放課後の春

「復活早々サボりとは」
「おはよう」
「うん、おはよう」



青空の下、誰もいない屋上に友人と二人きり。階下の教室では皆、眠気と闘いながら1時間目の授業を受けているんだろう。本来であれば私もその生徒たちに仲間入りしていたはずだった。けれどそうならなかったのは、なんでだろう、とりあえず、天気が良すぎたからということにしておこうか。友人が隣に、私と同じようにあぐらをかいて座る。長くて茶色の髪がなびいた。



「今度はどうした」
「うーん」
「惚気は聞きたくないけど、悩みなら聞いたげる」



そう言って笑う彼女には、先週あった色々をすべて話した。私の軽率な行動のことも、自分勝手な振る舞いもその後の結末も。話している最中に段々顔がしかめられていくのが分かったけれど、全部話した。烈火の如く怒られたのは言うまでもない。もっと自分を大切にしろだとか、なんで何も言わなかったんだとか、まぁ諸々だ。それでも最後には笑って、良かったねと一言、手を握りながら言ってくれた。それがまたどうしようもなく温かったものだから、涙がこぼれた。日曜日の昼下がり、カフェの隅っこの席で泣き出す私と、慰める友人は大層目立っていただろうなと思う。



「なんか、どうしていいか分かんない」
「何が?」
「一静とどんな顔して会えばいいんだろ」
「ぶは」



真剣な悩みなのだ。それなのに隣の彼女は勢いよく噴き出した。ゲホゲホとむせてまでいる。返答はしばらく見込めないので、仕方なくその背中をさすってやった。



「何言ってんの今更」
「だって、」
「普通にしてりゃいいんだって」



それが難しいから、こうして授業をサボってしまう程度には頭を抱えているんだということを、彼女は恐らく分かっていない。いや、分かっている上で言っているのか。どちらにせよ、いまの私にその回答を素直に飲み込むことはできない。お互いの気持ちを知り、伝え、一静と所謂「恋人同士」になったのは先週の木曜日のこと。金曜日には私も登校していたけれど、向こうは部活で朝も帰りも時間が合わないので会うことはなかった。幼なじみだった頃からそう頻繁に連絡を取るような柄でもない。暇なときは何をしているかだとか、そういうことも大体分かってしまっている為、今何してる、なんてメールを送ることなどないし、生活リズムがまるで違う私たちは週が明けた月曜日の今朝に、廊下で漸く再会を果たしたのだった。「おはよう」「おはよ」。以上が、恋人となって初めて交わした言葉である。



「倦怠期かよ」
「笑えない」
「不器用すぎて笑える」
「笑えないってば」
「ごめん、もっかい笑っていい?」



いいよ、なんて言ってないのに。もう一度声をあげてひとしきり笑った後、彼女は長く息を吐いた。



「深く考えすぎ」
「笑いすぎ」
「それはごめん」
「…付き合うって、難しい」
「そうでもないって」
「そうでもある」
「とりあえず会ってみな」
「…無理」
「大丈夫だって。アンタが考えてるより、ずっといいもんだから」



一静の顔を思い浮かべてみる。どう考えても無理だ。こんな、脳内で描く一静にさえ緊張してしまうのに、実際に会ったら私は何一つ話せないどころか目さえ見れない気がする。それのどこにいいことがあるというのか。気まずい空気にしかならない。疑いの眼差しを向ける私の手を友人が引っ張る。立ち上がり、屋上の扉を開けたと同時に、授業終了のチャイムが鳴った。



「ほれ、進みなさい」
「……」
「素直になるのが、幸せへの近道よ」



教室へ続く廊下で直立不動となった私の背を押しながら、そんなことを言う。それは一体なんの小説の台詞だ。睨みつけるよりも、私たちの教室を覗く長身の男子生徒に彼女が声をかける方が早かった。松川、と呼ばれた彼がこちらを振り返る。全身に力が入った。



「なに、お前ら二人どこいたの」
「屋上でだべってた」
「お前ね、俺の彼女のこと不良にしないでくんない」
「失礼すぎるだろ」



軽く、一静の腹にパンチをいれて彼女は教室に入っていく。お前の友達怖ぇな。後ろ姿を指差しながら言う一静に、真顔のまま頷いた。



「何話してたの?」
「なんか、天気がいいね、とか」
「年寄りかよ」
「ほんとね」



自分でも驚くほど下手くそな嘘に笑えてしまった。どうしよう、何を話せばいいのだろう。足元に視線を落とすと、ふいに、一静が私の頭に触れる。大きな手が、髪の間に滑り込んだ。



