約束のキス
3年間育んでくれた温かな場所を巣立つ寂しさとこれから迎える新しい道への期待を胸に卒業した学び舎に、まさか2週間ぽっちで再び訪れることになろうとは。職員室へ入ればそれに気づいた元担任がにやにやしながらこちらへ向かってきた。「おう#nam1#、どうした、また1年からやり直しに来たのか?」
「失敬な。付き添いです」
「…あぁ、岩泉か。お前ら仲良かったもんな」
先生の言う仲が良いとは単なるお友達の仲良しこよしではないことを知っているあたしは、その言い方が妙に恥ずかしかった。間違っては無いけどね、仲良しだし。
「あいつ東京の大学行くんだって?」
「はい。来週にはもう発つので、その前に挨拶したいって」
「そうか。寂しくなるな」
ひとつ向こうの教卓で担任と話す岩泉を先生と二人で見やる。寂しくなるな、そうポツリとつぶやかれた言葉はそれなりの重さを纏ってあたしの中に沈んでいった。
「悪い、待たせた」
「いいよ。話せた?」
「あぁ。ありがとな」
「あたしも先生と話せたから良かったよ」
「そうか」
職員室を出て帰ろうとする岩泉の腕を引っ張って、ついこの間まで歩いていた廊下を進んでいった。ほんの少し前は毎日見ていたのになんだか新鮮に見える。二手に分かれた廊下を右に曲がれば、上の方に「3−5」と書かれたプレートが姿を現した。
「そんな間空いてねぇのに、すげぇ懐かしいな」
「あたしもそれ思った」
「中学ん時は卒業しても何とも思わなかったけど、高校はちょっと、違う気ぃする」
「そりゃぁね。内容の濃さが違うでしょ」
「まぁな」
そう言って彼が目を向けたのは教室後方の窓だった。卒業式の日、殆どの生徒は帰ってしまいシンとした廊下を歩いているとき目に入ったはためく白いカーテン。それを留めようと入ったこの教室は誰かが閉め忘れた窓から入る風のせいで少し冷えていた。小走りで駆け寄り窓に手をかける。ふとグラウンドを見渡せば色んな思い出が浮かんでは消えていく。前夜祭の花火を一緒に見たことや体育祭のクラス対抗リレーで声が枯れるほど彼の名を呼び応援したこと。球技大会では気持ちの良いホームランをバレー部の後輩から打っていたっけ。彼と過ごした3年間は本当にあっという間で、本当に楽しかった。最高に気の合う男友達。いつしかそれが変化していき別のものになったと気づいたのは3年生になってからだ。結局最後まで言い出せなかったけれど。どうせなら最後くらい一緒に帰りたいとこの時間まで残っていたけど姿を見せない彼は恐らくもう帰ってしまったんだろうな。まぁその方が吹っ切れていいだろうと断ち切るように息を吐いて窓を閉めようとした時だ。ほんの少し遠くから、声が聞こえたのは。
「あの、東京行ってしまうのは、知っているんですけど…その、ずっと、好きでした、岩泉先輩のこと」
「…悪い、」
「い、良いんです!付き合いたいとかではなくて、ただ…伝えたかっただけなので」
「そうか。…ありがとな」
「いえ!言えて良かったです!バレー続けるんですよね?応援してます!」
「おう」
「それじゃぁ、さよなら」
その明るい声の持ち主はとても軽やかに別れを告げて去っていったようだった。なんてすごい子なんだろうか。気持ちが報われなくても伝えたかった、それだけで充分だなんてどういう風に育ったらそう思えるようになるんだろう。これだけ一緒にいて仲良くしているのに大事なことは言えていない自分がとても情けなく思えてきた。どうしよう、今なら間に合うかな。まだきっと岩泉はそこにいるはず。呼んだら気づいてこっちに来てくれるだろう。どうせもう会うことはないんだ、あたしも言ってしまおうか。見知らぬ彼女に背中を押されて前に進もうと、顔を窓から出せば案外すぐそこに岩泉はいた。
そして彼もまたこちらに歩きながら顔を上げたところで、バッチリと目があった。
「…#nam1#、なにやってんだ」
「えっと…なんだろう」
「知らねぇけどよ…」
「とりあえず、高校生活最後の告白お疲れ」
「聞いてたのか」
「悪気は無かったから許して」
