泣いてキス

用事があるからと先に帰ることを告げて帰路につく。あれだけ先生にご飯を奢ってもらったって言うのに、これからラーメン屋に寄るなんて言うもんだから男子高校生の胃袋は計り知れない。黙々と、時々鼻をすする音が聞こえる中先生はニコニコしながらみんなを見てた。逞しいなあ、いい姿だなあと小さく呟くものだから、あたしまで泣くのをやめてみんなのことをまじまじと見つめてしまった。先生の言葉通り、みんなは逞しくて凛々しくて、格好いいみんなのままだった。つくづく敗北とは何なのか分からなくなって現実味が遠ざかっていってしまった。こんなにもみんなは堂々としていて輝いている。勝った時と何1つ変わらないと思うのは、傍目には負け惜しみと取られるのだろうか。のんびりゆっくり歩いて、ようやく目的の場所に着く。毎日見てきたこの体育館は、この先あと何回訪れるだろう。きっと数える程度しか来れないんだろうなと思うと少し惜しくて、段差を、扉の硬さを、冷たさを、ひとつひとつ噛み締めた。


「あれ、マネージャーさんじゃないか」
「あっ、はい、お疲れ様です」
「聞いたよ、惜しかったね」
「はい」
「…今は何も言われたくないよな、ごめんね」
「いえ、そんなことないですよ。みんな、格好良かったですから」


精一杯作った笑顔を、先生は苦笑いで受け止めた。それから用具室を掃除するから体育館は開けておいてくれと頼み鍵を預かる。握りしめた鍵も、もう手にすることはないんだよなあとため息まじりに見つめた。錆び付いた鍵穴に小さな鍵を差し込んで回し、扉を開ける。沢山あるバレーボールは、レギュラー意外の子達が使うもの。ぐるぐる巻きのネットもポールもその子達用の物だ。さすが強豪というべきか、それなりの部員数の我が部は用具室を2つ占領してきた。もう1つある用具室はレギュラー用で、いつでも練習できるように綺麗に整頓されている。というか、あたしがしてる。暇があるときはこの広い方の用具室も片したりしているけれど、基本的にはレギュラーにつきっきりでほとんど手が回らなかった。最後くらいは、と久しぶりに足を踏み入れた。少しだけ埃っぽいそこは、それでも懐かしい大好きな匂いがする。小さな窓を開けて叩きで辺りを掃除していると、遠くから聞き覚えのありすぎる声。慌てて用具室の扉を閉めると、ガヤガヤと体育館にたくさんの足音が響いた。


「やばいラーメンでる!」
「脇腹痛ぇっ」
「及川本気サーブ打つんじゃねーよ!」


少しだけドキドキする。かくれんぼしていて、鬼が近くにいるときに息を潜めてやり過ごす時の感覚だ。そっと扉に手をかけほんの少しだけ開けて、背中をつけてその場に座る。ドン、ドン。誰かがスパイクに飛ぶたびに、振動が扉を伝って体を震わせた。目を閉じるとより一層近く聞こえるそれらの音に、耳を傾ける。


「フェイント無し!」
「フェイント無し!!」
「ア゛ァーッ」
「ずりィ!」


賑やかな声。バタバタ、コート内を走る足音。キュ、キュ、シューズが擦れる音。レシーブの小気味いい音、スパイクが決まった時の鈍い音。聞くたびに胸が高鳴る大好きな音。自然と緩む口元。「頼んだ!」松川の声だ。「っしゃァ!」これは花巻。ブロック決めたな。「わりっ、低い!」沢内が拾ったかな。「俺が打つ!」あー、岩泉に決められるんだろうなぁ。「こ、のぉぉ!」わ、湯田が取った。「次、俺!」ダァン、床に響くボールの音。ナイスキー、及川。聞くだけでどのシーンも鮮明に浮かぶ。だって3年間、毎日見てきたのだ。大好きな彼らの、大好きなバレーボールをしている姿を。最高に格好いい後ろ姿を。


「ぼちぼち片さないと見回りくるぞ〜」


ハ、と我に帰る。一体どのくらいこうしていたんだろう。窓から差し込む光はオレンジになってしまっていた。ついさっきまで聞こえていた声も足音もボールの音ももうなくて、ガチャガチャとポールからネットを外す音に変わっていた。慌てて立ち上がり、すぐそばにあった幕を引っつかんだ。ペールグリーンの大きな大きなこの幕は試合のたびに綺麗に拭いてシワを伸ばして、1番手を焼かされた相手だ。お前も何年も、みんなのことを見守ってきたんだもんね。足元に大きく広げて、見つめた。コートを制す。言葉通りのバレーをしてきたな、と今更ながら思う。膝をついてぎゅう、とかかえ込んだら胸の奥がグッと掴まれたような感覚に陥った。もう拭いてあげられないけど、シワを伸ばしてあげることもできないけど、でも、これからもみんなを見守っていってあげてね。あたしたちの分も。


「皆ちょっといいかい」


静かな声がここまで聞こえた。思わずドキッとして、固まってしまう。なんだか、聞いてはいけないことを聞いてしまいそうな予感。それでも耳はしっかり機能して、彼の言葉を待っていた。


「オイ止めろ!せっかくイイ感じで終わろうとしてんだ、このまま平和に終わろうぜ!」
「うるせぇ!!」
「何っ」


幕を握る手に力が入った。喧嘩、ではなさそうだ。もしそうなら岩泉がとっくに諌めてる。それなら。まるであたしもあの輪の中に入ってるみたいだ。緊張感が一体化してる。ごくりと、色んな思いを飲み下した。


