きらきらひかる

自身の腕の中で閉じられた目を見ていた。さっきまで、この後のデートのことをとても楽しそうに話していたのに。着替えなくちゃ、と言う割に、俺が巻付けた腕から抜け出す素振りは見せなかった。そのまましばらく何も話さずにいると、彼女は肩を小さくゆっくり上下させ、静かな寝息をたてはじめたのだった。



「名前」



腕の力を緩め、彼女との間を少しだけ空けた。そうしないとその寝顔が見れないから。流れる髪を耳にかけてやる。とても穏やかな顔に思わず笑みがこぼれた。そういえばさっき、夢と現実を行き来しているような、眠りの淵をうろうろしていた時に、遠くの方で彼女が俺の名前を呼んだような気がしていた。もしかしたら、彼女も今の俺と同じような気持ちで、寝ている俺を見ていたのかもしれない。起こしたいわけではない、ただなんとなく、その名前を口にしたくなる。紡がれた言葉が声となり、耳を通り抜けていく。頭に優しく響く彼女の名前が、体中に温もりを運んでいく。名前ひとつ呼ぶだけでこんな気持ちにさせるなんて、お前は一体何で出来てるの。これ以上この顔を見ていたら朝から幸福に押し潰されてどうにかなりそうだから、起こすか抱きしめるかしよう。迷う間もなく選んだのは後者で、再び細い体を引き寄せた。昨日の夜、俺の腕の中で、上で、下で、散々ぐちゃぐちゃにされた身体。壊れそうだなと思いながらも緩めることができない力を全て受け入れてくれる小さな身体。滅多に疲れた顔などしない彼女が、最近はよく魂の抜けた表情をしていた。ほんの一瞬、でも、俺が気づくのには十分過ぎるほど。何があったかなんてことは聞かない。聞いたって言いやしないし。仕事をしていれば、誰だって陥ることだ。一生懸命になればなるほど上手くいかなくなる。彼女はガス抜きが下手なのだ。真冬の、点々と煌めきが広がる黒い空の下で、繋いだ手にさらに力を入れながらぽろぽろ玉のような涙を落としていく彼女に、漸く泣いたかと安堵する自分がいた。



「……寝ちゃってた…」
「おはよう」
「…はやく準備しなきゃ、電車混む…」
「じゃぁ起きようか」
「……起きる」



なんだか少しだけ残念な気もしたけれど、彼女の体を解放してやる。もぞもぞと動いて布団を持ち上げた名前が、ゆっくりとまた同じ位置に戻ってきた。さっきよりもキツく、布団を巻付けて。



「こらこら、何してるの」
「……寒かった」
「そりゃ冬だからね」



うぅ、と小さく唸るのは子供みたいで、ついつい笑いが声にでた。全く、仕方がない。寒いのは俺だって同じなのだけれど、こうしていてはまた眠ってしまうのがオチだ。久しぶりに二人で出かけるのだ。恐らく名前が思っている以上に、俺はそのことにはしゃいでる。余裕な素振りで布団から出て、もちろんめちゃくちゃ寒かったけど、それはどうにか隠してエアコンの電源をいれた。あと10分もすれば、彼女も起きてこられるくらいの室温にしてくれるだろう。ボサボサの頭はあとでなんとかするとして、いつものマグカップにコーヒーの粉末をいれておく。朝食は外で食べるはずだから、用意はしなくていいだろう。給湯器のリモコンの運転ボタンを押して、洗面所へ向かった。昨日寝たのは朝方であまり睡眠はとっていないはずなのに、鏡に映る自分は寝不足を感じさせない顔をしていた。締まりはなくてゆるゆるだけれど。朝から幸福成分を摂取しすぎた所為だ。これじゃぁイケメンが台無しだぞとふざけながら、蛇口を捻って出てきたお湯を顔にぶつけた。最後にきんきんに冷えた水で顔を引締める。歯を磨いて、少しだけ伸びてきた髭を剃って、眉まで整えたりして、準備を整えた。再びキッチンへ戻り、用意していたマグにお湯を注いでから彼女のいる寝室へ入った。



