漫画みたいなキス



「大丈夫か?」
「うん、ちょっと焦った」
「ゆっくりやるべー」
「早く部活行きたいよね、ごめん。話しかけちゃったし」
「気にすんなってそんなの。#nam1#と話せて楽しいよ、俺は」
「…そ」


顔を向けたら、待ち構えていた笑顔に不意を突かれてまともな返事が出来なかった。頭の中が途端に騒がしくなり、手が小さく震えだす。これじゃぁまた針をぶっ飛ばしてしまいそうだ。どうにかして落ち着けなくては、と思考を巡らせるも特に解決策は思いつかず、ピーと印刷終了を知らせるプリンタに助けられた。


「あ、終わったっぽいな」
「私、取ってくる」


助かったと思いながら立ち上がる。刷られた直後の紙の束はずっしり重く、ほんの少し温かい。終わりが見えてきていたプリントの山にそれらを乗せ、仕事を再開した。再び静かな空気が訪れる。菅原という存在に気をとられながらも黙々と作業を進めること30分、漸く全てのプリントをまとめ終えた。「終わったー」「おつかれー」と、伸びをしてから流れで軽くハイタッチをしてみたりして、なんだか仲良しみたいだ。ホッと温まる胸に思わず笑みがこぼれた。出来上がったものを二人で数学準備室へ運ぶと、先生は礼と共にチョコレートを一つずつ私たちにくれた。


「えっ」
「どうした名字」
「私たちの努力ってチョコ一個分なんですか」
「なんだ、もっと欲しいのか?」
「だって一時間もかかったのに…」


別に本当に欲しかったわけではなく、冗談で言ってみただけだ。適当に笑って流してくれればいいものを、この教師は「そうか、そんなにチョコが欲しいのか」とほくそ笑みながら引き出しに手をかけた。


「はい」
「…は?」
「掲示物これに差し替えといて。そしたらチョコ3個やるから」
「違う、先生そうじゃない、そうじゃないです」
「楽して物を手に入れようとするのはイカンぞ!これも社会勉強だ」


私は別に仕事を増やしてまでチョコが欲しいというわけではない。そういうことじゃない、ともう一度嘆くも、担任の顔から笑顔は剥がれなかった。このバカ担任、いつか覚えていろよ。負け惜しみでしかない台詞を心の中でだけ叫び、背中を押されるがまま数学準備室を出た。さて、どうしたものか。私の隣に立っている人物の顔が、見れない。


「あの、本当に大丈夫だから、部活行ってください」
「いいって。それに、上の方届かないだろ?」
「椅子の上乗るし!あたしの余計な一言の所為で増えた仕事だし、これ以上部活遅らせる訳にいかないし…!」
「いーからいーから。ほら、貸して」
「あっ、」


耐え切れず勢いのまま頭を下げるも、彼は颯爽と私の手からプリント達を引き抜いていった。慌てて追いかけ奪い返そうと試みたけれど、ひらひらと私の頭上を左右する彼の手は掴めない。そうこうしている内に教室の前に到着してしまった為、素直にごめん、ともう一度謝った。「気にしすぎだっつーの」なんて笑ってくれる彼は実に爽やかだ。その笑顔で罪悪感が消し去られ真っ白になった頭は、菅原はさぞ女子受けもいいことだろうとまたどうでもいい事を考え始めるのだ。


「なんかついてる?」
「……泣きぼくろ」
「そんな珍しい?」
「やけに似合うなーと思いまして」
「なんで敬語」
「嘘。ほんとは、菅原さんかっこいいなと思って少し見とれていました」
「なんかすごいことさらっと言うな」


