03



 初めて聴いたみょうじさんの演奏は、貧相ではないと自負している俺の語彙力でも到底表現しきれない感動と衝撃を俺に与えた。情けないことに、演奏が終わって十数秒が過ぎた頃にようやく俺の口から出た言葉は「ええなあ」の一言だけだったけれど、みょうじさんは嬉しそうに、少し恥ずかしそうに顔を綻ばせて「ありがとう」と長い髪を耳にかけた。


 それから一週間が過ぎて、クラスも違う、連絡先も知らない彼女がそこに居るかどうかわからないのに素早く弁当を食べ終えてふらりと音楽室に向かうと、幸運なことにそこには目当ての人物がドアに背を向けて、窓辺に両肘をついて外を眺めていた。

 演奏を聴かせてもらったときもそうだった。クラスはそこそこ離れているし、連絡先も知らず、何日の何時に音楽室でと約束した訳でもなかったから、どうしたものかと悩んだ末に土日を挟んだ月曜の昼休みに音楽室に顔を出してみたらみょうじさんがピアノ椅子に腰掛けて楽譜を見つめていたのだ。聞けば、彼女も毎日ここを訪れている訳ではなくて、まったくの気分任せだと言うのだから、雑用で訪れた日、演奏を聴かせてもらった日、今日、と三度も来合わせるなんてなかなかすごい確率やなあ。と頬が緩んだ。

「みょうじさん」
「あっ、北くん。こんにちは」
「こんにちは」

 挨拶を交わしてから、ちょっとの違和感。なんやろか。何か引っかかる。首を傾げた俺にきょとんとするみょうじさんをまじまじと見つめていると、ああ、そういうことか。と納得した。

「今日は長袖なんやね」

 長袖、と言っても袖は何度か折り上げられて七分袖になっているが、ずっと半袖姿ばかり見てきた俺には新鮮に見えた。今日は昨日よりいくらか最高気温が低いとはいえ、三十五度を超える猛暑日だ。暑くないんやろか。

「半袖の方がいいんだけど、昨日体育で長い時間外にいたから肌が赤くなっちゃって……」
「ちゃんと日焼け止め塗ってたん?」
「体育の前に塗り直すの忘れちゃったの」
「気をつけなあかんなぁ」
「あかんなぁ〜」

 言われてみればちょっぴり赤みのある腕を摩りながら俺の真似したみょうじさん。……あかん、ちょっと、かなり、グッときてもうた。あんまお茶目なことせんといてくれへんかな。心臓に悪いわ。平静を取り戻すように小さく咳払いをして、教室のと同じ椅子をひとつ持ってきてピアノの前に置いて腰を下ろした。みょうじさんもピアノ椅子に座って、向かい合う形になる。

「みょうじさんて東京出身なんやろ?」
「うん。あ、やっぱりエセ関西弁むかつく?」
「いや?かわええと思うよ」
「えっ」

 みょうじさんがぱちぱちと大きな瞳を瞬かせて、じわりじわりと頬を赤く染めた。そこまで見届けて、ようやく自分が言ったことを認識した。

「……すまん。思わず、言うてもうた」
「いや、ううん。大丈夫。うん」

 かわええと思ったのはほんまやし、一度口から飛び出た言葉が思いのほか心にすとんと落ちついたものだから発言は撤回しなかった。するとみょうじさんは見るからに狼狽えて、初めて俺から視線を逸らして長い髪を耳にかけた。そういや俺が演奏を良いと言った時もそうしていたな。もしかして照れ隠し、なんやろか。かわええなぁ。一度認めてしまった感情は堰を切ったように溢れ出して止まらない。

 中学の頃、友人に聞かれたことがあった。「信介って女に興味ないん?」と。あれは同級生の女子に告白された直後のことで、三年間で片手で数えられる程度、告白というものを受けたことがあったが一度も首を縦に振らなかったものだから友人は「もったいない」と口を尖らせていた。もったいない。と言われても気持ちがないのに交際することは相手に対して失礼だと思ったし、それまで自分に向けられる好きだという感情を自分のものに置き換えてみてもいまいちピンと来なくて、卒業式の日に隣のクラスの女子から伝えられた気持ちにもとうとう頷くことはなかった。

 でも、今ならすごく、よくわかる気がする。いや、よくわかる。俯きながら、既に髪は耳にかかっているのにもう一度かける仕草をするみょうじさんを見て心に浮かんだ"好き"の二文字は、俺の心の中でピンと跳ねてその気持ちを自覚させた。

「……な、なんでそんなニコニコしてるの」
「照れとるみょうじさん、かわええなって」
「っ、北くん!」
「すまん。思わず言うてもうた」
「今のは絶対にわざとだった!」

 耳まで真っ赤にしたみょうじさんがぷりぷり怒るんがどうしようもなくかわいくて、ほんまにすまん。と笑うと両手で顔を覆われてしまった。残念やな、もっと見てたかったんやけど。

「北くんって、意外とチャラい人なの……?」
「そんな風に見える?」
「見えない、です」
「せやろ?俺は嘘言わへんから」
「うぅ……」

 みょうじさんは何か小さく呻きながら上半身を前に倒して膝に顔を埋めた。さっき心臓に悪いことされた仕返しや。なんて、みょうじさんにはそんなつもり毛頭なかっただろうに。俺みたいなずるい男に好かれてもうたばかりに。かわいくて、かわいそうやなぁ。