「暖かくなってる」
「う、ん」
「屋上、気持ちよかった?」
「うん」



顔をあげ、彼の目をみて頷いた。それきり会話はなくなって、一静は穏やかな顔で私の頭を撫で続けている。私は相変わらず真顔で棒のように突っ立ったまま、友人の言葉を思い出していた。恐れていた無言の空気は、確かに、思っているよりずっと幸せだった。とくりとくりと柔らかな刺激を送る鼓動は、その回数の分だけ彼を好きだと言っているみたいだ。



「ちょっと、いつまでやってんの」



廊下のど真ん中で見つめあう奇妙な二人に、友人の呆れたような声が飛ぶ。そこで私たちは漸く現実に戻り、一静は手を離し、私はそこに残った温もりを確かめるように髪を撫で付けた。予鈴が鳴るまで、あと5分もない。



「次はちゃんと出るんだろ?」
「うん」
「寝るなよ」
「あ、いっせ、い」



教室へ向かおうとする彼の袖を思わず掴んだ。一緒に、帰ろう。のど元まで来ているのに、なかなか外へ出て行かない。あの、だとか、えっと、だとか、そんなどうでもいい単語ばかりがこぼれていく。素直になるのが、幸せへの近道よ。友人の言葉は、チャイムの音にかき消された。



「迎えに来るから」
「え、」
「帰り。教室で待ってて」



ふわりと笑って、一静は少し離れた自分の教室に向かって歩いていった。言わなくても、分かってくれる。これまで当たり前だったことが、今はこんなに嬉しいだなんてどうかしてる。教室入れ、と後ろから聞こえた声に振り返ると、先生が目を見開いて「顔真っ赤だぞ、熱でもあるのか」と口にした。先生、私、どうも重症らしいです。



「いよいよね」
「緊張して吐きそう」
「報告よろしく」



帰りのホームルームが終わり、帰路に着く生徒や部活へ向かう生徒たちは教室を出て行き、掃除当番の男女たちはだるそうに箒を床に滑らせている。大層楽しげな友人はそう言葉を残し、さっさと帰っていってしまった。二度、深呼吸をする。席を立ち、窓の向こうの校庭へ視線をやった。サッカー部員が黄色と赤のビブスをつけてミニゲームをしている。右へ左へ流れるボールを只ひたすらに目で追った。



「名前」



未だざわざわと落ち着きのない教室でも、彼の声はしっかりと通った。優しい、ひだまりみたいな暖かい声音。振り向けば、入口の壁に片手をついてこちらを見る一静がいる。帰るよ、と言う彼に小さく頷いて、小走りで駆け寄った。



「あれー、松川帰んのー?」
「おー」
「そっかー、じゃぁなー!」
「また明日な」



昇降口までの間、彼はこうして誰かしらに声をかけられていた。クラスメイトやチームメイト、後輩にとあちこちから一静を呼ぶ声がする。中には女子もいたりして、彼は意外と顔が広かったんだということを知った。高校に入ってからほんの数回帰り道を共にしたことはあれど、その時は大して気にしたことがなかった。関係が変わると見えるものも違ってくるのだろうか。靴を履き替えながら、ひとつ向こうの下駄箱でやはり誰かに声をかけられている一静を見てそんなことを思った。



「あっついな」
「そう?」
「まぁ、もーすぐ夏だし、こんなもんか」
「うん」



私は彼の二歩後ろを歩く。あちぃ、とまた呟きながら、ネクタイを緩めているのが分かった。最近は日も長くなった。もうすぐ16時になるか、まだまだ空は水色をしている。隣に並ばずにこうして少し後ろを歩くのは、彼に視線を向けてしまっているのを本人には知られないからだ。彼のことがどうしようもなく好きで、だけどそれを伝えられずにいた頃の私が考えついたもの。あの時のはこの位置に満足していたけれど、いまの私は、どうだろうか。いつもより少しだけ歩幅を大きく踏み出してみる。二歩だと思っていた距離が、なくなった。



「……」
「……」



一静は何も言わない。隣に並んで歩くときは、一体どんな顔をして彼を見上げればいいのだろう。どういう風に話をすればいいのだろう。その時、私はどこを見ていたらいいのだろう。分からないことだらけだ。黙々と歩く時間が続く。コツコツ。ニ足のローファーの音が少しだけずれて聞こえる。足先を見つめる目の端で、ふらふらと揺れる自身の手と、それより何回りも大きい一静の手をとらえた。下唇を噛みながら、静かに、微かに体を寄せる。制服越しに、腕と腕が触れ合った。左手をほんの少し持ち上げる。彼の大きな手の小指と薬指を、握った。



「…暑いな、今日」
「…うん」



とても、穏やかな声だ。意を決して一静を見上げた。彼の顔は私とは逆の方へ向けられていて、恐らく私が見ていることには気づいていない。少しだけ赤く見える耳。左手は意味もなく襟足を撫で付けている。照れ臭くなったときの、一静の癖。どうか加速する鼓動が、この手を通じてバレませんように。彼を見上げていた顔を、急いで反対側へ向けた。