坂本城の幽霊
「坂本城の幽霊?」

坂本城。琵琶湖に面したその城は、数年前本能寺で信長を討ち、山崎の戦いで謀反人として討たれた明智光秀の居城である。

坂本城は再建された後、城主を変え使用されていたが、この度廃城になることが決まった。秀吉が浅野長政に、新たに城を作れという命を下したのである。城はもう完成し、彼は坂本城に出入りしなくなった。だがその城には一つ問題があった。

「そう。何でも、城を再建した時から霊の仕業なんじゃねえかって言われたくらい、不可解な現象が起こっていたらしいンだ。だからもう使うのをやめようってことになった」

利家が説明したのは、坂本城に居ると言われた幽霊のことだった。噂では聞いていたが、本当に幽霊が居るのだろうか。乙女は興味深そうに耳を傾ける。

「その幽霊が明智光秀だとしたら、城その物を壊しちまったら祟られるかもしれない。だから秀吉は判断に困ってる。本当は城を解体して資材として使いたいンだが、難しい所だ。で、本当に幽霊が居るのかどうかを調べる……その白羽の矢が立っているのが、お前ってワケだ」

本当に明智光秀が幽霊として現れるならば。乙女は自分が選ばれるのも道理だろうと思った。元々彼と共に斉藤家に仕えていたのだ。古い付き合いで、親交があった。最もそれは過去の話である。光秀は信長に仕えたが、乙女は秀吉に仕えた。旧友と敵対するのも、乱世の中では当たり前であることだ。

「……まあ、私は光秀と仲良かったしね。いいよ、本当に光秀なのか確かめに行っても」

山崎の戦いは、乙女も秀吉旗下の将として参陣した。光秀とは直接会うことは最後までなかったが、同じ釜の飯を食べた仲として、思うところが無い訳ではなかった。

敵対してしまった自分を、恨んでいるかもしれない。実際に、恨まれていても不思議ではないことを、乙女は光秀に対して行っていた。それは、誰にも言っていない。利家だけではなく、秀吉に対しても。

墓まで持っていくつもりだったのだ。だから、乙女は坂本城に出るという幽霊の噂を小耳に挟みつつも、干渉しないつもりだった。だが、その重荷を降ろす時が来たのかもしれない。乙女は覚悟を決めた。

「誰も居ないのに物音がする……そう言われてる部屋に、とりあえず行ってほしいンだ。俺も着いていくからな。知らない間に賊が潜んでいるかもしれねえし 」

利家が居るならば、ひとまずは安全に行動できそうだ。乙女は静かに頷いた。乙女にとっては、例え幽霊であるとしても、光秀に会いたいという気持ちが昂っているのだった。

決行の時。夜中に誰も居ない城に忍び込むというのは、戦で感じる恐怖とは別種のものだ。二人で龕灯を手にして、城の中を歩く。

「自分の足音も怖く感じるぜ……」

利家さえも恐怖を感じていた。乙女は慣れない場所を歩くことに戸惑いつつも、毅然とした態度を崩さないでいる。自分の中にあるわだかまりが解けるのならば、怖くはなかった。

「幽霊……本当に居るのかな」

映る影は二人分。足音も二人分。城の中には、今のところ怪奇現象は起こっていないようだ。そうこうしているうちに、出ると噂の部屋の前に二人は着いた。

「ここが、例の部屋だ」

利家がそう言うと、乙女は間髪入れずに部屋に入った。利家は反して、恐る恐る歩みを進める。

「暗くて良く分からねえが……異常は特に、」

「光秀が、居る」

「はあ!?」

利家は自分が冷や汗をかいているのを感じた。灯りで部屋を照らしても、何も見えない。物音一つしない。幽霊なんぞ法螺話だと笑って帰るつもりだったが、そうもいかなくなってしまった。乙女は一体何を言うのか、怖がらせているだけなのかと思うも、彼女の様子はそれが嘘ではないということを物語っているようだった。

「光秀……私……あなたに謝らないといけない」

利家から見れば、彼女はただ虚空に向かって一人で喋っているようにしか見えない。思わず後ずさりし、部屋を出た。乙女を置いていく訳にもいかず、入口付近で足を止める。

「……乙女殿。貴方には随分と辛い思いをさせてしまったようですね」

微かに、乙女の声でも、利家の声でもない男の声がした。利家の心臓が跳ねる。その声の主は聞き間違いようもない、利家も良く聞いた光秀の声そのものだったのだ。

「私、もっと光秀に寄り添えることが出来たら良かった。貴方がまだここに居ることが証拠でしょう。現世に強い思いがあるから、この城に居る」

利家はそっと部屋を覗いた。やはり、乙女の姿のほかには何も見えない。だが本当に居るのだ。坂本城に巣食う幽霊は。

「私は誰のことも恨んでいません。この城を新たに使っていた人間を呪いたい訳でも。ただ……」

再び、光秀の声が聞こえた。だが最後の方は声が小さく、利家の位置からでは何を言っているのか聞き取ることは出来なかった。光秀だけではなく、乙女も。彼女が光秀に語った言葉は何を意味しているのか、利家は知らない。二人の間でだけ通じることなのだろう。

「……光秀。そう、そうだよね……ごめんね」

最後に乙女はそう言い残して、部屋を後にした。

「本当に幽霊は居たってことで、良いんだよな?」

来た道を戻りながら、利家は恐る恐る尋ねる。元々の目的は、本当にこの城を解体して良いのかということを確かめることだった。光秀の霊が本物なら……いや、本物だと認めざるを得ないことは利家も知っているが、念の為に、乙女に聞いた。

