#02 海に馳せる
エルヴィンさんに頼まれていた資料を手に廊下を歩いていると、開け放しにされたドアを見つけてなんとなく中を覗き込む。その小さな好奇心がいけなかったのだ。
「お前らずっと地下のゴミ溜めで暮らしてきたんだろうが。ここは清潔に使えよ」
「あ?てめぇ……今なんて言った?」
「なに……?貴様、上官に向かってその態度はなんだ!」
今にも殴り合いになりそうな二人に慌てて部屋に入った。
「あ、フラゴン分隊長。探しましたよ」
「……なんだ?ミョウジ」
「どうぞ」
少しバツの悪そうな顔で私を振り向いた分隊長に、タイミングよく右手に持っていたフラゴン分隊長宛の資料を差し出す。この場に出くわす前にエルヴィンさんの執務室に立ち寄ったのは不幸中の幸いだった。
「エルヴィン分隊長から預かった資料です。この後、三時から会議だそうですよ」
「ああ。ご苦労」
「それと、分隊長がお好きな珈琲豆が西棟に届いたそうです。一人分取り置きしておくように言っておきましたので、会議前にお飲みになられてはいかがでしょうか?」
「そうだな。ここに居ても時間の無駄だ」
「あぁ?」
分隊長に飛んで噛みつきそうなリヴァイはファーランとイザベルが二人がかりで抑えていたので、私は分隊長の背中を押して部屋から追い出した。扉を閉める間際、苦笑いするファーランとイザベルに私も倣ったような表情を返して。
まったく、お互いもう少し上手くやれないものかしら……。
「誰だ」
コンコン。と一時間ほど前に後にした部屋を再び訪れて扉を叩くと、中から低い声が返ってきた。リヴァイだ。
「ナマエ・ミョウジです。さっき、」
彼のことだから私の名前なんて覚えていないだろう。と先ほど訪れた人物であることを伝えようとしたけれど、伝えきる前に案外あっさりと内側から扉が開かれた。
調査兵団といえど一介の兵士に与えられる部屋なんて窮屈なもので、彼の背中越しに部屋全体が見渡せるのだがあとの二人の姿はどこにもなかった。
「……ファーランとイザベルなら食堂に行った」
「随分と遅い昼食ね。あれ、早い夕食?」
「昼食だ。今の今まで掃除をしていて食べ損なったからな」
言われてみれば。部屋は先ほどとは見違えるほど綺麗で、埃も塵もその姿をさっぱり消していた。
「短時間でこんなに……お疲れさま」
「ああ」
「あ、そう。これを渡しに来たの」
洗濯したばかりのシーツと掛け布団、枕カバーだ。綺麗に畳んだ三人分のそれを差し出せば、彼は案外すんなりと受け取ってくれた。
調査兵団……というか兵士そのものにあまり良いイメージを持っていない雰囲気だったから、これはちょっと想定外。
「洗いたてだな」
「今朝干したのがちょうど乾いたの。元からあるものは随分と埃をかぶってたでしょう?」
「ああ、助かる。だが、これは俺たちの分じゃなかっただろう。こちらに譲ったらお前が不便じゃないか?」
「ふふ。優しいのね」
無表情。だけどその言葉から彼の優しさと繊細さが窺えて思わず口元を緩ませると、彼は驚いたように僅かに目を見開いた。
「大丈夫。それは私の予備のものだから。ほら、もうすぐ季節が変わる頃でしょう?衣替えついでに一気に洗濯したら、そこにちょうどあなたたちが」
「そうか。今のを洗濯し終えたら洗って返そう」
「あ、いいの。それはあげる。お古で悪いけど、一応あまり使ってないものを選んできたから」
「……優しいんだな」
フッ。と小さく笑った彼の穏やかな表情に二、三度瞬きをした。ああ、さっきの彼の驚いた表情はこのせいか。
もうすでに仏頂面に戻ってしまった彼に負けず劣らず、私も普段は表情が乏しいらしい。そういう人間にふとした瞬間に柔らかな一面を見せられると、人間でも豆鉄砲を食らってしまうものなのだ。もしかしたら、彼と私は結構似ているのかも。
「他に困ったことはない?こう見えて班長だから、いろいろと融通が効くの。職権濫用かしら?」
「いや、それほどの仕事をしているんだ。多少甘い汁を吸ったって文句は言われねえだろ」
「それならよかった」
「まあ、せっかくの善意だ。俺も甘い汁を分けてもらおうか」
「ええ。喜んで」
⌘ ⌘ ⌘
「ほう……班長になると部屋もそれなりだな」
「そこまで広くはないけれど、やっぱり一人部屋は快適だよ」
「悪くねえな」
紅茶が好きだという彼に茶葉をわけると言えばわざわざ部屋まで取りに行くとついてきた。リヴァイは私の部屋をぐるりと見回すと、満足気に頷いた。どうやら、彼らの部屋を見るに相当な綺麗好きらしい彼のお眼鏡にも適ったらしい。
そんな彼に、約束の茶葉と一緒にひとつの木箱を差し出した。
「はい。どうぞ」
「……これは?」
「ティーカップ。頂き物のペアカップなんだけど、一人じゃ二つも使わないでしょう?私とお揃いになっちゃうけどそれなりに上等なものだから、よかったら」
