そうだ、佐和山に行こう
「左近殿。ついに士官先が見つかったらしいですね」
どれだけせがまれても士官を断り続け、浪人として生きてきた左近がやっと地に足を付けた。乙女は同郷出身のよしみとして左近を敬愛していたため、その知らせを嬉しく思った。
「そういうあんたも、居場所が見つかったようだが」
乙女も一介の傭兵として、各地を渡り歩いていた。乙女は武芸に優れているとはいえ、それでもこの乱世の中を一人で駆け抜けることは困難なことだ。特に、女であることは時に足枷となる。
実際、左近は彼女が幾度も危険な目に遭ってきたという話をよく聞いていた。
そんな彼女が嫁に行くというのだ。乙女が左近の士官に驚いたように、左近もまた乙女の嫁入りに驚かされていた。
「左近殿と違って、私は望んで受け入れた訳ではないのですけど」
「と、いうと?」
「傭兵ですから、基本的には金を積まれば私は従います。金を積まれても気に入らない相手ならば従わないという奇特な方も居るようですけど、私はそんな器用な真似は出来ませんでした」
例えば、かの雑賀衆の頭領は金だけではなく人も選んでいるのだという。有名な話だった。
「金を積まれて、嫁に来いと命じられたというわけですかい?」
乙女は、こくりと頷いた。逆らえない自分が情けなかった。だが他に打つ手も特に無かったのだ。
三成という使えるべき相手を見つけた左近のように、心から尽くしたいと思う相手に巡り会えることが出来たならばどれほど良かったことか。乙女はため息を吐いた。
「あんまり、民衆からの評判も良くないんです。なんでこんなことになっちゃったんだろう」
彼女の嫁ぎ先は、左近も名前だけならば聞いた事がある男だった。確かに、悪い噂を聞いた事がある。民への税負担を重くしていたとか、女癖が悪いだとか。左近の目からしても、清廉な乙女とは釣り合わないだろうと感じる。
「なら、俺があんたを攫ってあげましょうか」
いけすかない男の目の前で、ね。左近はさも愉快そうに声を出して笑った。
「面白い冗談ですね。それも悪くないかもしれません。左近殿ならば、私をどこまででも連れ去ってくれそう」
本当に攫うつもりならば、今この場でそうしてくれても良いのだ。それをしないということは、やはり冗談なのだろう。乙女は少しだけ残念に思う。自分のことを気遣ってくれているのは有難いが、左近ほどの勇を持つ人間でもこればかりはどうしようもないのだと。その事実をこれでもかと突きつけられているようだ。
「まあ、俺の軍略は常に冴えてる。あんたが困れば、俺の策が逆境も導くだろう。冗談では、決してないさ」
少しは期待しても良いのだろうか。左近の精悍な横顔を眺めていても、返答の続きは何も返ってくることはなかった。
乙女は結局、逆らえないままに男の元に嫁いだ。聞いていた評判からはそう乖離しておらず、乙女は側室の一人として迎えられた。
男が彼女のどこを気に入ったのかは分からないが、初めのうちは正室や他の側室を差し置いて乙女を愛した。だがそれも短いものだった。
それならば少しは自由を与えてもらっても良いはずだ。乙女はそう思ったが、男は許さなかった。軟禁状態であると言っても良いほどだ。愛を与えないくせに自分の元から離れるのは気に入らないのか、乙女を屋敷から出すことはしなかった。
そういった日々の中を、乙女は鬱屈として過ごしている。かつてのように武器を持って戦うこともなくなった。愛用していた刀は奪われた。そんな毎日が過ぎていく。
何か欲しいものはないか。
ある日珍しく乙女の元を訪れた男は、そう彼女に尋ねた。領民に重い税負担を負わせ、私腹を肥やしているのだろう。その金で機嫌を取りに来たのだと乙女は思った。
「何も欲しくなどありません。ただ……海が見たいものです」
乙女はそう言った。欲しいものなどない。強いて言うならば、自由が欲しかった。