「いいよ。光秀は死人とは思えないほど、相変わらず髪も装束も整っていた。今まで物音がするだけで誰にも気付かれなかったこと、利家でさえも分からなかったことを踏まえると、やっぱりこの世のものではないと思う。私には、生者にしか見えなかったけれど」

霊が見えやすい人間とそうでない人間が居るのだとはよく言うから、きっと乙女は見えやすかっただけだ。利家はそう思った。むしろ、そう考えないと辻褄が合わないのだから。

「それよりさ、……光秀とお前は何話してたンだ? いや、言いたくなければ言わなくて良いんだがよ」

まだ暗い夜道を二人で歩く。乙女は少しの間黙っていたが、やがて口を開いた。

「私、光秀にさ……謀反のこと、打ち明けられていたの。きっと私は、彼にとって胸の内をさらけ出すに値する人間だった。付き合いも長かったしね。けど私は応えなかった」

利家は、その事実を初めて知った。きっと誰にも言っていないのだろう。謀反に関与していた疑いが持たれてしまうのだから。

確かに、乙女が深い後悔を抱いてしまうのも無理はない。主君を殺す非道に協力するのは不可能であっても、友人を亡くすのは何時であっても悲しいことである。

「だから、光秀は私のことを良く思ってないかもしれないって思ってた。光秀を討つ為の戦に、私は赴いたから。けどさ、あの場で光秀が私に言ったのは、呪詛でも何でもなかった」

「なんて言ったんだ、あいつは」

きっと、それは利家が聞き取ることが出来なかった部分だ。光秀は一体何を言ったのだろうか。

「娘のことが心配だから、この城に居るって言っていた。実際、隙を見て本当に忍び込んでいたみたい、あの娘は。私はずっと光秀のことが胸の中でつっかえていたのにさ、彼は私のことなんか何とも思ってなかった。恨むなんて以ての外。まあ、彼の姿を見ることが出来たのは私が初めてだったみたいだけど」

笑っちゃうよね。私だけが思い悩んでさ。何年も、何年も。そう呟く乙女の声は、僅かに震えていた。彼女が責任を感じる必要など、初めからなかった。それは喜ばしいことであるはずだが、彼女にとってはそうではなかったのだ。

「乙女……」

利家は、彼女に掛ける言葉を浮かべることが出来なかった。自分の不器用さに恥じ入る。

城で物音が聞こえていたというのはきっと、娘に会いたいがため光秀が起こした怪奇だったのだろう。常に娘の行く末を案じていた彼のことであるから、不思議ではない。あわよくば、娘に気づいてほしかったという気持ちもあるはずだ。そんな彼のことを見つけたのは、娘ではなく乙女だった。ただそれだけの事だ。

「何かさ、光秀のことは、単に友人として好きだったけど……だからこそかな、失恋した気分。私に嵌められていた首枷は解かれたはずなのに、胸には穴が空いているような気がする。私を恨んでいるわけじゃないとは言っていたけど、彼が私に持っていた感情はそれだけだった。それ以外、何もなかった」

だが乙女にとっては、それだけの事なのだと済ませられるものではなかった。

光秀があの日乙女に話した叛意。それは真実であったはずだ。彼女に心を開いていたのも、嘘ではなかったはずだ。

それが信じられなくなった。いっその事ならば、恨んでくれていた方が良かった。感謝も怒りも悲しみも、光秀は乙女に対して何の感情も差し出さなかった。それが酷く苦しいのだ。

「あんまりさ、思い詰めンなよ。この世のものじゃない以上、生前持っていた思い出とか感情が消えてるとかかもしれないンだからな」

利家が言うことの出来る精一杯の言葉だった。なんて事してくれてンだ、光秀。利家は心の中で思った。握った拳のやり場もない。心苦しいまま、帰路に着くのだった。

やがて、利家は坂本城を取り壊すのは辞めるべきだと進言した。幽霊は本当に居る。城を壊せば祟られるかもしれないのだと。

だがさらに時が過ぎた頃、乙女の行方が分からなくなったとの知らせがあった。嫌な予感がした利家は、家臣と共に自ら坂本城に入った。

あの日二人で入った部屋には、乙女が倒れていた。

毒を飲んで、自害していたのだ。

これは明智光秀の祟りだ。そういった噂が広がり、やはり坂本城は呪われた城なのだという話が瞬く間に伝えられた。

だが利家だけは、それは違うのではないかと感じていた。きっと乙女は、光秀に思い知らせたかったのだ。自分がどれほど光秀のことを思い、心を痛めていたのか。それを伝える手段が、自らの死だったのだ。

乙女が死ねば……未だあの部屋に光秀が居るのなら、彼の心には乙女を思いやる気持ちが生まれる。そう思ってのことだったのだろう。

本当のところは分からないが、利家はそう考えた。

だがもう一つ、考えられる理由があった。幽霊が出るという噂は、風化しつつある。そのため、やはり城を取り壊すべきだという意見が強く唱えられるようになっていた。

乙女の死により、今再び、光秀の怨念を恐れる声が大きくなっている。きっと再び、世論は城を壊すことを辞めるという方向に傾くだろう。乙女は光秀の為に、城を残すために死んだ。美談に出来るものではないが、そういった捉え方をすることも可能である。

利家は乙女を丁寧に弔ったが、光秀と乙女、二人の霊があの城の中で今もさまよっているという浮説が途絶えることはなかった。

死人に口なし。乙女の死の真相を知る人間は誰も居ない。

坂本城の幽霊は何を思っているのだろうか。利家は思う。答えが出ることは、今も、この先もないのだった。

(20240401)
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