分かってくれとは言わない
「慶次様。またこんな所でお眠りになられているのですか」
乙女は呆れた様子で、いびきをかいて寝ている慶次に呼びかけた。
ここは兼続の書斎である。借りた本を返そうと思って訪れた乙女だったが、部屋に居るのは傾奇者ただ一人だけ。呼び掛けにも答えず寝ている慶次を横目に見ながら、部屋の中に入る。
そんな彼を放置しつつ、彼女は本を元々置いてあった場所に仕舞ってから、部屋を出ていこうとした。
「おい、あんた」
音もなく静かに、むくりと起きた慶次は後ろ姿を向ける乙女に呼びかける。彼は大きく欠伸をし、背筋を伸ばした。
「あら、慶次様。あんなにいびきをかいていらしたのに……お昼寝の邪魔をしてしまいすみません」
静かにしていたつもりだったのだが。乙女はそう思いながら改めて部屋に入り慶次の目の前に座った。
「いいや、丁度良かった。兼続も居ないことだし、あんたに聞いておきたいことがあるんだ」
やけに神妙な面持ちだった。乙女は慶次の言葉の続きを待つ。
「あんたは、兼続のことをどう思ってんだ。いつもあいつにくっついているが、どうだ、一緒に居るのは」
乙女は兼続に仕えている人間だ。慶次もそれを知っているし、彼女には彼が何を言わんとしているのかが分からなかった。分からないままに、質問を彼女なりの答えで返す。
「兼続様ですか? 私は兼続様のことが好きですから……あの方の義を重んじる心も、清廉な所も……私が今のまま私で居られるのは、あの方あってのことです。私はあの方のように、清くありたいものですから」
乙女は兼続を信奉している。何か一つのことを信ずるのは、危うさを生むこともあるのだと慶次は思っている。例えば。
「そういった部分は、確かにあいつの魅力だろう。俺だってあいつのそういう一面が好きだ。だがな、清廉に過ぎるってのは、弱点にもなりうると思わないかい? この世界は汚いことも平気でやれる気概がないと駄目だ。あんたにはそれが出来るのか、気になってな」
慶次の目つきは、普段より少しだけ、優しげに向けられたように乙女には思えた。そんな彼の様子に対して、彼女は少しの間考えるような素振りを見せる。
「……私はあの方が望む世界を見ていたいだけです。綺麗なものだけ見ていたいというのはわがままでしょうか」
つまり、汚いことはしないということだ。乙女も主君と同じく、この乱世に生きながら清く正しくあろうとしている。
慶次には、それが気がかりだった。乙女は兼続しか見ていない。兼続と同じ目線でしか、世界を見ようとしていない。このままではきっと、いつか共倒れしてしまうだろう。
「……乙女。俺と一緒に、旅にでも出ないかい」
乙女はきょとんとした様子で慶次を見つめた。唐突な提案に戸惑っているようだった。が、すぐに平常心を取り戻す。
「面白い提案ですけど……やっぱり私は、兼続様の傍に居ないと」
乙女は、小さく笑った。
慶次も、こんな願いなんて、聞き入られないだろうねえと言いながら声を上げて笑う。
笑っている姿だけを、彼女に見せた。
やっぱり俺には無理か。
心の中でそう呟く。
兼続がなんだと理由は付けているが、結局の所慶次は乙女のことが気になっているのだった。兼続にしか拠り所を持たない、彼女のことを。
彼女の視線を釘付けにする友に少しばかりの嫉妬を覚える。らしくないと慶次は自嘲した。
彼女がこの世を信じられなくなった時、もう一度同じことを。
慶次は去っていく乙女の小さな後ろ姿を見ながらそう考えるのだった。
(20240316)