大和には海はない。昔から、海への憧れがあった。
初めて海を見たのは、秀吉の小田原征伐に同行した時の事だ。左近に嫁入りを伝えたあの時からそう遠くない過去である。
そんな彼女にとって、海は自由の象徴のようだった。どこまでも続く青と、どこへでも行く傭兵としての自分を重ね合わせたのだ。
今の彼女は、自由とは程遠い。このような願いが受け入れられるとも、思わなかった。
実際に、目の前の男の顔は恐ろしい顔をして彼女を見ていた。折角欲しいものはないかと聞いてやったのに、それを無下にされたことに対する怒りだろうか。それとも、屋敷に閉じ込めていても何も言わなかったはずの彼女が逃げ出すことを仄めかしたことに対する怒りか。
乙女は、どちらでも良いと思った。このまま逆上した男に殴られても、殺されたとしても。
そう思って、目を閉じた時だった。
襖を突き破った苦無が、男のすぐ後ろの壁に突き刺さったのだ。
男は腰を抜かし、体を地に落とした。床を這い苦無が投げられた位置から逃げようとすれば、またそのすぐ近くの壁にもう一つの苦無が風を切って飛んで来た。
敵襲だ。男は叫ぶ。だがこの屋敷には僅かな手勢しか居ない。多くは力を持たない女中ばかりだ。
武器さえあれば、全て蹴散らすことが出来るというのに。乙女は歯噛みした。全てこの男のせいだ。こんな男と共に死ななければいけないのか。男は威勢を失って、足を震わせてながら必死に助けを求めている。
武器がなくとも、戦わなければいけない。乙女は立ち上がった。気配を感じ、躊躇せずに障子を蹴り破ればそこに刺客が居た。すかさずに回し蹴りをお見舞いする。その隙に刺客が持っていた短刀を奪い、腕を斬った。深く斬ったという感触はない。仕留めることは出来なかったが、刺客は遠くへと逃げていく。
「何が目的だ!」
乙女は短刀を構えながらそう叫んだ。武器が手に入ったのは幸運だった。
だが、空には雲が立ち込めており、どこに敵が潜んでいるのかを正確に探すのは困難だった。
苦無はきっと遠くから投げられていた。刺客はまだ潜んでいる。見渡しても広がるのは闇だけで、乙女は焦りを感じ始めていた。ちらりと先程まで居た部屋の中を見れば、男は苦無の刺さった壁の近くから動けずにいた。なんとも情けのない男だ。自分から刀を取り上げておきながら、結局は傭兵だった自分の力を借りるのか。
なぜ自分はこんな男の為に生死を賭けなければいけないのか。
乙女がそう思い悩んだ隙を、敵が見逃してくれるはずもない。
「……!?」
彼女の背後から影が忍び寄っていた。手首を捻られ、ついに刀を地面に落とす。無防備な状態となった乙女の左肩から腕を回され、後ろに引き寄せられた。
「俺に気づかないようじゃ、傭兵としては失格だ」
首元に刃が近づけられる。聞き覚えのある声だ。
「さこっ……」
口を手で覆われる。紛れもなく、この声の主は左近だった。
「あんたを攫いに来た」
耳元で、乙女にだけ聞こえるように左近は囁いた。吐息が耳にかかり、乙女はどきりとする。
あの日何気なく話したことを、左近は覚えていたのだ。涙が出るほど、乙女は嬉しく思った。きっと男には今まさに首に刃を突きつけられる恐怖に涙を流しているようにしか見えないだろう。
男は足をわなわなと震わせながらも、刀を抜いて近づいてきた。男の周りには数人の人間が主を守ろうとやっと駆けつける。哀れなものだと乙女は思った。きっと皆、左近が連れてきた者に殺されるのだ。乙女の方向からは左近の顔を見ることは出来ないが、彼が鬼のような形相をしているだろうということを想像するのは容易だった。
「今だ、やれ!」
左近がそう指示すれば、どこからともなく複数の忍びが姿を現した。男を守る人間の内一人が持っていた灯りが消されると、それだけで男たちは狼狽えてしまったようだった。この光景は、この後のことはもう考える必要はないと訴えかけていることを表しているように乙女には思えた。