「3年間、ありがとう!!!」


大好きな人の大好きな声が、頭の中にダイレクトに侵入してきて脳を揺さぶる。思考は追いついていないのに、目から漫画みたいにぼろぼろ雫がこぼれ落ちていく。嗚咽もでない、瞬きもしてない。すべて時が止まったまま、ただ涙だけが次から次へ流れていっていた。後ろでは、皆の泣く声が聞こえる。声を押し殺そうとして、それでも堪えきれなかった呻きのような声が苦しくて、切なくて、辛くて。聞きたくないのにどうしようもなくて、あたしはしばらくどうしていいかわからなかった。ああ、終わったんだ、と思った。彼の声が、言葉がそう告げたのだ。大好きだったあの時間も、あの瞬間も、すべて、なくなるんだ。もう二度と味わうことはできないんだ。いつかは訪れることだったはずなのに、こうして目の前に突きつけられるとどうしようもなく悲しい。せめてあと一回、二回、三回。欲張りだな。でもね、ずっとずっと見ていたかったんだ。彼の、彼らのキラキラな笑顔とか、力強いジャンプとかスパイクとかレシーブとか、張り上げた声とか、すべて。大好きだった、愛してた。手放したくなんか、ないよ。


「……っふ、…うっ……」


ようやく追いついた思考が脳を正常に働かせる。さらに溢れる涙と嗚咽。遠くで帰ろうぜと聞こえて、ちょっと待っててって大好きな声も聞こえた。キュ、キュ、となるシューズの音がこっちに近づいてくる。お願い来ないで、開けないで。たぶんもう彼はすぐそこに来ていて、あたしがここにいることにも気づいてるんだろう。こんな姿見られたくなくて、広げた幕を頭からかぶってできるだけ小さくなった。落ちかけたオレンジ色は用具室を一層薄暗く感じさせる。膝を抱えて顔を押し込んだ。ガラリ、扉が開いた。


「みっけ」
「…っく、……っ、」
「何してんの、1人で」
「うるさっ……、かんけー、ない、っ…でしょ」
「大アリでしょ。俺らの大事なマネージャーだもん」


ごそごそと幕が擦れる音がする。近くに感じる温もりで、及川もこの空間に入ってきたんだと分かる。抱え込む腕を取られて引っ張られたら、立てていた膝がペタンと床についた。 そのまま及川に抱きしめられて、ヨシヨシと頭を撫でられる。暖かくて優しくて余計泣いてしまいそうだったから、腕を突っ張って距離をとる。体が離れても尚撫で続ける手に逆らえずあたしはまた泣いた。手の甲で目を押し当てて、溢れる涙を食い止める。小さな隙間から救いきれなかった雫が流れていった。


「名前」
「…ふっう、っく、」
「名前、」
「なっ、……に、さ」
「ありがとう、ずっと」
「……っ、」
「一緒にいてくれて、ありがとう。おかげで俺、ここまで来れたよ」
「……うっ…」
「あれ、なんか別れの挨拶っぽくなっちゃった?でも違うからね。これは選手として、マネージャーを頑張ってくれたお前にずっと言いたかったことだよ」
「…も、やだあ!及川ぁ…っ、なんでっ、そんなこと…言うのぉっ!」


バカじゃないのバカじゃないの。なにがありがとうなの。あたしはほんの少し手伝っただけ。少しでも練習に力を入れられるように手助けしただけで、みんなはあたしなんかよりずっとずっと頑張ってたよ。あたしの方が、みんなにありがとうって言わなくちゃいけないんだよ。たくさん、色んなものもらったんだから。


「ね、これからは彼女として、ずっと俺のこと、支えて?」
「あ、っ、たり…まえ、だよ……!」


及川の声が震えてた。ぼやけた視界で、頑張って笑う及川が見えた。ほんとにバカじゃないの。なに無理やり笑ってんの。泣きながら笑うなんて器用なことあんたに無理に決まってんじゃん。無意識に頬に伸ばした手で流れた涙を拭いてあげた。そしたらその手を絡め取られて、ぎゅと握られる。目を閉じたら唇が重なった。温もりも柔らかさもいつもと同じ。ただ、ふんわり優しい味がする唇は今日はしょっぱくて、少しだけ悲しい味。


「あははっ……名前、ひどい顔」
「及川だって人のこと言えないよ」
「何してんだろね、俺ら」
「ほんとだよ、2人して泣いてさ」


笑いながら、いまだ流れる涙をお互いに拭き合う。でも、何もかも失ったみたいな喪失感はすっかりなくなっていた。あたしには、及川がいる。どんな時だって優しく笑ってそばで支えてくれる人がこんなにも近くにいて、想ってくれていたんだった。愛おしくて胸に顔をすり寄せたら、力一杯抱きしめてくれた。大好きな匂いをこれでもかと肺に溜め込んで見上げたら、やっぱり優しく笑う及川がいた。もう潤んでいないその綺麗な瞳に吸い込まれるように顔を近づけて、もう一回キスをした。



いてキス



「なにお前らだけで青春してんだよっ」
「俺らも混ぜろコラ。名前貸せ!」
「嫌だね!まっつんもマッキーもあっち行って!」
「おめぇだけのマネージャーじゃねんだよクソ川!礼くらい言わせろ!」
「岩ちゃんでも名前は譲れな、あっ!」
「おーおー、泣き顔カーワイ!」
「ちょっとマッキー触らないで!」
「ありがとなー、3年間」
「大変だったろ、お前も。でもおかげでいつも全力出せた。まじでありがとうな」
「あーー!まっつんと岩ちゃん名前泣かせた!何してくれてんの!」