「…ちょっと、」
「あ、おかえり」
「なんでまだ布団の中なわけ」
「ねぇねぇ、見てこれ」



こっちの話なんぞ聞いていないらしい。あくまで自分の話を続行する名前に仕方なく付き合うことにして、カップはテーブルに置いた。差し出された携帯は誰もが使っているメッセージアプリの画面で、相手は彼女の親友だった。綺麗な朝日の写真が送られて来ている。



「朝ランしてきたんだって、岩泉くんと」
「まじ?」
「真冬なのに、あの二人なに考えてんだろ」
「同棲始めたばっかで舞い上がってるんじゃない?」
「そうかも」



根が真面目すぎる故、いつものあの男らしさはどこへ行ってしまったのか、珍しく足踏みしていた幼馴染の背中を名前と二人で押し続けること1ヶ月弱。漸く踏み込めた彼らは今まで以上に、上手くやっているようだ。こんなクソ寒い中走る神経はちょっとよく分からないけど、アクティブな二人らしいと言えば二人らしい。新しいメッセージの吹出しが出たので名前へ携帯を返す。テーブルのコーヒーはまだ湯気がでていた。



「このあと、ご飯食べたらドライブ行くんだって」
「二人も今日休みなんだ」
「そうみたい」



カップに口をつけながら、自分の携帯で天気予報の画面を呼び出す。気温こそ低いけれど、今日はとても天気がいいらしい。ドライブ日和ってとこだ。がさがさと布団の音がして、彼女はやっとベッドの外へ。それから隣に腰を下ろして、ぴったりと体を寄せてきた。あぁ、また、動きたくなくなるなあこれは。時間は刻々と過ぎていく。



「ねぇ」
「なに?」
「私たちも、ドライブしよう」
「どっか行きたいとこあるの?」
「特にないけど、」
「ないのかよ」
「久しぶりに、運転してる徹くんが見たい」



顔を左下へ向ける。腕にもたれかかる小さな頭が動いて、彼女も俺を見上げた。無言の見つめ合い。恐らく名前はいいよって言ってくれますようにと祈っているんだろうが、そんなもん答えは言われた瞬間から決まっている。それじゃぁなんでそれを口にしないかって、焦らした方が極上の笑みをくれるってことを知ってるからだ。じぃ、と向けられる強い視線が俺を刺激する。ブーン、とエアコンの音だけが室内に広がっている。



「分かった、いいよ」
「ほんと?ありがとう!」
「うん、だから早く準備しておいで」



言った瞬間に眩しい笑顔を弾けさせて、頭を擦りつけてくる。そのてっぺんに軽く口づけてやれば、大層嬉しそうな顔の名前とまた目があった。額にも、と顔を近づける手前で彼女は立ち上がり、小走りで部屋の外へ行ってしまった。羽でも生えて飛んで行くんじゃなかろうか。そのくらい、浮かれているのが見て取れる。それは俺も同じだけど。せっかく水で引き締めた表情も総崩れだ。もう無駄な抵抗はしない。思う存分、腑抜けた顔で今日という日を味わってやろうじゃないか。



「よし、行こっか」
「うん」
「おーい、どこ行くの。駐車場はこっちの階段からだよ」
「あっ、そっか」



玄関を出て鍵をかけ、違う方向へ行く彼女に声をかける。カツカツとお気に入りのブーツを鳴らしながら戻ってきた名前が、ひらりと俺の手を奪っていった。右手が、彼女の小さな両手に挟まれる。左手はキーケースごとコートのポケットに突っ込んで、繋がれた手を握り返した。



「楽しいね」



花みたいに鮮やかに可憐に笑う彼女には、さっきからどきどきさせられっぱなしだ。ひとつひとつを全部写真に撮って収めておきたい衝動を飲み込んで、まだまだこれからだよ、と返す。そう、俺達の今日はこれから始まるのだ。車内のスピーカーから、聞き慣れた音楽が流れる。もう一度だけ彼女の横顔を盗み見て、この後どれだけ沢山の笑顔に会えるだろうなんてことを考えて緩んだ口をそのままに、ゆっくりアクセルを踏んだ。