の力もあり、次々と騎馬に乗った人間は倒れ、落ちてゆきました。その様子は、まさに地獄のよう。赤備えの鎧は、自らの血と泥で、醜く、黒く染まりました」

幸村は、一体何の話を、誰の話をしているというのか。乙女は分からなかった。身に覚えがないということではない。明らかに聞いたことがない話だ。幸村は存在しない戦いのことを語っているのではないか。乙女はそう考えてしまうほどに、幸村の話を信じることができない。

「幸村……あなたは何の話を……誰の話をしているの」

堪らなくなり、乙女はそう言った。幸村の目は、今までにないほど据わっている。背筋が粟立つ感覚を、乙女ははっきりと自覚した。彼のこのような表情を見るのは、共に長い時を過ごした中で初めてだった。

「……これは、私の話です。長篠で私は地獄を見たのです」

「そんなこと、ありえないでしょう」

そうだ、ありえないのだ。天正三年。幸村がまだ八歳の頃の話だ。合戦に出られるような年齢ではない。それに長篠で幸村が語るような大きな戦いがあったということも、到底信じることができない。乙女が生きてきた中で、そんな戦いは存在しないのだから。

「乙女」

不意に名前を呼び捨てられ、乙女は心臓の鼓動が激しく鳴り響くのを知覚する。

幸村の腕が伸ばされる。刹那、乙女は自分が幸村に押し倒されていることを知覚した。肩を押さえつけられているせいで身動きを取る事が出来ない。

「な、何を……」

乙女はそう言うのが精一杯だった。

雲が月を隠す。辺りは闇に包まれ、幸村の表情は見えなくなった。得体の知れない気味の悪さが乙女を覆う。彼が一体何をしたいのかが、分からない。

「長篠で、私とそなたは共に戦った。主従の関係ではなく、同士として。それだけではない。上田で穏やかに過ごした日も、その上田を守るために戦ったことも……私だけは、ずっと覚えている」

長篠で、私が幸村と? 乙女は捲し立てるように話す幸村をぼんやりと見つめながらも、やはり彼の話すことを信じられずにいる。幸村が何を言っているのか、全く理解することができないのだ。ありもしない記憶を話す彼は、普段と違う口調も相まって別人のようだった。

「……知らない。私はそんなこと……」

幸村の表情も、考えも、相変わらず読むことができない。だが、僅かながら幸村は乙女から目線を逸らした。

「あの地獄から私を救ったのは、紛れもなくそなただ」

幸村は乙女からゆっくりと離れ、姿勢を正した。慌てて乙女も衣服を整える。雲の隙間から見えた月光が辺りを再び照らした。苦しそうに顔を歪めながら、幸村がそう言い放つのを乙女は黙って見つめるしか出来なかった。何と言ってあげれば、幸村はこの渇いた心を埋めることが出来るのだろうか。その答えは乙女には存在しない。

「……つまらぬ戯言だと思って聞いてくれても構わない、と先程は言いました。乙女様が信じてくれなくても……私は……きっと何度この世に生を受けたとしても、貴方様の元に馳せ参じるでしょう……」

「あ……幸村……?」

語気を弱めた幸村はふらりと体を傾け、上半身を乙女の肩に預ける形となった。

「寝ているの……?」

すうすうと寝息が聞こえる。どうやら酒が回ったのか、眠ってしまったようだ。いくら寝ているといっても武人である。乙女一人の力では彼を動かすことは不可能だ。風邪を引かれても困るため、乙女は幸村をそっと床に寝かせた。介抱するために人を呼びに立ち上がり、乙女は幸村に振り返った。

幸村は何事も無かったかのようにすやすやと眠りに就いている。何とも不気味な話だ。けれどもあの幸村の沈痛に満ちた顔を思い出せば、乙女は己の胸が苦しさで満ちていくのを感じるのだった。



宴が明け、日常が戻る。
あの後も幸村は、乙女に対して敬意を払い、真摯に仕えている。あの日彼女を呼び捨てし、敬語を崩してまで秘めた思いを解き放ったことが嘘のようだった。

触れてはいけないことなのか。乙女はそう考えもしたが、あの夜話したことは一体何だったのかということをさり気なく指摘した。だが既に幸村の記憶にはないようで、「酒に酔っていて変なことを言っただけでしょう」と言うのみであった。これには乙女も閉口するしかない。だがあれが嘘だとは到底思えない。

幸村が家を出奔してまで乙女に仕えたのは、きっと幸村が経験したという出来事に起因するものだろう。乙女に会いたいがための行動なのだ。

乙女の戦いはまだ終わらない。天下統一を目標に据えている彼女は、まだ激しい戦に身命を賭すことを覚悟している。

幸村の話を信じるかどうかは、乙女にしか決めることができない。だからこそ、信じようと彼女は思った。

もしこの先、幸村のいう「地獄」のような戦場に、彼と共に身を投じることが出来たのならば。

彼と共に、同士として戦ったのだという遠い記憶を思い出せるのかもしれない。

例え見果てぬ夢だとしても。乙女は、さらなる戦に備えて準備をしつつ、そう思うのだった。

(20240221)
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