「さあ、ずらかりましょうか。俺の部下のことは気にしなくて良い。あいつらは上手くやるはずだ」
乙女の首元から刀が遠ざけられる。何かを左近が投げると、辺りは煙に包まれた。煙幕を張ったようだ。
「左近殿、どうして」
小声で乙女は呟いた。本当にあの日「攫ってあげましょうか」と言われたことが実行されたのだとは信じられなかった。
「馬を繋いである。話はそれからだ」
先を行く左近に置いていかれないようにと、乙女は急いで後をつける。咄嗟の出来事には戦に生きてきた本能が働いたのか機敏に動くことが出来たが、少しは安心したせいだろうか、着物がやけに重く感じられた。
「あの男におさらばする時だ、乙女」
左近はそう言って馬を走らせる。
馬に乗るなどいつぶりだろうか。自分が住まされていた屋敷に振り返らずに、乙女はただ懐かしさだけを噛み締めていた。
「未練などありませんから、別れを告げる価値すらありません」
乙女がきっぱりそう言い切ると、左近はそれもそうか、と小さく笑った。
「何故、今になって私のことを助けてくださったのです。しかも、あんなやり方で」
月の明かりすらない夜の中を、馬は器用に駆けている。追っ手が居ないことを確認して乙女は尋ねた。危うく、乙女が死んでしまう可能性もあったのだ。助けに来るのならばもっと穏便なやり方でも良いではないか。そんな非難の気持ちを込めた。
「うちの殿は汚いやり方が嫌いで、正々堂々戦うことを好む。だが、生憎俺はそういう主義を持ち合わせていない。あの男を殺す必要があったのさ」
それに。左近は続けて言う。
「どうせ攫うんだったら、男の目の前であんたを奪う。その方が面白いと思ったんでね。全ての布石が整ったのが今日だったわけだ」
「趣味が悪いですよ」
乙女はそう茶化したが、左近なりの考えがあることを知って安堵する。純粋に嬉しかった。
「でも、そんな趣味の悪い男が好きでしょう?」
「それも……そう、ですね」
恥じらう彼女の可愛らしい姿を見れば、左近も尽くした甲斐があるというものである。
もし彼女が男のことを愛したのならば、無理にこのような事を起こす必要もなかったのかもしれない。だが彼女は男を最後まで愛さなかった。
こうなる事が初めから分かっていれば、あの時に自分の元に引き寄せていても良かったのかもしれない。いや、初めから迷わずにこうしていれば良かったのだ。左近はそう思った。
「ところで、海が見たいというのは」
今まで貯めてきたツケを払う日が来たのかもしれない。彼女の望みを、聞いてやろうではないか。あの男と違って。左近はそんなことを思いながら話た。
「そんな初めから、聞いていたというのですか……照れくさいな。もう一度、海を見てみたいと思ったのです。小田原で見た海を」
左近と二人で見た海だった。今もあの光景は忘れられないものだ。
「小田原の海も良かったが、近江の湖も負けていないね」
彼女の望みならば何でも叶えてやろうと思っていた左近だったが、気づけばそのような事を口走っていた。
事実、琵琶湖は海にも劣らない美しさを持っているからだ。
「……それも良いかもしれません。左近殿が愛している湖ならば。海のように雄大で、麗しいものなのでしょう」
「佐和山から、眺めてみるとしますかね」
乙女は頷いた。
自由になったのだから、海に縛られる必要すらないのだ。
「湖を見た後は、久しぶりに鍛錬もしたいものです。あの屋敷に居たせいで腕が鈍ってしまいましたから」
「今度は、俺の背中を取れるようになってくださいよ?」
「そうですね。当面はそれが目標です」
まだ見ぬ湖は、小田原で見た海よりも心に刻み込まれるのかもしれない。
海にも、空にも負けないだろう青を思い浮かべながら、乙女は清々しい気持ちに包まれたのだった。
(20240421)