どうにも私には「恥らう」ということが出来ないらしい。こういう時、視線をそらしたり何でもないなどと言って顔を赤らめ俯いたりすれば可愛いのだろうが、分かっていても出来ないことはある。残念ながらこんなふざけた反応しかできない私だが、まあおかげで彼が照れくさそうにはにかむのを見逃すことはなかったし、結果オーライだ。どくどくと早打ちのビートを刻む胸を落ち着かせようと小さく息を吸って吐き出した。画鋲をひとつひとつ外して、貼り付けられていた紙を取っていく。上下二列になって並ぶ掲示物の下段は私、上段を菅原が担当した。外しては新しいものをつけ、右から少しずつ左側へ進む。菅原も同じ作業を、左から右へ進みながら繰り返す。半分ほど張り終えたところで、ちょうど菅原と重なるような形となった。すぐ後ろに体温を感じて、顔の横から上に伸びる腕がそこにある。避けた方がいいだろうか。いや、意識しすぎか。ぐるぐると巡る思考は私の動きにストップをかけ、プリントを握る手がじんわりと汗をかきだした。頼む、早く終わってくれ。ほんの数秒の作業が果てしなく長く感じる。紙を握り締めている部分に皺がいくつも入った。


「あ、あの」
「ん?」
「いや、その、もう張り終わってる、よね?」
「うん」
「なら、えーと、ちょっと横にずれて欲しい、かもしれない」


スローモーションのようにも見えた作業がやっと終わり、菅原の手の平が貼られた紙の皺を伸ばすように表面をひと撫でする。そしてゆるゆると上から降りてきた手はちょうど、私の顔を挟むようにして止まってしまった。右も左も菅原の腕しか見えなくて、背中がじわじわと熱を吸収していく。ずれて欲しいと言ってはいるが、別に自分がしゃがんでしまえばここから抜け出すことなんて簡単にできる。しかしそんな選択肢は頭の隅の方へ追いやられてしまい、あってないようなものと化している。今あたしの頭を駆け巡るのは、ここで振り返ればあの綺麗な顔を真近で見れるのではという、自ら穴に落ちにいくも同然のことだけ。ゴクリと唾を飲み込んでゆっくり身体を回転させる。正面に向き直り、つま先を見ていた視線を上にあげると、先ほどとはまた違う笑みを浮かべる菅原がいた。薄く細められた目と、ゆるく弧を描く唇。その表情があまりに色っぽくて息をのんだ。落ちていく。ものすごいスピードと、勢いで。


「こんなことするようにも、見えなかった?」
「…まぁ」
「#nam1#、今ちょっとドキドキしてるだろ」
「菅原はちょっと楽しんでるでしょ」
「うーん、少し」
「あ、そ…」
「なぁ、なんで抜け出さなかったの?」


思わず目を逸らした。これまで欠片も姿を見せなかった羞恥が私を呑みこんでいく。バレている。彼は私の考えていることを見抜いた上で、聞いてきている。じゃなきゃ、今この状況でこんなこと聞くのはおかしい。今日二回目のパニックだ。なんと答えるのが正解なんだ。


「耳まで真っ赤」
「黙って」
「分かった」


あまりにもあっさりそう言ってのけるので、こちらが拍子抜けしてしまった。人間とは不思議なもので、反論されれば困る物事ほど、簡単に受け入れられると物足りなさを感じてしまう。そしてほっと胸を撫で下ろすか、はたまた何か裏があるのではと考え込むか。今の私は後者だ。当初想像していた通りの菅原ならば前者になり得たかもしれないが、そうではないと今日知ってしまっている。恐る恐る顔を上げた。菅原は真っ直ぐに、私を見据えていた。


「やっと顔あげた」
「菅原、近い」
「これからもっと近づくけど、嫌なら逃げろよ」
「思ってないくせに。…逃げるなんて」
「うん」


今日いち爽やかな笑顔だ。あんなにも心きらめいたその表情が、今は少し憎らしい。しかし可愛げのない言葉を紡ぐこの口はもう封じられている。温かく柔らかい優しい熱で接着された唇はただ純粋に、そのことを堪能していた。やがて触れ合うだけでは物足りなくなり、さらに奥へと侵入してくる熱はどんどん温度をあげて私の思考を侵していく。目が合っただけで恋に落ちる。そんなの漫画の世界でしかないことだと思っていたけれど、それはもう過去の話となったようだ。



みたいなキス