「構わない。ありがたくいただこう」
無表情だけれど、気のせいかちょっと嬉しそう。彼は本当に紅茶が好きらしい。私も紅茶には凝る性分なのだけれど、兵団内にはそのように優雅にティータイムを楽しむような人間がいないので仲間を見つけて嬉しい限りだ。
「そうだ。つい一昨日、またカップと茶葉をいただいたの。下ろしたてのカップで少し遅めのアフタヌーンティーにしない?」
「ああ」
頷いた彼にまた嬉しくなって、棚から未開封の茶葉が入った缶とカップの入った箱を取り出す。
「これもペアカップなんだけど、もし気に入ったら持って帰って」
リヴァイは目を細めて、ひとつ頷いた。
「そういえば、リヴァイたちはエルヴィンさんの勧誘で入団したんだって?」
「勧誘と呼べるほど丁寧なものじゃなかったが」
「あの人、たまに手段を選ばないところがあるから」
「そうらしいな」
呆れたようにため息を吐いたリヴァイは、湯気のたつ紅茶を上品に一口嗜んだ。
眉間に寄った皺が彼の苛立ちを顕著に表していたけれど、その所作は到底地下街だけで生きてきた人間のものとは思えなくて、でもそんなことを出会って数時間の私が聞くのも不躾というもので、彼にもいろいろあるのだと自分に言い聞かせてその衝動を抑えた。
「悪い人ではないんだよ?エルヴィンさんも、フラゴン分隊長も」
「さあな。俺にはいけすかねえ野郎だ」
「あなたがそれを言う?」
「…………」
「嘘だよ。リヴァイはちょっと無愛想だけど、瞳が優しいもの」
「……なんだそれは」
視線を逸らしてまた一口紅茶を飲んだリヴァイは照れ隠しをしているみたいだった。こうして一緒に紅茶を飲んで、話して、だんだんと彼のことがわかってきた気がする。
「お前はどうして調査兵団なんかに入った」
調査兵団"なんか"か……。それもそうだ。わざわざ"天敵"がうよめく壁の外に飛び出すなんて正気の沙汰じゃない。多くの人がそう思っているのは承知の上だ。
「うーん……簡単に言うとね、気になるの」
「気になる?」
訝しげに眉を潜めるリヴァイ。そうだよね。それだけじゃ何も伝わらない。
どうして。と入団の動機を聞かれることはこれが初めてじゃない。寧ろ、耳が痛くなるほど何度も何度も聞かれた質問だった。その度に私はいつも適当なそれっぽい理由を口にしていたけれど、真っ直ぐ私を見つめるその瞳には、本当のことを話してみたくなった。
「これから話すことは内緒だよ?」
「……ああ。約束しよう」
「んふふ。実はね、私の両親は外の世界に関する書物をたくさん持っていたの」
「そういう類のものは王政に禁止されてるだろう?」
「うん。私もなぜだかわからないけど、持ってたの」
「…………死んだのか」
「流行病でね」
そっと瞬きをすると、彼は謝ることも慰めることもせずに黙り込んだ。ああ、そうか。彼も同じなんだな。きっと。
「それでね、小さい頃、私はその本を読むのが好きだったの。本の中には、私の……いや、人類の知らない美しい景色がたくさん広がってた」
幼い頃、私はいつだって小さな体に見合わない大きくて分厚い本を抱えて、大事に大事にページを捲っていた。その時間はまるで、白昼夢。起きているのに夢を見ているみたいで、とても不思議な気分だった。
「知ってる?世界の七割は"海"っていう塩水が覆ってるんだって。他にも、砂の雪原に炎の海、氷の大地……きっと、とても綺麗よ」
「"海"、か……」
聞き慣れないその単語を口にしたリヴァイの発音は、心なしかどこか拙かった。
「いつか一緒に見ようって、そう話してた。だけど不運にも病気で逝ってしまって……最初は悲しくてなにもする気になれなかったけど、孤児院に行く時にこっそり千切って持ち出したその本の一ページを見たら、なんだか力が湧いてきた」
あのときの感情を今でもふとした瞬間に思い出す。
私だけが生き残ったのには、何か意味があるんじゃないか。そして二人の死に意味を与えるのも、私なんじゃないかって。
私はあれからずっと肌身離さず持っているその一ページを、胸ポケットから取り出して折りたたんでいたそれを広げてリヴァイに見せる。彼は年季の入ったそれをじっと無言で見つめた。
「……二人が見れなかった景色を、二人の分まで見たいって、そう思ったの」
両親と三人で本を覗き込みながら、空想の世界に想いを馳せるあの時間が幸せだった。今でも忘れない。あのときの心が満たされるような気持ちを。
「お前の両親は喜ぶだろうな」
「そうかな?」
「ああ。きっと」
「ありがとう。リヴァイ」
リヴァイが小さく笑った。その瞳はやっぱり、本で見たどこまでも広く青い海のように優しかった。
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