いつものようにふざけてそう言うと岩泉はホッとしたように笑った。あー、やっぱりダメかも。言えないや。今後会うことはなかろうとメールや電話くらいのやり取りはたまにでいいからしていたい。だけどここで告白してしまえばそれすらなくなってしまうかもと余計な心配が胸中を渦巻く。さっきまでの勢いにフタをしてしまった。会話が無くなってしまったあたし達の間を風が通り抜ける。ふわりと舞ったカーテンがあたしを覆うようにしてその勢いを無くす。あたしと岩泉。たった二人だけの空間のようだった。
「…あのさ、」
「なに?」
「俺、東京行くけど」
「うん」
「でも、やっぱり言いてぇから言うわ」
「なにを?」
「お前が好きだ」
あのとき、体が内側から熱くなっていくのがよく分かった。その後に続いた「付き合ってくれ」に思い切り頷いて、思わず岩泉を抱きしめたんだった。なんて大胆。まぁそのくらい嬉しかったというわけで。卒業から2週間、それはつまり、あたしたちが恋人として過ごした日数でもあるのだ。
「どうした、名前」
「…んーん、なんでも。帰ろう」
「もういいのか?」
「うん」
ボーっとしていたらしい。呼びかける声に目を醒まして、早々に教室をでて昇降口へ向かった。これ以上ここにいたら離れ難くなってしまう。ここからも、彼からも。名残惜しい気持ちを抑えて少し早歩きで校門を出ると「何急いでんだ」と後ろから不機嫌な声が飛んできた。ピタリと足を止めて岩泉があたしに追いつくのを待ってから、隣に並んだ彼の手をとってもう一度歩き始めた。
「荷物は?」
「もう全部詰めた」
「早いね」
「まぁ、そんな物ねぇしな」
「そっか」
もっと話していたいのに、今日は何故だか口が重い。この手も来週には繋げなくなるんだからしっかり感触を覚えていようと思うけど頭は中々そうさせてくれなかった。最後の最後まで地元の大学と東京の大学で迷っていたのは知ってる。悩んだ末に出した答えを聞いて笑っておめでとうを言えた当時のあたしは今の自分より大分大人だなぁと今になって思った。確かに、大学でまた及川と一緒にバレーができるというのはあたしも嬉しい。あの二人のバレーボールはあたしも好きだったからだ。でも、何かがひっかかる。喉につかえたそれがいつもあたしの邪魔をして言ってあげたいことも言ってあげられず、笑ってあげたいのに笑えない。向こうへ行ってしまう日が近づくに連れて何もできなくなっていく自分が嫌で、岩泉と会うのが嫌だ。けど会えないのはもっと嫌だ。こんな空気で一緒にいたって楽しくもなんともないのに、あたしは本当に我侭で自分勝手な女だ。彼氏のこと心から応援できないなんて恋人失格じゃんか。
「おい」
「…なに?」
「お前これからウチ来い」
「え、なんで」
「いいから」
「やだ行きたくない」
「なんでだよ」
「…何となく」
「理由ねぇなら連れてく」
「ちょっと…!」
家までもう少しというところで腕を掴まれ、ものすごい勢いで歩いていく岩泉について行くしか選択肢はなかった。さほど遠くない岩泉の家に着いた頃には情けないことに息が上がっており、しかしそれを整える間も無く中へ押し込まれる。玄関に靴がないからご両親は留守のようだ。未だ掴んだ腕を放さないまま、あたしが靴を脱ぎ終わるのを待ち再び引っ張るようにして歩く。どしどし音をたてて階段をのぼりあっという間に岩泉の部屋に放り込まれた。少し大げさな音をたてて扉が閉まる。
「お前な、言いたいことあんなら言え」
「え、ないけど…」
「嘘こけ、あんだろーが。それなりに」
「ないってば」
目を逸らしたことでそれは嘘だと公言しているも同然だけど、それでも頑なに「無い」と言い張るあたしに岩泉は大きくため息をついた。ナナメに向けた顔を両手ではさまれて、無理やり向かい合わせにされた。あたしを見る岩泉の目、それを見ただけで泣きそうになる。
「東京行くっつったとき、お前がおめでとうって言ってくれたの嬉しかったんだけどちょっとガッカリした」
「なんで」
「なんつーか、どっかで期待してたんだろな。ちょっとくらい残念がれやって思った」
「岩泉実は性格悪いの?」
「うるせぇな。お前にだけだよ、ンなこと思うの」
「それってどうなの」
「でもまぁ考えてみりゃそんなことしねぇのがお前だなとも思った」
「うん」
「嫌だとか行ってほしくねぇとか、どうせ言えったって言わねぇだろうし」
「…うん」
「でもせめて、寂しいとか悲しいくらいは言えよ」
「じゃねーと俺が寂しいから」そう言って笑う岩泉はいつもの男らしさに優しさがたっぷり含まれていて、とても大人な顔をしていた。それを見た瞬間につかえていたものがストンと落ちていった気がして、息の通りが良くなった気がする。なんだ、言っていいのか。そっか。寂しいって、言っていいんだ。
「……さびしい」
「おう」
「…かなしい」
「俺の言ったことそのまんまかよ」
「つらい」
「俺も」
「でも、嬉しい」
「どっちだよ」
「応援してる」
「ありがとな」
「でも……さびしぃっ…」
溜め込んでいた気持ちが溢れ出ていく。寂しい、悲しい。辛い苦しい。でも嬉しいのも本当、応援してるのも本当なの。頑張ってる岩泉がすき、笑ってる岩泉がすき。その岩泉に会えなくなるのは嫌だ。もっと一緒にいたい。声を聞いていたい、手を繋いでたい。ぽろぽろ落ちていく涙が、カーペットに沢山水玉を作った。
「やっと、付き合えたのに…」
「そーだな」
「一緒にいたい」
「俺もいたい」
「でも…とうきょう、いってほしい…から、」
「うん」
「とおくても、すきなのはっ、かわんないから、」
「そうだな」
「だから、だからね、」
なんだか支離滅裂だ。でもこんな状態でまともなことなんて言ってられるわけがないから仕方ないとしよう。話のつながりなんて無視して兎に角思ったこと全部を口にした。そうしているうちに自分の中で一体なにがこんなにあたしを悲しくさせているのかが分かった気がした。
「あたしのこと、わすれないでね」
結局のところこれが言いたかったんだ。離れることが悲しいのではなくて、離れることでようやく通じた想いが薄れていってしまうことが怖かったのだ。大学へ行けば沢山の人がいるだろう。只でさえ人口の多い東京という場所なのだから、ココより遥かに多くの出会いが彼を待ち構えているはず。色んな人との繋がりが出来ることで、彼の中からあたしがいなくなってしまうのではないかということが不安でたまらなかった。いつも会えなくたっていい。声が聞けなくたって我慢できる。ただどうか、あたしという存在はいつも傍に置いておいてほしい。それだけで充分だから、「わかった」って言って
安心させてほしかった。それだけなんだ。
「お前はバカか」
「…ひどい……」
「忘れるわけねぇべよ」
「…わかんないじゃん」
「わかる」
「うそつき」
「嘘じゃねぇよ。ンな生半可な覚悟で好きっつったんじゃねぇ」
最後の方は声が小さくなっていって良く聞こえなかったけど、あたしを抱きしめる腕から彼の気持ちがひしひし伝わってきた。もっと強くていい。痛みが、感触が残るくらいキツく抱きしめてほしい。それをあたしの中に刻みこんでいきたいから。
「お前こそ忘れたくても忘れらんねぇくらいメールも電話もしてやるから覚悟しとけよ」
「…ほんとかな」
「やるっつったらやる」
「そっか」
ようやく笑えた。彼もそれを察したのか、抱きしめていた腕を緩めて体を少し離した。こんなぐちゃぐちゃな顔見られたくないのに、俯けようとした顔はあっけなく彼の手によって阻止された。すげぇ顔、って笑う岩泉。だから見せたくなかったのに。親指で少し乱暴に涙を拭われて思わず目を閉じた。それを見計らったようにグっと顔を引き寄せられておデコがくっついた。
「3年間ずっと好きだったんだぞ。なめんな」
約束のキス
時刻は10時32分。新幹線のドアは、岩泉の背中のすぐ後ろにある。小さめのキャリーバッグの持ち手を掴んでいた手がそれを離れ、あたしの髪を優しくなでた。
「いいか、溜め込むんじゃねぇぞ」
「わかったって」
「会いてぇ時は言え。3回に1回くらいは行く」
「あはは、来てくれるんだ」
「おう」
「ちゃんと食べてね」
「わぁってる」
「頑張りすぎないこと」
「そりゃお前だ」
「どうだか」
「…それじゃ、な」
「うん」
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」